11 神様
考えがまとまった。
三輪秀次は立ちあがり、同室の奈良坂に、出かけてくる、と言おうとした。しかし奈良坂はそこにいなかった。どこへ行ったのだろう、と思い、訓練室だろうな、と考えた。奈良坂が出かけていく場所といえばそれしか思いつかなかった。早朝どこかへ出かけていくことが多いということに気付いてはいたが、それもたぶん何らかの訓練なのだろう、そう秀次は思っていた。狙撃手は集まって訓練を行っていることが多い。仲がよい。スポーツマンのようだと思う。スポーツ。
自分の生はスポーツからは縁遠いように思う、と秀次は思った。
夕刻が始まりつつあった。男子寮は静かだった。世界から取り残されてしまったようだと秀次は思った。そこが放棄地帯のなかにあるということを含めて秀次は、捨てられた場所、すべてから捨てられて取り残された場所として、自分の居場所を認識した。自分自身を認識した。自分は捨て子だったのだ、そう秀次は結論した。自分は現実世界にとりのこされた捨て子で、捨てていったのは当然姉だった。そして彼女に追い付きたいと秀次はいつも考えていた。そのことに気付いた。考えがまとまった。
秀次は捨てられた子供であり、それを知らせたのが米屋陽介であり、そして米屋も秀次を捨てて行ってしまった。
ゼラチン質の色をした夕暮れのなかに、秀次は出て行った。ぬるく甘い夕暮れだった。この夕暮れのどこかに陽介もいて、夕暮れを見ているのだと秀次は思った。ごく当然のこととして、そう思った。
タナトス、というのよ、と月見蓮がいつか言った。
あなたは自分のタナトスを制御しなくてはならないわ。そうでなくては自滅することになるでしょう。タナトスは人間を呑み込むものだから。あなたは素直だから、きっとその声に呑み込まれてしまう。
呑み込まれた人間を知っているのか、と秀次は問うた。ええ、と月見は答えた。
タナトス。
俺のタナトス。
姉の死。
姉の死を追い求めること。復讐。徘徊。そして陽介の震える指。茫然と見つめていた陽介の目の深い闇。かつて陽介は、なあ近界民殺したいんだってな、手伝わせてくれよ、と言った。俺も殺してみたくってさ、俺たち、いいコンビになれると思わないか?
なあ秀次、俺のこと好きじゃない? 俺は秀次とセックスがしたい、ほかの相手よりずっと、秀次としたい、できるなら秀次としたい、秀次がしたいって思ってくれたら、うれしい。
一緒にいられたらうれしい。
一緒にいたい。
一緒にいることが苦しいといつから、思うようになったんだ。
いつから?
――復讐に陽介を、加担させるべきではなかった。そうではないか? 俺はずっと間違っていたのではないか。俺が陽介を追いつめた。それは確実なことだった。だから陽介は逃げるしかなくなった。確実なことだった。常に少しだけ先に見えている月のような秀次のタナトスについて、ほかならぬ陽介が苦しんでいる。それを追いかけることを、秀次はやめられないのに、陽介がそのことをかわいそうがって苦しんでいる。かわいそうな米屋陽介。やさしい陽介。秀次の欲望になど目を閉じていればいいのに割っていることを隠せないかわいそうな陽介。俺のかわいそうな犬。
俺が陽介を追い詰めた。
だとしたら、俺が、陽介を、救うことができる、そのはずだ。
「出水」
声を上げた。
出水は敷いた布団の上に転がっていた。天井を向いて転がっていて、あさく呼吸をしていた。そのことで生きているとわかった。蒼白な顔をして、涙のあとがあった。蹂躙されたあとのように見えた。秀次はわずかにたじろいだ。けれど出水は笑い、のろのろと起き上がって、秀次を見た。微笑んで、見返した。
「どしたの」
秀次はためらい、けれど、結局、口を開いた。
「……ここは保健室だろう」
「保健室は廃業したぜ」
「困る」
出水は干からびた声でくっくと笑った。「なんで? なんで三輪が困るんだよ」
「陽介と同じことをしないと、循環できない」
「循環?」
「同じ場所を回って、同じ出口から、外に出る」
米屋陽介を自由にするために、同じ出口から外に出る。
そうして別々に生きる。ただ、それだけでいい。
別の循環を別々に生きる。ただ、それだけでいいんだ。
出水は笑った。くすくす、くすくすと笑いながら、「へえ、そっか、出口ね」と言った。
「俺が、壊れてるからか。だからみんな、ここから出ようとするのか。壊れた扉は、誰でも通れるもんなあ。いいよ三輪。来いよ。なんだっていい。誰だっていいんだ、俺は。からっぽで壊れた、ただの箱なんだから。……三輪、男できんの。俺女しかやったことねえけど」
「……やってみるしかないだろう」
「……はは、マジで、やったことねえの? はははっ、……はは、ははははっ」
笑いながら出水は秀次の手を引き、布団に引きずり込んだ。不自然なほどふわふわとした布団の上に秀次はやってきて、出水の腕の細さも、不自然だ、と思った。まるで死人じみている、と思った。その瞬間ぞっとし、そうして深く、納得した。ああそうか、と思った。だから陽介は出水に頼ったのだ。
出水公平がすでに死んでいるから。
「三輪、どこにも、出口なんて、ありはしないんだ。そしてその男を出口と呼ぶのなら俺がいますぐそいつを消してやる」
「どうしたの、奈良坂」
「バッグワームも着ないで俺らのまえに馬鹿正直に出てきて、どうしたの。本当に殺す気なら遠くから撃てばいいだろう。それができるだろ、おまえには。どうしたの。やる気ねえのか。やる気ねえんだろう。奈良坂。ブラフだ」
「奈良坂、俺を抱きながら、当真さんのこと考えてたろ、ずっと、そうだっただろう?」
「おまえのこともずっと殺してやりたかった」
「おまえを誰も殺してやらないから、俺は、おまえをずっと、殺してやりたかった」
「人間は死ぬべきじゃない」
そのとき秀次は口を開いている自分に気付いた。言葉は勝手に出て行った。奈良坂が虚をつかれたように秀次を見た。
「人間は、誰も、死ぬべきじゃない」
それはどこか悪い冗談のように響いた。
「奈良坂、おまえにとって当真さんって何」
「……神様だ」
「じゃあ俺も神様か」
こくりと奈良坂はうなずいた。出水は手を伸ばし、奈良坂の頭を撫でた。さらさらと撫でて、そうしてやさしく低く、つぶやく声で、言った。
「ありがとな奈良坂、……俺を神様にしてくれて、ありがとな」