8 混乱

 一週間のキャンプのあと、戻ってきた家、透の家ではないのだが(それはもうとうのむかしに失われたままだったが)帰ってくるという言葉を使いたい程度に愛着を抱いてしまっているということに、気づいてはいた、気づいてしまっていた。
 その庭先にいたのが米屋陽介だった。
 早朝の庭に、ラジオ体操が流れていた。どこからかというと米屋のスマートフォンからで、それに合わせて米屋はゆっくりと丁寧に体操を行っていた。透は声をかけずにぼんやりとそれを見守った。どうしてそこにいる、とか、どうして朝からここにいる、とか、尋ねる言葉を胸のなかで整理しながら、実のところそれは尋ねる必要のないことかもしれないとも感じていた。それより聞きたいことは別にあった。
 ボーダー付男子寮で、透は三輪秀次と同じ部屋をふたりで使っている。三輪は部屋にいるときたいていいつも、音を消した映画を、タブレットを使って眺めていた。なにか観ていないと落ち着かないのだというのが本人の弁だった。三輪はそもそも不安定なところのある人間だという認識を透はしていたから、そういうこともあるだろうと理解していた。
 キャンプから戻った昨日、部屋に帰ると、三輪が、映画を観るのをやめていた。
 ぼんやりと机に向かって座ったまま、なにもしないいる時間がひどく長いので、透は気づまりを感じた。しかし、どうした、と聞くこともためらわれた。そういう気配がそこにはあった。ぼんやりしているという表情ではなかった。なにかを考え込んでいる、というように見えた。透は必要以上に声をかけることをさけ、三輪をそのままに早々に眠った。寝る前三輪は机についていて、起きてからも机についたままだった。眠ったのか、と問いかけると、眠った、と言った。
 三輪のはりつめた背中を見たせいか、当真の部屋に行く気になれなかった。前日買っておいた食材を手に、まっすぐに出水の家に来た。佐鳥がいるかもしれないとは思った。
「おはよう、奈良坂」
 体操を終えて、先に、米屋がそう言った。
「おはよう、陽介」
 定められた通りの答えのように、透はそう言った。
 自分の生はどこかそういうところがあると透は思った。あらかじめ決められたシステムとして生きすぎていて、突然の事態に、うまくシフトチェンジできない。
 隊として組むことになったとき、米屋は、陽介でいいよと言った。以来ずっと陽介と呼んでいる。なんと呼べばいいと聞かれて、奈良坂で、と答えた。以来ずっと透は奈良坂と呼ばれている。
 この男の明瞭さが透は好きだった。そして同じだけこの男のことを、あやうい、と、思っていた。
 米屋陽介はあかるいそぶりをして、その実夜の闇に似た目つきをしている。それはなにかに似ている。誰かに似ている、と透は思う。
「キャンプおつー」
「ああ」
「それ出水の朝飯? マメだな、毎日来てるんだっけ?」
「おまえも食べるのか」
「食っていいなら」
 それは構わないが、そもそもどうしてここにいる、の一言、それ以上に気にかかるもう一言が、うまく、口にできない。家の中にも当然透の探す影はない。米屋のとなりに当然のようにいるはずの影は透が自室に置いてきたままだ。
 三輪秀次の影がそこにない。
「……どういうことだ」
 多めに買っておいた茄子が功を奏し、味噌汁の具は透の満足のいくだけたっぷり取れた。それをマグカップに入れた(椀は二つきり買っていないのだ)米屋がふうふうと吹きながら、探し出してきた割り箸でかき回して飲んでいる。それを片目に、透は言葉を発した。
 出水は、不思議な穏やかさで、笑った。
「だから、米屋クンがうち泊まるから、おまえは来なくても、やってけるよ、って言ったんだよ」
「それは分かっている」
「分かってんならもういいじゃん、そういうこと」
「陽介、どういうことだ」
「……どうもこうも」
 米屋は肩をすくめた。透はそれをにらみつけた。米屋は小さく笑い、口をひらいた。
「自分ちじゃ眠れない」
「……三輪は」
「あいつ寮だろ、おまえと同室じゃん」
「俺は出ていてもいい。そういう話じゃないのか?」
「……わかったよ。わかった。秀次から逃げてる。家族とも秀次ともいたくない。別の誰かといないと眠れない。もっと言ったほうがいいか? 秀次が怖い」
「三輪が?」
「……てか、そうだな、秀次といるときの俺がこわい。だから逃げてる。もういいか? これで全部だよ」
「出水は」
 恐ろしいほど冷たい声を出しているような気がした。そして、出水を呼びながら、透はしっかりと米屋陽介を見つめていた。そして透はそのときはじめて、この男が誰に似ているのか気付いた、と思った。
 米屋は、その黒々とした、夜の闇に似た目は、太刀川慶に、yく、似ている。
 けだものの目だ。
「出水は、それでいいのか。本当におまえはこれでいいのか」
 また太刀川を見つけたのか?
 おまえは。
 出水がへらりと笑う気配があった。そういう吐息を漏らして、「べつに」と出水は言った。
「つーか奈良坂さあ、べつにウチくるメリットなかったろ、単になんつーか、メンドー見てくれてただけだろ。悪かったよ手間かけて、俺なんかほっといて旦那とデートでもしてろよ」
「二度とそう呼ぶなと言っただろう!」
 思いがけず怒鳴りつけていた。目の前の米屋が目をみひらき、それから、へらりと笑った。出水のように、馬鹿のふりをして、笑った。腹が立っていた。ひどく腹が立っていた。
「怒ってんの。珍しいな、奈良坂」
「……怒っているわけじゃない」
 情けないだけだ、と、透は、ひそめた声で言った。うまく冷静さを装った声でそう言うと、馬鹿どもは理解したのかしていないのか、声をそろえてけたけたと笑った。
 悪夢のような声だ、と思った。

「べつのこと考えてるだろ」
 結局透はしかし、言われたことをそのまま、おそろしく素直に実行してしまう自分を、もう抑えるつもりもなかった。けたたましい馬鹿どもから別れて家を出たとたん透はほとんど走るように男子寮に帰り、音高く当真の部屋の扉をあけて、「今すぐどこかへ連れていけ」と宣告した。
「大型免許を取ったんだろう、いますぐどこかへ連れていけ!」
「……なに。デート?」
 間の抜けた声でそう問い返されて、さっと頭に血が昇った。しかしもうあとのまつりだった。くっくと笑いながら当真はベッドから起き上がり、「いいぜ、連れてってやるよ」と言った。
 三門市のはずれ、被害を受けていない区域に、蓮池で有名な寺がある。それを眺める場所に併設された茶屋に入って、冷たい緑茶と団子を食べていた。ここには子供の頃祖父に連れられて来たことがある、透はそう当真に伝えようか迷って、結局口にしなかった。
「……なにも」
「嘘ばっかだな。いいけどよ」
 当真は笑ったまま、ラムネ瓶をからからと振った。その瞬間、ざわりと胸の中に広がるものがあった。米屋が太刀川に似ている。そして、出水は。そう考えかけていた。メリットないだろう、と出水は言った。メリットがない。その通りのはずだった。自分でもそう思っていたはずだった。けれど。
 まさか。
 ……佐鳥賢はどうしただろう、ぼんやりとそう思った。佐鳥もあの家から閉め出されたのだろうか。はじめからずっと、まるきりあの家に似合っていなかった佐鳥は、結局まるきり、かかわることができないまま、放り出されてしまったのだろうか。なにひとつ変えることができないままで。
 手を伸ばした。そこにいる男の向こう側に、透は蓮の花を見ていた。ぽっかりと開いたそれは、不思議なほど当真に似ていた。
 そして出水公平に似ていた。
 くちづけをした。
 そこが野外であることや人目など一切透の中から失われていた。かまわなかった。そして頬に水が伝わっていく感覚があった。なんのための涙だか、わからなかった。
 蓮の花が咲いている。
 当真は笑って、じっと透を見ていた。
「当真さん」
「うん」
「俺は」
「うん」
 ざら、と声がひとりでに漏れて、あふれて、こぼれて、止まらない。
「当真さん俺は、あんたを殺さなくちゃならないと思う。あんたはあんまり、可愛そうだ」
「なんで?」
 当真は静かに尋ねた。透はぽたりと涙をこぼしながら、そのときたしかに指に、トリガーをつかんでいた。透はそのときたしかに、本気だった。何もかも本気で、行おうとしていた。
 透もまた静かに答えた。
「あんたが天才で、神だからだ」
 あんたと出水が神で、蓮の花だから当真さん、太刀川慶は出水を壊したのだと俺はいま、理解した。
 トリガーを起動しようとしたその瞬間、空間を引き裂くには穏やかすぎる音で、透のスマートフォンが鳴った。フォーレが静かに流れ、透は全身の力が抜けていくのを感じた。トリガーから手を離した。それは地面に落ちた。電話を受けた。
 出水公平からだった。

「米屋が役立たずだから腹が立って」
 出水は笑ってそう言った。いつも笑ってばかりいる男だった。それにしても過剰ではないかと奈良坂は思った。
「俺さあ依存してるんだよ、セックス依存症、それでそれはおまえのせいだろ奈良坂」
「出て行けといったのはおまえだ」
「来なくていいって言ったんだろ」
「同じことだろう」
 米屋はどこにいったのか、そこにはいなかった。いいじゃん、と、あっけらかんと、あるいはとりつくろった明るさで、出水は言った。
「なあ相手してくれよ、おまえしかいないんだよ結局。やさしくしてくれるんだろ。奈良坂クンはやさしいもんなあ? 一回だって俺を拒否したことがない」
 フォーレのレクイエム。着信音に設定したその音楽が耳の中を流れていて、だから透はもう抗う気をなくしていた。俺はこの男に救われたのだと透は思った。当真を殺そうとしていた。本気で殺そうとしていた。その力が透の手にはあった。
 誰もが誰かを殺すことのできる力を持っているのだ。
 手に引き金を。
 レクイエム。出水公平のために設定した着信音。なにもかも気づいていた。俺は最初からすべて気づいていた。自分の感情に。奈良坂を撃ったあの日から。
 神は死ぬべき存在だ。
「おまえは転がってりゃそれでいいよ、全部やってやるから」
「……俺は太刀川さんに似ていないだろう」
「どうせならイケメンがいいだろ。……これ前にも言ったな?」
 はは、と出水は笑った。そうして実際に、「全部やって」くれた。奈良坂のものを効率よく勃て、自分の尻を効率よく解し、そうして上に乗った。熱い、と透は思った。おまえは死者なのに、どうしてそんなに熱いのだ、と思った。もう出水はあの日、殺してしまった後の、はずなのに。
 いつのまにか部屋に、もう一人影があった。米屋がそこにいた。透は、消えろ、と言った。言ったと思う。言ったはずだと思う。米屋は黙って彼らの交合を眺めていた。小さく、笑っていたように思う。
 世界が歪んでいた。
「疲れているように見えます」
 気づけば透は寮の廊下に立っていて、古寺章平を目の前にしている。古寺は気遣いに満ちた表情を浮かべて透を見つめている。透はうまく表情を作ることができなかった。おそらく自分は能面のような、あるいはいっそ死者のような顔をしているだろう、そう思った。
「長い一日で、とても、疲れた」
 透はそう答えた。
「お疲れさまです」
「ありがとう」
 長い一日で、とても、疲れた。そう言って透は古寺の手に触れた。あたたかい、現実のかたちをした、手だった。

 佐鳥と待ち合わせていた本部のラウンジで、透は太刀川を見つけた。もそもそと餅を食っている太刀川の机に近寄り、透は、太刀川さん、と呼んだ。太刀川は目をあげた。
「A級七位三輪隊狙撃手奈良坂です。少し、お話いいですか」
 太刀川は訝しそうに首を傾けたが、透が「出水のことで」と付け加えると、ああ、と納得したようだった。かたん、と正面に腰かけた。手で制され、そのまま、太刀川が餅を食い終わるのを待った。
「おまえ出水の友達?」
「そういうことになるでしょうか」
「知らねえよ聞くなよ。何、肉体関係は?」
「あります」
「それだけ?」
「いえ」
「それなら友達だろ」
「そうですね」
 不思議な言葉だと思った。
 友達?
「話ってなに?」
「太刀川さん、出水を、殺したいと思いましたか」
「は?」
 太刀川は目をしばたたかせ、それから、どこか憐れむような目つきで透を見た。憐れむような、いつくしむような、目つきで。
「……思ったよ」
「そうですか」
「おまえは?」
「俺は」
 言いかけて、透は首を振った。「わかりません」そう、俯いて言う透に、太刀川は、はは、と笑った。どこかよどんだ声で笑い、「その方がいい」と告げた。
 本当に?
 先輩、と呼びかける佐鳥の声が聞こえる。お邪魔をしました、と立ち上がる透に、太刀川は、とても無関心な、そのくせどこか愛をこめているように聞こえる口調で、
「かわいそうにな」
 と言った。


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