「たいへ〜ん!遅刻遅刻ぅ〜!」

わたし日暮神奈、高校二年生!夏休みが終わって今日から新学期が始まるんだけど、目覚まし時計が壊れてたなんてついてない!でもでも、最悪な始まりをしたってことは、きっとこれからとっても良いことが待ってるはず!そうたとえば、あの曲がり角を曲がったところで素敵なひとと出会ったり……なんて!

「きゃっ!」

曲がり角で何かとぶつかって、嘘、本当に……?などと食パンをかじりながらしょうもないことを考えていたのは覚えている。
実際は「きゃっ!」なんて可愛らしい悲鳴ではなく「うっ……!」と重いうめき声が出たし、ぶつかった相手は素敵な異性などではなかったどころかなんなのかもわからなかった。目の前には何もなかったからだ。ついでに言うと、目の前に広がる光景は見慣れた通学路ではなく古い造りの家が並ぶ住宅地だった。雲一つない青空が広がっていたはずなのに、今はどんよりと曇っていて薄暗い。
神奈はしりもちをついて地べたに座り込んだまま辺りを見回しつつ、食パンの最後の一口を飲み込んだ。

「いってぇ……」

じんじんと痛むところをさすりながら立ち上がると、神奈はわざと大きな音をたてて舌打ちをした。
とにかく自分一人では何も出来ないことはわかっている。人でも妖怪でも神様でもいいから誰かに頼るしかないと、鞄についたお守りがしっかりと括り付けられていることを確認してから歩き始めた。と、何もないはずの進行方向に顔面をしたたかに打ちつけた。
強打した鼻を押さえながらよろめき、姿勢を正すと神奈はキッと正面を睨みつけて片足を上げた。

「ぬぅうりぃかぁああべぇえええ!」

忌々しげに叫びながら足払いする仕種をすると、姿は見えないが確かに手応えもとい足応えがあり、どたーんと重いものが倒れた音が鳴り響いた。
もはや妖怪との遭遇に驚きなどない。神奈はわざとぬりかべのいた道を通って歩いていった。

「お嬢さん」

声を掛けられて振り返ると、道の脇に白い着物を着た女性が何か抱えて立っていた。綺麗な女性だったのでついフラフラと近づいていくと、抱えているのは赤ん坊だった。

「この子、ちょっとの間だっこしててもらえません?」

そう言われると、神奈はこの女性が産女だとすぐに気がついた。
ウブメというのは子供を孕んだまま亡くなった女性が化けた妖怪だ。赤ん坊を抱いていて、出会った者に赤ん坊を抱かせて消える。産女が戻ってくるまで赤ん坊を抱き続けていれば怪力を授けてくれるという。

「すぐ戻るから」

産女は神奈の返事も聞かずに赤ん坊を抱かせてどこかへ行ってしまった。可憐な乙女のままでいたいから怪力なんぞ欲しくもなかったが、引き留めても無駄だというのはわかっていたので神奈は黙って見送った。
抱き慣れない神奈の腕の中でも、赤ん坊は自分の指をしゃぶりながらすやすやと眠っている。可愛い寝顔に一瞬口元がほころんだが、神奈は磯の香りに鼻をくすぐられて青ざめた。波が打ち寄せる音が聞こえる、目の前には海が広がっている。震える足でよろよろと歩いていき、そこは低い崖になっていてのぞき込むと海面に自分の姿が映った。

あれは産女ではなく濡れ女だったのでは……。

赤ん坊を抱く手にも震えが走る。嫌な汗が背中にも額にも伝っていく。もしそうだったとしたら鞄に括り付けた無病息災のお守りだけが頼りだ。鞄は右肩にかけてある。地面に置いておかなくて良かった。体に触れているだけで安心できる。そう思った瞬間、ものすごい形相の男が大口を開けて神奈の背後に現れたのが海面に映った。

「うわあああああああ!」

神奈は咄嗟に脇に避け、襲いかかってきた男は海に落ちて水柱が上がった。男はそのまま沈んでいき、ぶくぶくと水泡だけが浮かんでは消えてを繰り返す。
神奈はやはり濡れ女だったのだと思いながら、青ざめた顔でぎゅっと赤ん坊を抱きしめた。しかしそこで「ん?」と眉をひそめた。

「やるな小娘!」

海から上がってきた男は鬼の顔をしていた。赤ら顔の額から小さく鋭い角が二本生え、目も口もつり上がっていて口元からは立派な牙が見えている。虎縞の着物はびっしょりと濡れて体に張り付いているが、それは上半身にだけだ。下半身は牛の体をしていて、ケンタウロスのように腕があるくせに前足も持っている。
彼は牛鬼という人喰いの獰猛な妖怪だ。神奈も勿論知っている。

「牛鬼さん!この子変ですよ!」
「む?」

神奈はわざと知り合いのようにすがる声をかけ、牛鬼もそれにつられて友人のように神奈に近寄っていった。牛鬼が傍にきたところで神奈は赤ん坊を持ち上げ、牛鬼の目の前に突き出した。鬼の形相はぎょっと驚いた表情に崩れた。
産女にしろ濡れ女にしろ、抱かされる赤ん坊はだんだんと石のように重くなっていき抱くのが困難になっていく。だからこそ産女は達成した者に力を授けてくれるのだし、重石を抱いて身動きをとれなくなったところで牛鬼が襲いかかってくるのである。
しかしこの赤ん坊は軽々とした赤ん坊のままである。神経の太いことにまだ気持ちよさそうに眠っている。

「あんた、なにやってんの」

海の方から冷たい女性の声が聞こえ、神奈と牛鬼は海の方を振り返った。
海面から白い女性の顔が生首のように出てきている。美人は美人だが、意地の悪そうな顔つきをした糸目の女性で、いかにも気が強そうだ。
牛鬼が「おう、ちょっと来い!」と手招きすると、女性は海の中を滑るように泳いで浜に上がった。その体は大蛇である。三メートル以上ある蛇の体をずるずると引きずりながら女は神奈たちの傍までやってきた。髪から海水が滴り、頬にはりついている。彼女が濡れ女である。

「お嬢さんがアカンボ抱いて立ってるから俺ぁてっきりお前が仕込んだもんと思ってよ」
「あたしゃ知らないよ」
「わたしがお会いしたのは濡れ女さんではありませんでした」

赤ん坊を寄越してきた女とこの濡れ女とは、美女なのは同じだが系統が違う。見間違えようがない。神奈は首を横に振った。

「まあ産女だったってことじゃないのかい。待ってれば帰ってくるよ」

濡れ女がそう言って木の幹にもたれかかった。どうやら一緒に待ってくれるらしい。濡れ女の隣に神奈が寄っていき、にこっと笑いかけると濡れ女も微笑み返した。

「でもこの赤ちゃん重くならないんですよ」
「逆に抱きな」

神奈が赤ん坊を高い高いと持ち上げてみせると、濡れ女がぶっきらぼうに言った。するとすぐに牛鬼が赤ん坊を取り上げ向きを変えて神奈に抱き直させた。神奈と向かい合う形で抱かれていた赤ん坊は、景色を楽しむように神奈と同じ方向を向いて腕の中に収まっている。

「まあ重くならねえってことはただの赤ん坊かもしれねえけどな」
「産女でもないってことかい?」
「向かい合わせに抱いてても何もしてこなかったしな」

妖怪から渡される赤ん坊は赤ん坊といえ妖怪である。向かい合わせに抱けば噛みつかれて最悪殺される。しかし神奈はこの赤ん坊に何もされなかったし、そもそも赤ん坊に変わったところは何もない。
濡れ女と牛鬼が赤ん坊の顔に顔を近づけて、まじまじ観察したり匂いを嗅いだりしてみても、赤ん坊は平気な顔をして二人を見つめ返していた。

「お二人は一緒に現れるらしいですね。デキてるんですか?」

警戒心がすっかり解けた神奈は呑気な声で訊ねた。
濡れ女と牛鬼のように、別々の妖怪がコンビを組んで現れるという話はあまり聞かない。軽い気持ちで訊いた冗談めいた質問だったが、牛鬼は文字通り鬼の形相で神奈の方へ顔を向けた。

「はあ!?そんなわけねえし!あり得ねえし!なんでそんなこと言われなきゃいけねえのか全然わかんねえし!」
「なんだい失礼だね!あたしのおかげで餌が食えてるくせに!」
「恩着せがましいこと言うんじゃねえよ!お前がいなくたって餌くらい穫れるっつーの!俺がお前に仕事くれてやってんだろうが!」
「そんなこというならもう協力してやらないからね!」
「おーおー勝手にしろよ!俺はちっとも困らねえからよぉ」

牛鬼と濡れ女が言い合いを始めると、その剣幕に怯えたのかそれまで大人しくしていた赤ん坊がぐずり始めた。神奈が慌ててあやそうとしたが、赤ん坊は火がついたように泣き、止まりそうにない。
妖怪たちも驚いてそれ以上喧嘩するのはやめ、たどたどしくいないいないばあをしたり舌を出しておどけてみせたりして必死に赤ん坊をなだめた。

「あっ」
「うおっ」
「ヒィッ!」

ぎゃああと悲鳴のような大声を上げて赤ん坊が泣いた。その瞬間赤ん坊の額に切れ目が入り、大きな丸い目がカッと見開かれた。
二つの目はしっかりと閉じられて端から涙がこぼれ落ちているが、三つ目の瞳はぎょろぎょろと動いてあたりを見回している。

「三つ目小僧だったんですね」
「小娘、もう少し驚いたらどうだ」
「ビックリした……」

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