9 出口

 ある日すべてが駄目になる。もしくはすべてから解放される。
 佐鳥賢はよくわからないという感情を精一杯表情に込めたつもりで、「もう来るなって言われたんですよ」と、奈良坂に言った。
「米屋先輩が泊まるから、来るなって。でもそんなの理由になってなくないですか? 米屋先輩と一緒に遊べばいいんじゃないかと思ったんだけどなあ。キャンプみたいで楽しいじゃんと思ったんだけど」
「……そうか」
「奈良坂先輩は? 奈良坂先輩はどう? 追い出された?」
「そう、いうことになる」
 追い出された、締め出された、拒絶された。べつにそのこと自体は構わないといえば構わない、構わないことはない、寂しい、そして、納得がいかない、と賢は思う。何かしらの何かが、形成されつつあったつもりなのに、全部、なかったことみたいにされて、放り出されて納得がいかない。
 奈良坂は無表情で、なにを考えているのかわからなかった。
 本部のラウンジで、ふたりは飲み物を前に向かい合っていた。先ほどまで奈良坂は太刀川と話していたようだった。
「太刀川さんと、何話してたんですか。出水先輩のこと?」
「いや、……ただの挨拶だ」
「先輩まで俺をごまかそうとする」
「お前に言うことじゃない」
「そうですか」
「すねるな」
 奈良坂は小さく笑った。この人も笑うことがあるんだな、と賢は思った。
「俺はもうあいつらには関わらない。それでいい。俺は三輪の心配をする、三輪の、様子がおかしい」
「どうかしたんですか」
「あいつはいつでもどうかしている。……こんな言い方は良くないな」
 首を振り、奈良坂は「皆どうかしている」と、ほとんどぼやくような言い方でつぶやいた。
「無理にとは言わないが、出水にまだ関わる気があるなら、関わってやってくれ」
「……追い出されたのに?」
「無理にとは言わない」
 へらりと賢は笑う。「背中叩かれると調子に乗りますよ。俺はしつこいんだから」笑うしかなかった。
 なあおまえのことこれ以上嫌いになりたかない。そう、出水は言ったのだ。
 これ以上つきまとうとおまえを嫌いになるしかないから、もう俺につきまとうな、そう、出水は笑いながら言って、「さよなら」、と、そう言った。結局一度も、と賢は思う、結局一度も、出水は猫を、見に来てくれない。部屋で寝転がったまま、賢の場所には、来てくれない。
 へらへらと賢は笑った。何が正しいのだろう。努力すればするほど、出水が遠ざかっていくような気がする。
 出水公平の正体が見えない。

 ある日すべてが駄目になる。もしくはすべてから解放される。米屋陽介は友人の家にやってきて、そう告げる。正しくは、「眠れなくなった」と告げる。
 友人は起き上がっていた。ほとんど廃屋のような自宅にごろごろと自堕落に転がってばかりいた、死体のような出水公平は、その日起き上がって、なにか音を立てているもの、おそらくは映画だ、映画を観ていた。めずらしいなと陽介は思った。出水が起き上がっている。そして音の出るものを見ている。そのせいでこの家の死んだ気配は払拭され、明るさを孕んでいた。
 しかし出水はあっさりとその音を切り、手にしていたタブレットを放り出して、陽介を見上げた。
「なに?」
「ひとりで寝るのが無理になったから、泊めてくれ」
「なんだそりゃ」
 はは、と平坦に笑った出水が、「別にいいけど」とつづけた。
 にぎやかな声を切った空間は、元通り死につつあった。陽介はそこに座り込み、はは、と笑った。指がふるえていた。出水は、シーソーゲームの原理が仕込まれているように立ち上がり、マグカップに水を汲んで持ってきた。「水かよ」と陽介は言った。声が震えていた。
「水しかねーよ」
「うん」
「大丈夫か」
「大丈夫じゃなさそうに見える?」
「見える」
「はは」
 遅れて全身に震えが回った。マグカップは持てなかった。畳の上に置いた。おかしいな、と陽介は思った。人間の形をしたものを殺す訓練なんて、もう数えきれないほど繰り返したはずだった。人間の形をしたものを殺してみたいと俺は思っていたはずだった。たぶんそうして俺は、人間の形をしたものを、殺すことを恐れないと思う。目の前にいる出水公平を殺すことすら、俺は恐れないだろうと、そう陽介は思った。
 なのにどうして、こんなに震えているんだ。
 腕が伸びてきた。ゆるりと回された腕があった。その腕に陽介はためらわず縋った。そのために逃げてきたのだ。そのために。出水公平はここにいて、そうして出水公平は、陽介の保健室だった。そのことを出水も知っていて、だからこそこうやって、腕を与えている。
 かたかたと震える体はゆっくりと収まった。そのあいだずっと、陽介は、さっきまで起こっていたことを、考えていた。
 俺の家だ、と秀次は言った。
 半壊のその建物の中に、秀次と陽介は足を踏み入れた。壊れて原型をとどめていない、かろうじて柱が残ったその場所を指さして、ここだ、と秀次は言った。それが、自分の部屋だとかそれ以外の何かだとかを示すわけではないことは、わかっていた。それはつまり、と、陽介ははっきりと理解していた。
 もう理解していた。この「散歩」の示す意味。ここだ、と言う秀次の声が示すこと。死のうか、と繰り返し聞いてしまう、自分の意味。
 抱き合った。セックスをした。そしてその最中に、指が首に伸びた。指が首にからんだ。秀次の首に、陽介の指が絡んだ。やるなら首だ。首を狙おう。簡単なことだ。秀次は抵抗をしない。
 もう理解していた。ずっと前から、理解していた。
 三輪秀次はつまり姉に成り替わりたがっている。
 それを完遂してやるためには。
 気が付いたとき、陽介のものはもう萎えていた。射精はしていなかった。そのときは震えはなかった。ただ単に完全に虚脱していた。指に力はいっさいこもっていなかった。だから秀次は簡単に陽介を押しのけて起き上がることができた。
「ごめん」
 秀次は、そういった。
 それを、言わせるべきではなかったのだ、と思った。それを、言わせるべきではなかった。それを、秀次が口にする前に、殺してやるべきだった。死者になりたいと願っている陽介の大切な隊長様の願いを、かなえてやるべきだった。
 繰り返し、この瞬間を、夢に見続けていた。
 陽介が秀次を殺す夢ばかり見ていた。あらゆる方法であらゆる場所で、秀次は死ぬのだった。そしてその秀次はもはや、陽介の知らない女だった。もはや陽介の知らない女を殺しているに過ぎないと感じているのに恐ろしいほど汗をかいて陽介は目を覚ます。それは三輪秀次ではないのに。もはや彼はそこには存在しないのに。そこで死んでゆくのは陽介の知らない女でしかないのに。
 そんなわけはない。
 死ぬのは三輪秀次だ。
 陽介の、秀次だ。
 ごめん、と秀次は言った。陽介は黙って首を振った。そうして秀次を引き起こしてやり、黙ったまま、秀次の生家を、もはや壊れてしまってばらばらの秀次の家を、あとにして、放棄地帯をゆっくりと歩いて帰った。寮に送り届けた。そうして陽介は、家に帰ることはできない、と思った。
 何も知らない家族を前にして笑ったり喋ったりすることは不可能だった。不可能だった。保健室が必要だった。ほかの場所はどこにもなかった。保健室だけが必要だった。
 そして出水公平はここにいて、陽介を抱きとめていた。都合のいい体だった。陽介は笑った。笑うことができるらしいと思った。あんなことをしたあとでも、俺は笑うことができるらしい。それはいかにも妙だった。あんなことがあったあとでも、俺は笑うことができるらしい。俺はどうやら、傷ついているらしい。
 ほかでもない俺が勝手に行ったことでしかなく俺が加害者だというのに、俺は傷ついているらしい。
「もうさあ」
 出水は言った。
「セックスするしかないんじゃねえの」
「……おまえすぐそれな」
「簡単じゃん」
「勃たない」
「うわ」
「二度と勃たないかも」
「深刻だな」
「死ぬ」
「殺してやろうか」
 はは、と陽介は笑った。良い冗談だった。出水公平はちょっと都合が良すぎて駄目だと陽介は思った。それは可愛そうなことだった。何の関係もないのに巻き込まれている出水はいかにも可愛そうで、都合の良い体で、陽介の願い通り、死体に、似ていた。
 出水公平はあまりにも、いつか夢見た誰かのようだ。

 夏休みの続く日々のなかで起こったことだったというのに、だからそのままだらだらと忘れ去られてしまえばいいのに、折り悪く登校日が挟まった。連れ立って出かけてゆくしかなかった。さぼれば、と出水は言ったが、出かけていかなくては秀次の顔を確認できなかった。
 家には一度も帰らなかった。陽介は出水と同じ部屋で寝泊まりをし、買い出しをして適当な食事を作り出水に食わせた。どうして出水が奈良坂を(そして佐鳥を)追い払ったのかはわからなかった、べつにその必要はなかったのに。そう問うと出水は笑い、「俺にとっても都合がいいんだよ」と言った。
 奈良坂からメールがあった。奈良坂は三輪と寮の同室で暮らしている。


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