「人間のお嬢さんとは珍しい。何年ぶりかな」

相撲を止められて河童たちは気分を害するのではないかとも思われたが、むしろ河童たちは神奈の姿を見て盛り上がりに拍車がかかった。

「うむ、オレも昔はヒトの娘と懇ろになったものよ」
「懇ろと思っていたのはお前だけだろうよ」
「いやしかし、ヒトのおなごは相変わらず素晴らしい」
「素晴らしいのは清らかな乙女だけだろう」
「いやいや、人妻というのも艶があって良いものぞ」
「お嬢ちゃん処女ぉ?」
「女学生だし処女だよねぇ?」
「しょーじょ!」
「しょーじょ!」
「しょーじょ!」
「しょーじょ!」
「うるっせー!」

耐えきれなくなった神奈は一番近くにいた河童の頭に手刀を落とした。皿にうっすらとひびが入り、河童はそのショックで気絶した。

「このエロガッパどもが!お前等全員一列に並んで頭差し出せ!一枚残らず皿割ってやるよ!」

ヒッと息を呑んで河童たちは互いを盾にしあいながら後ろへ退いていった。神奈は河童の群衆から行司の方へ顔を向けた。行司はビクッと肩を跳ねさせたが、神奈は構わず彼の方へ大股で一歩近づいた。

「わたし人間の世界に帰りたいんですけど、どうすればいいかわかりませんか?」

言葉遣いは丁寧だが、仁王立ちで腕を組みいつもの明るい声とはうってかわった低い声で、不機嫌であるのを隠す気もない口調である。
行司はすぐに筆を取り、さっと紙に一筆書くと包んで封をした。

「私らにはどうにもできませんで、これをば親分に見せて頼んでみてください」

行司の河童が恐る恐る渡した文を、神奈は乱暴にひったくった。封を破ると、そこにはたった一文書いてあるだけだった。

「この尻を持って千尻なり」

神奈がその一文を読み上げると、河童たちは「あああ」と悲痛な声を上げて顔を青くして、胴の面は首をかしげるが如く胴体を傾けた。
神奈は人なつこい垂れ目をぎろりと鋭く光らせて、河童たちを睨みつけた。

「つまり尻子玉を九百九十九親分に献上してて、あたしので千個目だってことだろ?舐めたことしてっと本気で皿かち割って回るぞ!!」
「ああ、そういう意味やったんですかぁ」

と感心する胴の面の声と共に背後から水音がした。水柱が上がる川の方を神奈が振り返ると、体格の良い河童がうつ伏せに流れていった。
神奈は驚いて思わず滝の上を見上げた。河童の川流れはてっきりこの相撲会場から始まるものだと思っていたが、原因はここから更に川上にあるらしい。

「私らにどうにもできんのは本当なんです」

怯えながら河童の行司が言い、親分ならどうにかできるかもしれぬと思うのも本当だと続けた。

「滝の上で、親分が相撲の相手を探しとります。勝てば或いは、どうにかしてくれるやもしれません」



「ほんまに行くんですかぁ?」
「まぁ仕方ないですよ。他に方法がないとあっちゃあ」

神奈は結局、胴の面と連れだって河童の親分のところへ向かっていた。目的地が滝のすぐ上とはいえ、山を回り道して向かうしかないのがつらいところだ。

「でも女の子が相撲取るわけにもいかんでしょう。ましてや河童の親分打ち負かすなんて」
「ふふん、河童の相撲に勝つ方法なんて簡単ですよ」

不敵な笑みを浮かべて神奈が自信満々に言う。胴の面が「むぅ?」と唸るような疑問符を口にするのと同時に、神奈が「あれだ!」と明るい声を出した。

森がぱっと開けて川上に出た。どうどうと川の水が滝から落ちる音が響いている。
その川のすぐ脇で、滝の下よりももっと大勢の河童が集まって騒いでいた。あまりに数が多すぎて壁となり、中央で相撲を取っているであろう河童の親分の姿は見えなかった。代わりに対戦相手であったらしい背の高い河童が川へ放り込まれたのが見えた。

「さすが!」
「親分!大親分!」

はやし立てる声と口笛と拍手とが入り交じってひどくうるさい。ただ楽しげであるので聞いていて不快感はない。

「あっ!」

河童の一匹が叫んで滝の下を指さした。河童の群衆たちは一斉にその指の先に視線を向け、神奈と胴の面も彼らの目の向く先を追った。


そこだけ時間がゆっくり流れているようだった。
滝の水しぶきが霧を作り、宙を漂って視界をぼやけさせる。その向こうでいつの間に現れたのやら、一本歯の高下駄を履いた天狗が一匹、川面の上に立っていた。
鴉天狗だろうか。赤ら顔の鼻高天狗ではなく、くちばしのある黄色い目の天狗だった。頭の上にちょこんと小さな黒い被りものをしている。羽団扇は持っていない代わりに錫杖を手にしていた。
天狗は川面を蹴って高く跳んだ。川面には美しい環が広がっていく。天狗は柔らかな動きで宙返りして神奈のすぐ傍に着地した。
山伏の格好をした体格の良い天狗は、錫杖を鳴らしながら地面に突いた。

「やあ、桜の君。今日はどうしたんだい?」

強面の天狗の面の下から聞こえた声は、穏やかで優しく、その男の物腰の柔らかさを物語っていた。
神奈は突然現れた天狗に警戒の色を見せていたが、『桜の君』という呼ばれ方をされてハッとした。

「ゆ、ユキちゃん?」

前回アブラゲ様に命じられて神奈を学校まで帰してくれた天狗の男である。あのとき付けていたものと今とで天狗の面が違っていたので彼とは気がつかなかった。
神奈は彼の傍まで走り寄っていき、へその当たりで手を重ねて恭しく頭を下げる、つもりであった。

「おう、ユキちゃん。待っとったぞぉ」

神奈の感謝は河童の親分の無骨な声によって遮られた。河童の観衆をかき分けて現れた親玉は、でっぷりとした逞しい巨体で、まさしく相撲取りと言うべき体格をしていた。

「おやびん、約束だよぉ。僕が勝ったら河童の妙薬ちょうだいね」
「人間どもと一緒にするな、約束は守る」

腹を叩きながらがははと笑う河童の親分と、向かい合う天狗の優男とを円で囲むように河童たちが集まっていった。神奈と胴の面はその群衆に紛れつつ、しかり最前列には立っていた。
行司が河童と天狗二人の間に立ち、中央に線を二つ引いた。そして静まり返る中、試合開始のかけ声をあげた。その瞬間、

「よろしくお願いします!」
「うむ。よろし……あ」

勢いよく頭を下げたユキちゃんにつられて河童の親分も試合開始のお辞儀をした。した瞬間、親分の頭の皿から水が大量にこぼれ落ちた。
親分自身がそれに気づいたときには、痛烈な平手打ちを頬にくらっていた。

「ちょ、ちょっと待っ」

制止しようと手を前に出したのもむなしく、河童の親分は高下駄に顔面を蹴りとばされた。ユキちゃんの足は地面に着いたかと思えば軽々と跳ね、地面と河童とを交互に三度ずつ蹴った。
河童の親分が体勢を崩したかと思うと、回し蹴りで脇腹を打たれて横向けに倒れていった。
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