梅雨の湿気がおさまり、蝉も騒々しく鳴き続ける七月の半ば、町境の短いトンネルを抜けると雪国だった。
* 試験も終わってあとは夏休みを待つばかりの放課後、神奈は梨味のガリガリくんを舐めながら歩いていた。左隣には水沼会長が雪見だいふくを頬張り、右隣では福也がアイスの実を口の中で転がしている。 三人の口はアイスを食べるか「暑い」と言うかのどちらかにしか働かなかった。どこか涼しいところはないのかと神奈が言うと、福也が「卯の花トンネル」という耳慣れない場所を口にした。
「いいな。涼しそうだ」 「卯の花トンネル?」 「町外れにある短いトンネルだ。今はもう使われていない」 「おお、また心霊スポットになりそう な」 「まあよく言われるが、福也が行こうと言うから大丈夫だろう。二人とも何か見えたらすぐ言うように。そのときは帰ろう」 「はい」 「はーい」
トンネルは歩いて十分もかからない場所にあった。トンネルの目前には車の進入を禁ずるロープが垂れていたが、人が通るのは良いらしく道の脇に隙間が開いていた。 トンネルの入り口から中を覗き込むと、本当に短く出口の明るい陽が大きく見えた。向こう側は完全に山の中らしく植物の緑ばかりが目に入った。 「おー!」と感心したような声を神奈が出すと、トンネルの壁から壁へ反響して木霊のように耳に響いた。三人は横一列に並んでトンネルに入っていった。夏の暑さに疲れた体にはひんやり とした空気が肌をさすのは構わなかったが、何しろ暗いので居心地はさほど良くなかった。
「子供の頃はこんなところでもずっと遊んでられたのにな」 「福也、大人になるって悲しいことなの……」 「やめろ!!」 「会長、トンネルで大声出さないでくださいよ」 「ワタ兄、さては主人公とヒロインの名前変えてたクチだな」
やっぱり帰ろうという話になり、三人は来たときと同じように横並びになって来た道を引き返した。トンネルを抜けようという一歩を三人は同時に踏み出し、外に出た瞬間神奈は一面銀世界の雪原にひとり立っていた。
「えっ」
両隣に見知った顔はなく、たったひとりで立っている。薄い生地の制服に寒風吹きすさぶ 。半袖の下にある神奈の腕はあっという間に鳥肌で粟だった。
「うっそおおおおおおん!!」
* 「死ぬ死ぬ死ぬ!これは本気で死ぬ!無病息災!今こそ無病息災の御利益が最も必要とされるとき!」
学生鞄に括り付けられたお守りを神奈は震える手で握りしめた。瞬間、ぽうっとお守りが炎をともし、みるみるうちに大きく燃え盛りついには神奈を包み込んだ。異様な光景だったが心地よい暖かさだった。
「ど、どうしよう……」
とりあえずの暖はとれたものの、いつまでもここで突っ立っているわけにもいかない。アブラゲ様の炎もいつまで続くものかわからない。 後ろを振り返ってみるといつの時代に造られたかもわからないような古 ぼけたトンネルが、さも今神奈が通ってきたかのようにある。ここを通れば元の世界に戻れるだろうか。しかしトンネルの中に灯りは何もなく、ただひたすら真っ暗闇で出口どころか数メートル先すら見えなかった。ここを歩いていける勇気はない。 神奈は雪原の中一軒だけぽつねんと建っている小さな家へ向かうことにした。雪女の住処であれば暖はとれないだろうが背に腹は代えられない。 雪に足を取られるわかじかんで思うように体が動かないわで、大した距離でもないのに移動に時間がかかるのが歯がゆかった。茶色のローファーに溶けた雪が染み入ってきて気持ちが悪い。
「何故わたしがこんな目に……」
涙目になりながら神奈はもっともな不平を口にした。
* 屋敷は立派な塀で囲われていた。神奈は門を目指して、雪の積もった塀を見上げながらそれに沿って進んだ。
「へえ……かっこいい」
呟いてからがっくり肩を落として大きくため息をついた。馬鹿げたことを口にしてみて気を紛らわせようとしてみても、窮地を脱することはできない。 気を取り直して背筋を正し、門の前に立つ。門扉をどんどん叩いて「すみませーん!」と叫んでみる。応答が何もなく神奈はまたがっくりと肩を落とした。
「なんじゃ、また来たんか」
不意に穏やかで耳に馴染む声が上から降ってきたので、神奈は顔を上げた。塀の上に狐が丸くなってくしゃっと座り込んでいた。 体つきのしなやかなるも、毛並みの艶やかなるも、円らな瞳の黒々とした輝きも、すべて見とれずにいられないほど綺麗だった。狐は声を拾おうとしているのか耳をぴくぴくっと震えるように動かし、じっと神奈の方を見下ろしている。 塀からこぼれ落ちている、ふさふさとした形の良い尻尾が柔らかに揺れた。
「アブラゲ様!」
神奈は叫んで、しがみつくように塀に手を突いた。アブラゲ様は体を丸めたまま神奈を見下ろしている。尖った鼻先をわずかに前に突き出し、「人間の小娘がしょっちゅう来て良い場所ではないぞぅ」と言った。
「来たくて来てるんじゃないんですよぅ!」
塀をどんどんと叩きながら抗議の声を上げると、アブラゲ様は丸めていた体を起こし、耳のあたりを後ろ足で掻いた。そしてうぅむと唸る。 神奈はアブラゲ様の仕草から、腕組みをして眉間にしわを寄せて思い悩む男の姿を見た気がした。
「ここは何処なんですか?」 「雪野じゃよ」 「は?」 「いつだって雪が野を覆っとる。今日は主が留守だったようだがな」
釈然としない答えだったが、アブラゲ様はそれ以上何も言う気がないようで黙ってしまった。神奈も無理に掘り下げていっても理解できない場所であるような気がして黙った。 話題が変わるのに充分な時間が経ってから、アブラゲ様が「今日は何処から来たね」と訊ねてきたので、神奈はトンネルから来たと答えた。
「卯の花トンネルを通ったらここにいました」 「ああ、あそこか」 「三人で通ったはずなのにここにはわたし一人ですよ。納得いきません」
神奈がわざとらしく頬を膨らませると、アブラゲ様はからから笑って塀から飛び降りた。優雅な動きで雪の上に立ち、さくりと音がした。
「送ってったろ」
アブラゲ様はそう言うと、神奈に背を向けて歩き始めた。神奈は勿論その後をついて行った。
「しっかしただの小娘がこう何度も行き来しとるなんておかしな話じゃなぁ。お前実は稀有な血筋のもんか?」 「ちょっとオバケが見えちゃうだけのどこにでもいるごく普通の女子高生ですよ」 「それは普通じゃないがなぁ。でも関係ないよなぁ」
うーん、と唸りながらアブラゲ様は首を傾げた。三角形の耳がぴくぴくと動く。そして思いついたようにこう投げかけてきた。
「お前、こっちの飯なんか喰ろうたろ」
ヨモツヘグイという言葉が反射的に神奈の脳裏をよぎった。黄泉戸喫。日本神話だけでなくギリシャ神話にも残っている。 厳密に言えばここはあの世ではないから違うのだろうが、原理は同じなのかもしれない。その世界のものを口にしたから、その世界の者になってしまったということ。
「オカ研副会長ともあろう者がそんな初歩的な失態するわけないじゃないですか」 「オカ研はよう続くなぁ」 「はい。同好会として未だ細々と……あっ」 「どうした」 「そういえば胴の面さんのところでお茶いただきました」 「それだ!やっとるじゃないか!」
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