旧校舎三階奥の美術室の扉には「オカルト研究会 会長水沼和多留」と達筆に書かれた半紙が貼られている。 中には三人の会員が、教室の広い隙間を埋めるような席に座って、それぞればらばらのことをしている。
「ギャルゲでヒロインの名前が母親と同じなのと好きな子と同じなのとどっちがキツイ?」
中央列最後尾の席でゲーム機をいじりながら神奈が訊ね、
「主人公の名前が父親と同じ」
壁際の真ん中の席で柱にもたれかかり、文庫本に目を落としたまま福也が答える。 すると窓際の一番前の席で数学の教科書とノートを広げている水沼が問題を解きながらこう続けた。
「なんだそんなこと。俺なんて兄貴の名前カオルで好きな子の名前カオリだぞ」 「「うっわあああきっつうう」」
後輩二人が声を揃えたところで、突然扉が開かれた。入り口に立っていたのは老年の臨時教師、嘉山清蔵氏であった。
「お前ら、今年の文化祭はどうする気だね」
目尻のしわを深くさせて、優しい微笑みで嘉山先生は挨拶もなしにそう訊ねた。体育祭が終わればそのちょうど一ヶ月後に文化祭が行われ、そこで文化部の三年は引退する。 生徒三人はそれぞれの手を止めて無言で嘉山先生を見つめた。要するに何も考えていなかったのである。
「ええ、今年は七不思議でもまとめ直そうかと」
さも話し合いが済んでいるかのような顔で水沼会長が席を立ち、教室後方にある本棚へ向かう。歴代オカルト研究会の面々がまとめてきたファイルのうち一冊を手に取り、大雑把にめくって目を通す。 やっぱり会長は頼りになる……なんて自然に説得力のある嘘をつくんだろう……。後輩二人の尊敬の眼差しが水沼会長の背中に注がれる。
「七不思議ね。最近あんまり聞かないなぁ。昔はよく噂されてたのに」
嘉山先生の言う通りだった。神奈は今まで一度もそんな噂を聞いたことあなかったし、「そんなものがあったのか」と生徒会の副会長も言っていたほどである。昨今の高校生にとっては校内にいるかどうかもわからない目に見えないものよりも、素敵な上級生や可愛い下級生、購買の美味しい商品の方がよっぽど重要だ。
「ああ、あった。これだこれ」
あるページを広げて水沼会長が振り返った。皆でそのページを覗き込んでみると、見出しには『階段の怪談』と書かれている。
「うわあ……」 「このタイトルはちょっと……」 「タイトルというのはシンプルでわかりやすいのが一番だぞ」
油揚高校の七不思議のひとつに数えられるとされる階段の怪談は、よくある段数が増えるの減るの話ではなかった。 学校中で階段から落ちる生徒が続出し、その多くが自分の不注意ではなかった、誰かに足を引っ張られたのだと主張したというものだ。日にちも学年も、階段の場所すら特定されない。先生方は悪質な悪戯に違いないと憤慨しているが、仕掛けのようなものは何も見つからない。さらにこれはオカルト研究会員の自作資料に同じ記述が残されており、何十年も前から起こっている怪現象である、と締められていた。
「ああコレこないだの」 「こないだあったんですか」 「福也はいなかったんだったな。被害者は俺だ」 「そしてわたしが引っ張る手をはっきり見ている」
嘉山先生が「なんと」と驚きの声を上げ、感心したように何度も頷いている。
「じゃ今年は出展するんだね」
満足そうに笑って何度も頷き、嘉山先生は教室から出ていった。先生の足音が遠くなって遂に聞こえなくなると、福也が先輩二人の方を振り返った。
「出展しなかったんですか。去年」 「だ、だって二人だし同好会だしどっちでもいいって先生が言うから……」 「どっちでもいいならやらないだろ。むしろ今年の方がやりたくない。俺は受験生で生徒会役員なんだぞ」 「そういやそうだ」 「上手く嘘ついたのが裏目に出ましたね」
*油揚高校の廊下には横長の掲示板が付けられている。その頂点すれすれに、交換留学を勧める大判のポスターが貼ってあった。男子生徒の骨ばった手が四隅を止める画鋲に伸びるも、あともう少しのところで届かない。もどかしげに腕や指を伸ばしてみるも、イヤガラセのように高い位置で留められた画鋲には触れることすらできなかった。 男子生徒、吉川はがっくりと頭を垂れた。「ダメだ……」悲嘆した声に「そう」と短い返事がかえされる。返事をした女生徒は緑のスカーフをセーラー服に巻いた三年生で、艶やかな直毛の黒髪を腰まで伸ばしていた。手に持っているのは文化祭のポスターで、彼女たちのクラスで催されるケーキの模擬店が宣伝されている。
「誰だよ、こんな高いところに貼った奴」
憎々しげに吉川が言うと、女生徒は「さあ」と気のない返事をして視線を逸らす。横目でその態度を見つめながら、吉川は心中でまた頭を垂れた。 クールで無口、滅多に感情を表に現さない。文化祭実行委員になって少しは仲良くなれるかと思っていたが、彼女の態度は共に過ごす時間が増えても二人きりになっても全く変わらない。 隣に立つ彼女は背が高く、シャンプーの香りが吉川の鼻先をくすぐる。伏し目がちの表情、通った鼻筋、閉じられた形の良い唇に目を奪われる。この鉄壁の防御といわんばかりの冷淡さを、どうにか崩せはしないのか。
「吉川君が台になってくれたら早いのに」
女生徒が言うと、吉川は笑った。 可笑しかったというよりも、彼女が珍しく冗談を言ってきたことが親しげに接してくれるようで嬉しかったのだ。しかし女生徒は吉川の笑い顔を見て顔を歪ませ、チッと舌打ちした。 吉川には何事か理解できず、口すら笑った形に開いたまま硬直した。
「あっそういえば福也、正志エンドなんてないじゃん!」 「え?ありませんでしたっけ?」 「あれは夢イベントだな、エンドではないぞ。そもそも正志ルートでもない」 「正志ルートがそもそも無い」
声と足音で廊下がにわかにざわつき始めたのに反応して、吉川の硬直も解けた。振り返ると昇降口からオカルト研究会の三人が連れだって歩いているのが見えた。 水沼を見て吉川はあからさまに嫌な顔をし、水沼は水沼でそれに気づいているのになんとも思わぬようで「やあ」と爽やかな笑顔で手を挙げた。そこがまた吉川の気に入らない。
「福、四つん這い」
水沼と吉川の口喧嘩が始まるよりも早く、女生徒が床を指さしてそう言った。福也は黙って頷くと、鞄を床に置いて四つん這いになった。女生徒は上靴を脱ぎ、その背に乗ってポスターを貼った。
「ありがとう」 「うん」
女生徒は福也から降りると上靴を履き、肩に掛かった黒髪を煩わしげにはらった。
「本当、女にチヤホヤされてる男って使えないのね。気も利かないし、言われてもやらないし」
吐き捨てるように言って、女生徒はさっさと歩いて行ってしまった。黒のタイツに包まれた彼女の細い足が階段を上っていく。にゅっと半透明の腕が伸びてその足首に触れる。掴んだ瞬間、鬱陶しそうに振り払われる。腕はなおも黒タイツの足を追いかけたが、女生徒は振り向きもせず強引に階段を上りきっていった。
「……あっ」
神奈は彼女のことを思い出した。以前も腕に足を掴まれたものの、転落も怯えもせずに平然と振り払って階段を上りきった女生徒がいた。後ろ姿しか見ていなかったが、彼女に間違いない。
「文化祭を前に随分と多忙そうだな、水沼。体調には気を付けろよ」 「ご忠告傷み入る。なに、食事と睡眠だけはきっちり摂っているから心配には及ばない。お前こそ実行委員になったそうじゃないか、本番を無事迎えるためにも体調管理は怠るなよ」 「受験に生徒会、文化部の部長とあって睡眠時間も削らずこなせるなんてさすが有能だな。……おっと失礼、部ではなかったか」
吉川が顔を斜めにして皮肉な笑い顔を水沼に向ける。水沼は腕組みをしてまっすぐ吉川を見据え、微笑んでいる。水沼は姿勢とスタイルがいいせいか腕組みをしても偉そうには見えず、スマートだ。 神奈が女生徒に目を奪われている間に恒例の言い合いが始まっていた。福也は我関せずといったふうで二人から顔を背け、数歩さがったところに立っていた。
「その時代錯誤な話し方の口喧嘩ってやらないと死ぬんですか?」
神奈が交互に二人を見ながらにこやかに訊ねると、吉川が不愉快さを露わにして神奈を睨みつけた。神奈は怯んだ様子もなく、吉川に向けてにこっと笑った。 水沼がハハハとわざとらしい爽やかな笑い声を上げながら神奈の隣に立ち、右手で神奈の肩を抱いて顔を寄せた。
「なんでこいつが俺に当たってくるか知ってるか?俺がこいつの好きな子と仲が良いからだぞ」 「ええーっ!やだぁ吉川先輩ちいさーい」 「ち、ちっげーよ!普通にむかつくからだよ!」
水沼は神奈の肩を離し、その反動のように横歩きして今度は左腕で福也の肩を抱いた。
「さあ吉川、存分に媚びたまえ。お前の想い人の弟君だぞ」 「は?……えっ!?なっ……ええっ!?」
福也は依然として無表情のままだったが、わずかに眉根を寄せて不可解そうな顔になった。
「宍戸錠が好みのタイプだと言ってるうちのお姉ちゃんがこんなイケメン風高校生なんかに興味持つわけないじゃないですか」 「オカ研の連中は本当にストレートに失礼だな!やっぱり廃部になれ!」 「まあまあ吉川、そう悲観するな。宍戸錠が理想だなどと言われたら高校生じゃなくても大抵の男が絶望するしかない」 「うっせえ!」
水沼を怒鳴りつけると、吉川は肩を怒らせて廊下をずんずん進んでいった。福也の姉をおいかけるつもりなのか、それとも他に用でもあるのか階段を上っていく。 もうすぐ上りきるというところで、足を掴まれ引きずりおろされていった。
* 「階段の手ってあそこだけに出るわけじゃないんだね」
福也の姉と吉川が足首を掴まれたのは昇降口から入ってすぐの階段であり、新学期に金井と赤城、新谷と水沼が足首を引っ張られた階段とは逆方向にある。 新学期に怪異が起こった階段は、特別教室に向かうためのもので、しかも特別教室に行くには別ルートもありそちらの方が多くのクラスから近いため、普段は人気がない。窓もなく薄暗い。いかにも怪談の語られそうな場所だった。 今回の階段は昇降口から各学年の教室に向かうための階段で、人通りも多く日当たりもよくて明るい。静まりかえった深夜でもなければ心霊現象など起こりそうもないところだった。
「階段と言えば、高校に上がるときに気をつけろと言われましたね」 「どういうこと?」 「そのままですよ。階段には気をつけろと言われたんです」 「誰に」 「父に」
いったん言葉を切ってから、福也は改めて口を開いた。
「……俺のお父さんは」
元々抑揚のない重低音で話す男なので普段との違いはわかりにくいが、若干声のトーンが落ちている。真面目な話をするつもりでいるようだ。
「毎日のように階段から転がり落ちたり足を滑らせたりそれはもう大変だったらしいです。階段を上り下りするときは階段をしばし睨みつけ息を整え一歩一歩踏みしめながら進まねば生傷が増えるのを避けられなかったと言っていました。一瞬の油断が一生ものの傷を生む……よく無事卒業できたものだとこぼしていましたよ」 「さすが幸さん、油揚町の生ける伝説と呼ばれるだけはあるな」 「福也のお父さんは一体何者なの。学校の怪談なんかより喜多一族の方がよっぽど不可解だよ」
神奈が言うと、福也の横顔が愛想笑いで少し歪んだ。肩を軽くたたかれ後ろを振り返ると、水沼が満面の笑みで
「日暮、母刀自の話も聞かずに言うのは些か気が早いのではないかい」
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