幕廷の敷地は広く、建物の造り配置があまりに入り組んでいて、油断すれば古参の職員すら迷って戻れなくなる。そのような場所で潔癖の河井が女と共にいるのを深山闇慈が偶然見たのは、確立に表せばどんな途方もない数字が出てくるか分らない。


闇慈と河井は決して親しい間柄ではなかったが、特に反目もしていない。とにかく面識はあった。
そのまま地面に降り立つことの出来る縁側の如き廊下で、闇慈は声も聞こえぬうちから河井の姿を発見した。河井は庭に降り、生け垣の方に顔を向けている。
細黒縁の眼鏡の奥で目を凝らしてみると、紅色の着物の女が河井の向かいで笑っているのが見えた。

美しい女だった。小柄で華奢な様子は可愛らしさが前へ出るものだが、この女は妙な色香を放っているせいで愛らしさが殺されている。しかしその妖艶さに吸い寄せられ全てを食い尽くされても良いとも思える。化けた狐か妖が男を騙しにきたようだと、闇慈は面白がるように口角を上げた。気遣うそぶりもなく、闇慈は用のある方に進んでいく。


女は柔らかに目を細めて微笑している。河井はいつもの仏頂面のようで、何処か居心地が悪そうに見えた。主導権は女にある。
女は笑っている。しかし河井が取り出した一本の煙草に火を灯した瞬間、女の態度は豹変した。

整った顔を不愉快そうに歪め、(しかし美女はそれでも美しいから恐ろしい)ぱっと袖で鼻から下を隠した。袖に覆われた口でくぐもった一言を投げた後、女は河井に背を向けて、さっさと歩いて行ってしまった。後には煙草を咥えたままの河井が残される。


「煙吐かなくていいの?」


背後の廊下より闇慈に声をかけられて、初めて煙草に火が点いていることに気がついたかのように河井はむせ返った。ごほごほと派手な咳が次第に落ち着いてくると、河井は振り返って憎たらしく微笑みを浮かべる細縁眼鏡の男を見上げた。


「いい女だったな。誰だ?」


闇慈の問いかけに河井はフンと鼻を鳴らした。煙草を地面に捨て、ぎゅうと踏みつけて火を消す。


「知らん女だ」
「ふぅん。そういやお前、子供いくつになった?」


廊下に上がった河井は、その言葉を聞くとギッと闇慈を睨み付けた。


「名前も職も知らん女だ。何か妙な勘繰りをしているのなら…」
「お前の女事情なんて誰が興味持つんだよ」


話のタネにもならんとばかりに闇慈はけろりと言う。河井は詰め寄った分の足を退いて、元の位置に戻った。ちっと小さく舌打ちし、ばつの悪そうに庭の方を眺めている。


「人前でポイ捨てするような親父がいたら恥ずかしいだろうなーと思っただーけ」


河井は目を見開いて闇慈の方を振り向き、眉間に深く皺を寄せて睨んだ。闇慈はにやにや笑っている。


「携帯灰皿もないのに煙草なんか吸っちゃ駄目よ」


目を細めたまま闇慈は河井に背を向け、廊下を歩いて行った。河井はその背中を忌々しく見送り、ぶつけようのない苛立ちにわなわな震えた。

彼はただ一本の煙草を吸っただけだ。ただそれだけのことで二人の人間に侮辱を受けたことに納得がいかなかった。納得のいかぬことに反省は出来ない。河井は苛々したまま闇慈とは反対方向に、廊下を歩いて行った。


河井の頭には女の幻影がいつまでもちらついて離れなかった。
飄々とした嫌味な男のせいで余計に強く頭に刻み込まれた。身体のためにと煙草をたしなめた妻の姿ではない。自分を恥に思うやもしれない娘の姿ではない。


女の姿は夢の中のようにぼんやりと霞がかっている。顔の周りだけ霞が晴れ、その美しい顔がはっきりと見えた。

女は紅色の袖をぱっと上げて口元を隠す。小さな鼻も口も紅袖の下に守られている。いつも穏やかに垂れた曲線を描いている眉は、間に深い皺を寄せて、末端はひどく吊り上がっていた。長い睫毛に縁取られた瞳は軽蔑に細められ、真っ直ぐに自分を見詰めている。
袖の下から、鈴を転がすような可憐な声が、不愉快そうに低くなって彼に言う。


「何故訊ねもせずに火を点けるの。そんな臭い物」


ひどく醜く愚かな者に向ける眼差しと声で河井を突き放した後、椛は背を向けて何処かへ歩いていってしまう。

頭の中で椛の背中と優雅になびく細い髪を見送ると、河井は下唇を噛んだ。





『甘味処 野点』と書かれた看板の向こうには、広大な芝生の土地に、あちらこちらに点在する桜の樹と茶屋の腰掛け。
茶店の建物は土地の入り口と奥の方と二つある。茶屋の布のかかった腰掛けと机は、芝中に点在しているのにまだ広々と開放的な景色がある。

そのうちひとつの長椅子に、男が三人並んで座っていた。うち一人が、三色団子をかじりながら、はたと前方に目をやって隣の男の肩を軽く叩いた。


「ねえ、見て見て。すっごい美人」


荘一が指さした方を見ると、惣次はそば茶を啜る手をぴたりと止めた。
右端に座っていた平助が目の上に手をかざして、惣次の肩越しに荘一の指した方を見る。"美人"の姿を確認すると、おおと感嘆の声を上げた。


「連れてんの誰?さすが顔のいい男はいい女連れてるわ」
「男は顔じゃないよ。財力とその安定性だよ」
「金ばっかじゃねーか」
「それに比べて男三人で甘味処なんて来て俺たちは一体何をやってるんだ」
「平助彼女いるじゃん。どうせ頭も尻も軽いけど安い演技で隠したつもりになってるようなのだろうけどさ」
「見たこと無いのに的確すぎる。荘一おっかね」
「おいお前らふざけんな。人の恋人バカにすんのやめろ」
「男を騙して自分により利益のある恋人を捕まえるのは大事な女力でしょ。僕がバカにしてんのはお前の恋人じゃなくてお前の女の見る目のなさだよ」
「荘一おっかね」
「荘一のバカ!もう知らん!絶交!」
「はい絶交入りました−!因みに僕らの絶交最長記録は二日です!」
「幼稚園の頃からの安定した仲良しっぷりに今更縁を切ることなど出来んのだよ…」
「言いだした奴がもう絶交諦めたぞ」
「最短記録4秒が記録されました」
「それより絶交宣言の仕方も幼稚園の頃から変わらぬ安定を誇っておるのをどうにかしろ」
「成長してませんなあ」


三人の数メートル前の、椅子に座る女性が肩を震わせていた。餡蜜と珈琲を置いた机を挟んで、彼女と向かい合っている男が不思議そうに首を傾げる。


「どうかした?」
「後ろの男の子たちが面白いの」


椛は俯いて身体と声を震わせながら、明智の問いに答えた。俯いているせいで長い睫毛が頬に影を落とすのが、ひときわ目立っていた。明智は椛の背中越しに、子供のようにじゃれ合う三人組の姿を見た。


「元気だね」
「嫌だ明智様、子供に言うみたいに」


椛は口元を掌で隠しながら顔を上げ、けらけら笑った。楽しそうな彼女の様子に、明智は満更でもなさそうに笑いかけた。
椛はしばらくくすくす笑っていたが、やがて落ち着いて餡蜜に手を伸ばした。


「職場に来るなんて珍しいね」
「びっくりするかと思って」


明智は砂糖もミルクも入っていない珈琲を口に運んだ。椛は一口頬張った餡蜜を飲み込むと、明智の方を向いてにっこり微笑んだ。


「人の驚いた顔が好きなの」
「悪趣味な子だね」
「だって可愛いわ。嘘も無いし」
「普段からないよ」
「そうかしら」


組んだ両手で頬杖を突き、椛は上目遣いに明智を見つめた。焦げ茶の瞳は何もかも見透かしているように真っ直ぐ明智の黒い目を射貫く。明智の背筋にぞくりと震えが走った。冷や汗が流れるのに、どうしてか口元は綻ぶ。

まるでとても長い時間見つめられていたように感じても、たったの一瞬はすぐに過ぎる。椛はぱっと姿勢を正して明るい笑顔を向けた。


「それに男の人は働いている姿が一番素敵だもの。一度くらい貴方たちが働く姿も見てみたかったの」


うふふ。椛は笑う。明智も笑い返す。会話の主導権は椛にある。


目次
メインに戻る
トップに戻る
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -