7 変化

 薄っぺらな、すぐに潰れそうな家だと思い、それから、出水によく似ていると思った。薄っぺらで、すぐに壊れそうだ。
「だから早く帰れよ、俺約束あるんだよ」
 出水本人が、薄っぺらですぐに壊れそうな出水公平本人が、言いながら扉を開けて、そこに立っている男に気付いた。慶は首を小さく動かした。
 出水が言葉を発する前に、幼い顔つきをした少年が笑って、「太刀川さん!」と言った。
「えーと」
「A級五位嵐山隊所属狙撃手、佐鳥賢、16歳です!」
 びしりと背筋を伸ばして自己紹介をされてようやく、「ああそうか嵐山のところの」時折ニュースで見る顔と名前が一致した。佐鳥とやらはひどく得意げに出水を見上げ、「太刀川さんは覚えてたよ」と言った。
「どうだか、適当言ってんじゃないんですか太刀川さん」
「どうだかな」
「あやしー」
 軽口を叩いている出水の腕を佐鳥が引いた。ね、と、出水の耳元に口を近づけた。
「太刀川さんいつもかっこよくてドキドキする」
「だろ」
 そうされても出水はなんの抵抗も示さず、耳のそばに佐鳥を置いたまま、機嫌よく肯定した。慶は瞬きをした。なんだかおもしろいな、と思った。
 佐鳥はまっすぐに慶を見上げて朗らかに言った。たしかに嵐山に似ている、と慶は思った。
「太刀川さんは何か知ってますか、出水先輩の初恋の話!」
「初恋?」
「今でも時々会うし遊びに行くし今でも好きなんだってさ、でももう恋人じゃないって」
「ああ、そいつ俺知ってるぜ」
「いいなあ、今度こっそり教えてください」
「どうすっかなあ」
「喋っちゃやですよ」
「どうすっかなあ」
 へらへらと笑いかえしてやる。佐鳥は、「お願いします」と元気よく言った。
「いいからおまえもう帰れよ、ほら迎えにまで来てもらってんじゃねーかかっこ悪い」
「え、太刀川さんと出かけんの、いいなあ俺も」
「かーえーれ」
 しばらく軽口を叩きあってから、じゃ、と軽やかに佐鳥は駆けていった。見送った出水がぼそりとつぶやく。
「……どの口が」
 ちらりと見上げてくる目つき。
「おまえこそぺらぺらよく喋るな」
「あいつうるせえんですよ」
「いま、朝だけど。あいついつからいたの」
「そりゃ昨日の夜からに決まってるでしょう」
「やってんの?」
「……ってないです」
「ほかの男とはやってんだろ、あいつにもやってやれよ。あからさまだろ」
 あからさまに、佐鳥賢は出水公平に欲情していた。はやくどうにかなってしまいたいという気配を振りまいていた。あれで許されていないのに夜をともにするというのは気の毒な話なのではないかと、単純に慶は思い、それから、じわりと不愉快な気分になった。慶は男と夜をともにしないし、かならず家に帰るし、慶はセックスが嫌いだった。
「出水」
「はい」
「俺になろうとしてんのか」
 否定の言葉も肯定の言葉も返らなかった。慶はふと息をついた。
「気持ち悪いな、おまえ」
「……っすね」
「否定しろよ」
「事実でしょ」
「なろうとしてんの?」
「なれやしませんよ、知ってる」
 出水は肩をすくめ、小さく笑った。
「俺は誰にもなれやしない」
 そうだろうな、と慶は思った。ごく単純なこと、太陽が昇ることや、木々が緑であることと同じように、自明なこととして、出水公平は何になることもできないのだ、そう思った。
 けれど出水は少し変わったような気がした。
 後輩を前にして笑いながら軽口を叩いている出水は、慶が叩き壊してしまう前の、ただの幼い子供だった頃の出水にとても良く似ていた。だから慶は、もう出水を連れてバスに乗るべきではないかもしれないとすら考えた。けれど出水は「財布取ってくるんで、ちょっと待ってください」と言った。だから慶は、おう、とだけ、答えた。

 朝からぐるぐるとバスに乗り続ける一日だった。昼食は終点(であり始点でもある)でコンビニのパンを食べた。出水は珍しく腹が減ったと言ってパンをふたつ食べた。それ以外の時間はずっと、バスに乗ったままで、慶と出水は過ごし、慶はなんとなく、落ち着かない心地でいた。出水はあきらかに変わったのだ。パンをふたつ食べてまだ足りない気がすると言う出水、黙ったままでもどこか落ち着かないそぶりで慶のとなりに座っている出水、なにかほかのことを考えているように思える出水。
 今日も、滲んだような夕焼けの日だった。夕暮れの街を、バスは走っていった。
 ふと、出水が慶の腕をつかんだ。
 そっとつかんだ指は、けれどひどく、震えていた。見た出水の顔が、ひどく白かった。たちかわさん、と、乾いた声が、慶を呼んだ。
「太刀川さん」
「おう」
「すいません、……もう、」
 ずる、と体が傾いて、慶のほうに崩れた。
「俺は……」
 おまえは?
 気づけば、慶はそこにいて、バスのなかにいて、バスのなかで、夕焼けの滲みに満たされたバスのなかで、出水を抱きしめていた。兄だとか、父だとか、あるいはただ単に、上司のようなしぐさで、慶はそこにいて、しっかりと出水を抱いていた。ぼろぼろと泣いているのは出水公平で、そして出水は、子供なのだと、慶は思った。かわいそうだなと思った。そして同じくらい、殺してやりたい、と、思った。俺は出水を早く、殺してやらなくてはならない、と、慶はそのとき、はっきりと考えていた。
 こんなかわいそうな子供は早く、殺してやらなくてはならない。
「太刀川、さん」
 震える小さな声で、出水が慶を呼んだ。
「どこにも行けないんです」
 涙とは無関係のようなざらざらした声だと思った。
「ぜんぶ、終わってんだ。……俺とは関係なくて、……そんで、俺は、からっぽの、箱だ」
「……トリオンキューブみたいな?」
 はは、と出水は笑い、そうしてこくんと頷いた。「トリオンキューブなら壊れて終わりだから、いいっすね」そう言って、笑った。そうだな、と慶も頷いた。その話はよくわかると、慶は思った。
 出水を殺さなくてはならないという衝動よりよほどよくわかる、と思った。
 ごとごととバスは走ってゆく。降りることができないまま慶は出水を抱きしめてそこにいる。

 とほうにくれた子供みたいな仏頂面してどうしたの。
 迅悠一の言葉を突然思い出した。はだかの、痩せた出水の背中を眺めていて、ぼろっと落ちてきた言葉だった。ひとつとししたのくせに大人みたいな笑い方をして、迅は慶をじっと見つめて笑い、そう言った。
 ほんとはもう子供じゃないくせにそんな顔してたって太刀川さん、意味ないよ、もっともみんなあんたが好きだから、さびしそうにしてたら、遊んでくれると思うけどね。
 なに、おまえ俺と寝たいの、そう尋ねた。迅は笑って、あんたとやるくらいなら風刃を返してランク戦に戻るよ、と言った。戻れよと慶は言い、やだねと迅は言って、それきりだった。それだけだった。
 出水をつれてどうにかバスを降りたところで、銭湯を見つけて、半ば強引に入るぞと言った。出水はほとんど無反応のまま、銭湯に引きずり込まれて、機械的に服を脱いだ。覚えている痩せた体よりも、さらに痩せて、ほとんど骨ばかりで、これを抱くのはつまらないだろうなと、慶はぼんやりと思った。出水の相手をしてやっているらしきガキどもは、いったいなにが面白くて、こんながりがりの子供を抱きたがるのだろう。
 ただの子供にすぎないのに。
「おい天才シューター」
 ぼそっと声をかけると、びくりと背中が震えた。笑いながら振り返る顔よりも先に、震える背中があった。だから笑ったって意味がないので慶はすこし苛立つ。とりつくろうことができない出水、けれど出水は本当に、子供でしかないのに、のびのびと仏頂面をさせてやれない慶の手落ちだった。大切なことは隠しておけと、本心は沈めておけと、言っても仕方がないのだ、子供、なのだった。
「なんですかいきなり。やめてくださいよ」
「おまえさあ、あれ、ほら、迅くらい図々しくなってみせろよ」
「あんた本当に無神経だなあ」
「だろ」
「なんであんたなんかを好きになったんだろう」
「なんでだったんだ?」
 わかんない。出水は小さく言って笑った。
「帰りは、タクシーでも拾うか」
 しばらく続いた無音の後、慶は言った。声は夕暮れの中にまぎれていった。


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