6、居場所

「キャンプ、楽しみ?」
 汗をかいた背中にシャツを着るのは不快なので、透はセックスのあと必ず水をあびる。この家にはガスが通っていないので(出水が、通して、いないので)、水は冷水しか出ない。夏の今でも水を浴びることには痛みを感じるというのに、と透は思う。冬になったらどうするつもりなのだろう、この男は。
 明日からキャンプに出かけることになっていた。あまり愉快なものではなかった。研修、とか、訓練、とか言ったほうが近いようなものだ。東の主催するそれでは、テントもガスコンロもなく、火を起こすところから獣を狩るところまで、獣の皮を剥いで肉を削ぐところまで、そして適切な寝床を見つけだして確保するところまで、すべてを教育される。
 透はどう答えようかと少し考え込み、結局、ありのままを言った。
「少し気が重い」
「ふーん」
「あそこは、俺の、居場所ではない」
「居場所ね。おまえの居場所ってどこ?」
「……ここでもない」
 透は自分の腹を誠実に探り、そう答えた。
「たぶん俺の居場所は、もうどこにもない」
「ははっ」
 ゆっくりと、乾いたどこかあたたかな声で、出水は笑った。嫌味がないが内面もない声だ。「言うね」
 そういわれてゆっくりと、もうとりかえせないことを言ってしまったような気がした。透の居場所はもうどこにもない。そのことを、出水に伝えて初めて、確定事項にしてしまったような、気がした。
 透の居場所がかつてあったことについて、語るべきだとは思えなかった。だから、語らなかった。透の居場所はかつてあった。死んだ祖父の部屋だった小さな和室とか、父親が教えてくれたジャズギターとか、そういったささやかなものは、もう失われて二度と、戻ってこない。
 俺の居場所はもうどこにもない。べつにそれでいい。それで生きていける、そう奈良坂は思う。
「おまえは」
 それを問うべきだったのか、正しかったのか、わからなかった。
「おまえの居場所は、ここなのか」
 出水は目をしばたたかせ、それから薄く笑って、「ここ以外ねえだろ」と答えた。


「嵐山さん、いま、つきあってる人、いるんですか」
 番組の収録後の楽屋で、賢はそう尋ねた。ニュース番組のなかで、家族や大切な人、という言葉を、嵐山が使ったからだった。家族や大切な人。その言い方は、つまり、恋人を指すように、賢には思えた。賢がそう尋ねると、びくりと時枝が賢を見た。綾辻は別の部屋を与えられていてそこにはいなかった。
 嵐山は快活に答えた。
「十五歳の時から、同じ人とつきあってるよ」
「えっすごい。じゃあ恋愛相談してもいいです?」
「ひとりとしかつきあったことがないから経験値が低いけど、俺でよければな」
「……経験値、って、人数で決まるものですか?」
「そうだなあ、充の言う通り、人数の問題じゃないかもしれないな」
「三年」
「三年になるのか。そうだな、三年になる」
「なんていうか、あーでも嵐山さんなさそうだなぁ、しつこくしすぎてるんじゃないかと思って自己嫌悪みたいなの」
「なんだ賢でもそんなことがあるのか」
「さすがにちょっと」
「そういうこともあるよ、俺もあった」
 にこにこと嵐山は言い、でもな、とつづけた。「いつも相手のことを考えることと、最善を尽くすこと。それでだめなら、もう一度よく考えること」
「いつも相手のことを考えること」
「相手にとって最善のことを考えるんじゃなくて、相手のことを、考えること、だ」
「それ違うんですか」
「なにが最善かなんて俺には分からないよ」
「そんなもんですか?」
「そうじゃないか? 充はどう思う?」
「……嵐山さんの言う通りだと思います」
「うん」
 嵐山は笑い、「こんな言い方で役に立つかわからないが」と言った。
「よく考えます」賢は答えた。 
「さて、俺は帰り、走っていくが、充と綾辻はバスだろう? 賢はどうする?」
「あっ、ご一緒します!」
「じゃあオレは綾辻先輩と帰ります」
 では、と立ち上がる時枝が、心なしか、そそくさと出ていく、のを賢と嵐山はなんだかそこにとどまったまま見送ってしまって、そうして嵐山は賢を見下ろして、笑った。
「充の機嫌を損ねたみたいだ」
「先輩はとっきーのことなんでもわかるんですね」
「わからないよ」
「そうですか?」
「うん、わからないことばかりだ」
「好きな人のことも?」
「わからないことばかりだよ、だから、わかりたい」
「わかりたい」
 わからないけど、わかりたい。

 荷物を抱えて、夏の道を走った。
 がさがさとかさばる紙袋が、がさがさとうるさくて、うるさければうるさいほど、元気になれる気がした。そういうものが、必要なんじゃないかという気がした。しつこすぎる性格だとは言われていて、言われ慣れていて、なんとも思っていないつもりだったけれど、好きな人にそう思われるかもしれないっていうのはまた、別の問題なんだな、と賢は思った。それでも近づきたかったし、拒絶されてないってことは、オーケーってことだろうと思っていた。
 最善のこと。
 出水にとって最善のことではなく、出水のことをよく考えたうえで、佐鳥賢が選ぶ、最善のこと。
「コロッケ! ですよ! 出水先輩!!」
 大声をあげながら、ひじでドアノブを回して賢は部屋に入った。出水はいつも通り、ごろりと人形のように転がっていた。人形を見ると佐鳥は起こして座らせて食事でもあてがいたくなってしまうのだ、人形にとってそれが「最善」なのか、わからないけれど、人形なのだから食事なんて、要らないのかも、しれないけれど。
「コロッケ」
 声は心なしか、いつもよりワントーン明るく聞こえた。
 賢は、どさり、と紙袋をそこに置き、そのままびりびりと紙袋をやぶいて、机のかわりにした。この家には机というものがないのだ。というか、家具と呼ぶべきものが足りなすぎるのだった。キャンプみたいでそれも、悪くないと賢は思ったが。
「……は? コロッケ?」
「先輩コロッケ好きでしたよね?」
「これ全部?」
 ぽかん、という口調で出水は言い、それから、ひっくり返って、腹をかかえて、文字通り腹をかかえて笑い始めた。「佐鳥ばかじゃねーの!?」
 紙袋いっぱいに、コロッケを詰めて、賢は出水の家にやってきたのだった。「俺が揚げたんですよ」と賢は胸を張った。賢の家は精肉店だ。運命みたいな話で、賢の家では毎日コロッケを店先で販売していて、賢はオフの日は店番をやらされているし、コロッケや串カツを揚げることもできる。


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -