13 循環

「秀次、ほら」
 三輪隊オペレーション室では手狭なので、小さな会議室を借りて、月見は三輪隊だけを相手にしたささやかな戦術講習会を開く。三輪隊以外にも複数の弟子を持つ月見の、大学のカリキュラムやほかの弟子の相手をする以外の時間で不定期に行われる講習が、開講されたのはずいぶん久しぶりのことだった。夏のはじめ以来、だったっけ、と陽介は思いながら、とん、と机の上に、コンビニのビニール袋を置いた。びく、と秀次は肩を一瞬だけ震わせ、それから、ごくあたりまえの予定調和のように、陽介を見上げて、睨んだ。
「……勝手なことをするな」
「好きだろ、それ。今日もう食った? そこのコンビニ、売り切れてたから、遠回りして買ってきてやったんだけどな?」
「陽介」
「ありがとうは?」
 ふん、と秀次は鼻を鳴らした。
「月見さんは?」
「道が渋滞しているので少し遅れるとの連絡がありました」
「第三交差点付近で事故だそうだ」
「あー」
 椅子を引いた。がたん、と、ごく当然のことのように、陽介は秀次の隣に腰かけた。秀次が浅く、吐息をついた。
 小さく笑った古寺章平が、後ろに腰かけた奈良坂を振り返り、身を乗り出した。
「先輩も当真さんと仲直りしました?」
 陽介は吹き出しそうになった。秀次が細めた目つきで陽介を見つめ、陽介は、ごめん、と片手を上げる。
 奈良坂は眉をひそめた。
「……喧嘩していない」
「え、ほんとですか」
「いや……」
「嘘ついてんじゃん奈良坂くん、いけないなあー」
 道化て言ってみせると、奈良坂はますます表情にいら立ちを浮かべて、「なにも知らないくせに勝手なことを言うな」と言った。
「まあな。なー章平、こいつ最近不機嫌だったろ?」
「はい」
「章平」
「え、でも、だって」
 へへっ、と陽介は笑う。「それさあ、俺と秀次が喧嘩してたせいだから。だろ、奈良坂。俺らがいちゃついてると怒るくせに、ばらけてたらそれはそれで怒るんだよなぁ」
 睨まれた。ははは。陽介は笑う。秀次も秀次で、なにか言いたそうに陽介を見てはいたが、陽介は気づかないそぶりで、「俺らが仲直りしてよかったろ、奈良坂」と言った。
 秀次がまた小さく息をついて、コンビニの袋の中から、プリンを取り出した。封を切る。月見はまだ来ないようだ。十分食べられるだろう。もうじき限定の期間が終わる、秀次の好きなプリンを、秀次は、ていねいな手つきで、掬って食べている。
 それだけ。元通り。たったそれだけ。

 残暑の強い日差しの中を歩いてゆく。まだ夏が終わらない、けれど夏がまだ、続いている。いつまでも終わらないようでいて、もうどこか、終わりに向かっている、そのことが伝わる日差しのなかを、透は歩いてゆく。
「出水」
 声をかけた。
 出水は家の外に出て、庭の草をむしっていた。額にびっしり汗をかいている。透は手を伸ばして、出水が首から下げたタオルで、出水のひたいの汗を拭った。出水は目を丸くして、透の挙動の一挙一動を見ていた。そうしておもむろに、けたけたと笑い始めた。
「……奈良坂さあ! そもそもおまえ、距離感おかしくねえ? もともとそうなんじゃねえの?」
「悪かったな」
「オカンかよ」
「マザファッカーと呼ばれたいのか?」
「ファックしてたのおまえだろ」
「下品だ」
「それ奈良坂クンが言い出したんだしさ」
 はは、はは、は。笑いがなかなか収まらないまま、出水は思い出したように笑い続けている。
「いま、ひとりか」
「あー。佐鳥出てる。上がるか?」
「いや」
 当然のように佐鳥の名前が出てきたことに一拍虚を突かれ、けれどそれは、佐鳥からもう報告を受けていたことではあった。三輪と米屋。米屋と出水。出水と佐鳥。そして太刀川。登場人物の全貌を透はつかんでいない。その必要も感じていない。ただここにいる、目の前にいる出水は、今まで見た中で一番、生きているように思えた。
 ようやく笑いをおさめた出水が、ぐらぐらした門に腕をかけ、なあ、と言った。
「米屋が俺んちを、ていうか、俺のことか、俺を、保健室って呼んでた。知ってる?」
「……いや」
「俺にはおまえが保健室だった、と思う。意味わかる?」
「わかると思う」
「そんでそれは終わったんだよな」
「終わったのか」
「終わっただろ? 違う?」
 あの日銃口を突きつけた頭がそこにある。ただそれだけ。殺せなかった男がここにいる。
「……俺にとってもおまえは、保健室だったかもしれない」
 透がそう言うと、出水は首をかしげた。
「そんな風には見えなかったけど」
「当真さんに向き合えと言ったのはお前だろう」
「そんなこと言ったっけ」
「誤魔化すな」
「旦那とその後どう」
「おまえこそ佐鳥とどうなっている」
 素早く切り返すと、出水は目を丸くし、それからへらりと笑った。困ったような顔だった。困ったように出水は笑って、そして、それきりだった。
「当真さんのバイクで外出をする」
「ご夫婦仲の宜しいことで」
「うらやましいだろう」
 うわぁ、と出水は舌を出した。「よく言うぜ」
「時々寄ってもいいか」
「上がってかねーの」
「今日はいい。また料理を作らせてくれ」
「……は、……マジかよ、結局おまえ、もともとそれ好きなんだろ、そうだろ、そんだけだろ、……ははっ」
 ははは、と笑っている、出水に手をあげた。「いつでも来いよ、待ってる」出水はそう言って、手を振った。
 ただの友人同士のように、手を振った。

 太刀川が、最近風間さんをバスに誘った、と言った。あんたバス以外のデート知らないんですか、と公平は返答した。デートとかじゃねえよ、もっと崇高なもんだ、と太刀川は言いかえし、ただ単にそれだけだった。
 なにも変わらない日々がある、ただそれだけだった。
 太刀川慶に捨てられたら、生きていけないと思っていた。太刀川が好きだったのではないと思う。たぶんそういうことではなく、ただ公平がからっぽなのだということ、空箱でしかなく、ぐしゃりと潰れたらそれだけの強度しかないのだということを公平に教えたのが、太刀川だった。太刀川の肉体が、公平の肉体が何なのかを公平に教え、そしてそのなかに取り残されたものがなんなのかを、公平に教えた。
 そもそもおまえらのせいなんだよ、と公平は米屋にぼやいた。おまえらがいちゃついてるから俺も恋人が欲しくなってさあ、てか、セックスやってみたくてさあ。それでそもそも、おまえが、じゃあ太刀川さん誘えよって言ったんだろ。太刀川さんに頼んでみろよって言ったの、思い出してみたら、おまえだよ槍バカ。
 知るかよと米屋は言った。知るかよ、おまえが勝手にはじめて、勝手にダメになって、勝手に死んで、勝手に生き返った、それだけだろ、それだけの話だろ。
 それだけの話だった。
 そうして公平は生き返ってここにいて、せっせと庭の草をむしり、べたべたする汗を拭っている。草むしりは嫌いではない、と公平は思った。やれば終わるし、なにも考えないで済む。漫画を読むのに似ている。やっている間、なにも考えずに済む。セックスにも似ている。ただこれだけでよかったわけだ、と公平は呆れた。男を次々くわえこむより、庭掃除をしたらよかったわけだ。
「ご精が出ますねえ」
 言いながら、差し出された冷たいペットボトルは、ポカリスエットの外見なのに麦茶が入っている。受け取って一口に半分まで煽った。
「先輩、工事見なくていいの、ほんとに。面白いよ」
 佐鳥は心から楽しそうな表情を浮かべてそこに立っている。底知れない男だと公平は思う。底知れない、そして、妙な男だった。
「見ねえよ別に。工事見てんの面白いか?」
「面白いよ」
「変な奴。邪魔はすんなよ」
「あと畳も張り替えようね」
「屋根直してたら畳傷むかもだから畳ラスト」
「一番毎日使うとこなのになー」
「使うって言うな」
「え?」
「佐鳥クンいやらしい」
 一拍置いて、佐鳥はにやりと笑った。「いやらしいのは先輩でしょ」
 夕暮れがやってきている。滲むような色をした夕暮れはいつも少し怖い。いろいろな記憶を刺激してゆくから少し怖い。そう思いながら公平は立ちあがる。軍手を外して、そこにある手を取った。佐鳥の手を握った。佐鳥は公平を見、けれど、ただ、手を握り返しただけだった。
「嵐山隊、九月から新人入るって」
「へー」
「ほら、木虎藍、中学生の。美少女」
「へー」
「先輩佐鳥の話聞いてますかー」
「うんうん」
「照れてんの?」
「はあ?」
 目が合った。佐鳥は笑っていた。
 底知れない男だ。最初からずっと、そうだった。
「……高校卒業するまで、同棲とかやっぱ、だめだよなー、早いよなーと思うんですけど、先輩はひとりで平気ですか」
「馬鹿にしてんの?」
「ていうか、ひとりで平気になってよね、どっちにしろ俺いそがしいんだから」
「遊びに来いよ。毎日来い」
「うん。がんばる。そうできるようにする」
「住んじゃえばいいのにな」
「ケジメです、ケジメ」
「嵐山隊はゆうずうがきかない」
「正義の味方だから、最善のことをするんだよ」
 佐鳥は笑ってそう言い、なんだそれ、と公平が言い返す前に、公平の、汗でぬれてしょっぱい唇に、そっと、キスをした。
「そうだ、猫飼うといいよ」
「おまえんちに見に行くからいい」
「それいつだよー」
 俺の猫はあいつだけでいいから。


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