12 二人

 とっきー、と呼んだ声が、時枝の頭をすいと撫でて、ははと笑った。きょとんと賢は目を丸くする。仕事が立て込んだあとのおそい夕食をとるために、ラウンジで、席についたところだった。綾辻は帰宅し、嵐山は会議に出ていて、賢と時枝ふたりだけだった。
 学校でも本部でもめったに見かけない当真勇が珍しくそこにいて、時枝の頭を撫でて、「まるい」と言った。時枝はそのままに撫でさせて、「まるいでしょう」と言い返した。あんまり自然だったので賢は、なにそれ、と言いそびれた。
「まるいやつに飴やろう」
 そう言ってばらばらと礫を降らせた当真が、身をひるがえして去っていく。それをみおくって、賢は、あ、とつぶやいた。
「どうしたの」
 落ちた礫を半分、賢にむかって押しやりながら、時枝は首をかしげた。
「とっきーは、もしかして、当真さんの王子様になりたいの?」
「え?」
 時枝は目を丸くし、ふと表情を緩めて、それから、「残念、はずれ」と言った。
「はずれかー」
「仲がいいからって、その人を好きとは限らないよ」
「当真さん、付き合ってる人いるしね」
「そうなの?」
「知らない? あれ、いやでもあれは付き合ってないのかな、……よくわかんないや、あの人たちのことは」
 思い出すと、気分が重くなった。賢は、はあ、と息をついた。疲れていた。最近うまく眠れなくて、疲れていた。それも当然だろうと思った。
 出水の声が耳から離れない。
 そしてその声は、必ず、太刀川の名を、呼んでいた。
 初体験というのは、もっととてつもなくハッピーなものだと思っていた。そしてそれをもちろん、賢は時枝に伝えるはずだった。王子様になれたよと言って、そのことを時枝に誇ることができるはずだった。なれなかった。賢は王子様ではなかった。賢はそこにいなかった。賢は存在していなかった。賢はあの場所で、ただの、かたい棒でしかなかった。
 ただ単に利用されて感情のない、ただの棒だ。
「疲れた顔してる」
 時枝が首をかしげて、そう言った。
「……うん」
「賢でも疲れることはある」
「そんなのない、はずなんだけど」
「……出水先輩のこと?」
「……とっきーには、隠しごとできないなあ」
 賢は笑った。うん、と頷いて、しかしそこであった出来事を、語ることは、できなかった。
「……賢に、ずっと、謝らないといけないと思ってたことがあってさ」
 時枝は、静かに言った。賢は目をあげて、時枝をまっすぐ見返した。
「え?」
「あのとき。猫のことを、嵐山さんに言ったのは、オレなんだ。ほんとは、オレが賢に言って、賢と出水先輩で決めたらよかったのかもしれない。でもそれじゃうまくいかない気がして、嵐山さんに報告した。嵐山さんに責任をおしつけた。ずるいことをしたと、思ってた」
「……そんなの」
 こころなしか俯いた時枝の、まるい頭に、賢は手を伸ばした。ぐしゃ、と撫でた。
「そんなの全然、とっきーのせいじゃない」
「出水先輩は、猫を可愛がってたんでしょう」
「……うん」
「それならそのままで、よかったのかもしれないよね。……ほんとうに正しいことって何だろう。嵐山さんはあのとき、ほんとうに正しかったのかな」
「……うん」
「わからなくて、わからないままオレは、嵐山さんに決めてもらってさ。それは、ずるいこと、だったと、思う」
「そんなことないよ」
 ……賢の猫は賢の家にいる。元気にしている。随分太った。甘やかされて、お客さんにも家族にもちやほやされて、甘い声で鳴く。それを出水は見に来てはくれないけれど、出水からそれを奪ったことは変えられないけれど、それでもあのとき嵐山が言ったことは正しかった。責任を取らなくてはならない。責任を取れないなら手を出すべきじゃない。それはやはり、正しいことだと、賢は繰り返し、思った。
 相手のことを考えること、そして最善を尽くすこと。
「そんなことない。大丈夫。とっきー、大丈夫だよ。嵐山さんは間違ってない。ほんとはとっきーも、わかってるんでしょう」
 うん、と時枝は頷いた。時枝に言い聞かせるように、けれど時枝には関係なく、もうその言葉は賢自身に言い聞かせている言葉だったのだと、わかっていた。賢は自分に言い聞かせるために、言葉を紡いだ。
「先輩の王子様には、俺がなるから」

 小さな小さな家だ。佐鳥の夢とか愛とか優しいなにかとか、そういうものがそこにあるのだと思っていた。いつも、いつも、そう思っていた。それは変わらないはずだった。いつだってそれは変わらないはずで、その家を見て気持ちが暗く重くなるなんてそんなのは、錯覚なのだと賢は思う。大丈夫、俺はしつこくてしぶとくて粘り強くて、あきらめない。
 すう、と息をすいこんで、吐いた。
 そうして賢は、扉を、勢いよくあけた。
「出水先輩!」
 出水は、布団の上に転がっていた。目を閉じていた。あの日、賢と出水と太刀川が使った、布団のままだった。布団の上に転がった出水は、あの日のまま、なにひとつ変化していないように見えて、心臓が凍り付きそうになった。けれど賢はきちんと声を張って、「出水先輩!」と、再度呼んだ。
「佐鳥のお目覚めのチューがないと、起きれないなら、しちゃうよ先輩!」
「……いらねーよヘタクソ」
 声が先に来た。それから目を開いた。眠たそうに目を開いて、「夜じゃねえかうるせえな、寝かせろよ、眠いんだよ、疲れてんだ」と言った。
「遊びに来たよ」
「……そうかよ」
「佐鳥賢が遊びに来ました」
「おまえが佐鳥賢なのは知ってる」


「先輩あのさあ、俺、なにも気づかなくて、馬鹿だったと思って」
「……おまえはなんていうかさ、いいやつなんだと思うよ。そんなもん、わかるはずがない」

「おまえを見るとかわいそうで仕方がないから、会いたくねえんだよ」
「そんなことないよ」

「俺はかわいそうじゃないし、先輩が好きだよ」

「先輩あのさ、今日も先輩のうちに遊びに来たよ。明日も。明後日も来るから。俺は毎日来るから。毎日遊びに来る。来てやる、から、あきらめない、俺はさ、しつこいんだよ」
「……おまえもううちに住めば?」
 言ったのではなく言わせたのだった。賢は笑った。言わせたのだ。
 俺の勝ちだ。

「佐鳥」

「奈良坂は俺を神と呼んだ」

「おまえは俺をなんて呼ぶ?」

「先輩は、先輩だけど。……でも俺は、俺はね、先輩の王子様になりたい」
 ははっ、と声を立てて出水は笑った。とても愉快そうに笑って、身を起こした。賢をまっすぐに見上げて、出水は笑っていた。
「王子様?」
「うん」
「似合わねー」
「でも、なりたい」
「……いいよ」
 腕が伸ばされた。引きずり寄せられて、布団の上に賢は座り込んだ。その賢の腰に腕を回して膝の上に頭を乗せた出水が、ごく小さな声で、いいよ、と、繰り返していった。
「俺の王子様になってよ。佐鳥」
 賢はおずおずと指を回した。そこにある頭に、腕を回した。抱き寄せた。部屋が静かだった。沈黙のなかに二人はいて、そして、二人きりだった。



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