「そろそろ中敷買い換えろよ」
 目をあげるとそこに諏訪がいる。だらしのない、首周りがのびきったTシャツ、何年大地の家に放置され続けてきたかわからないそれを着た諏訪が、室内であることも他人の家であることもなんら気にせずもくもくと煙草をふかしながら大地をみおろしている。
「あんたそんなこと気にするようなキャラでしたっけ」
「こうなっちゃうとなあ、気になっちゃうもんなのよ家の中のこととか」
「そーすか」
「中敷買って帰れよ。おまえガタイでかいから靴はいいの履けっつったろ」
「言われました。守ってますよ、諏訪さん」
「ホントかよぉ」
 諏訪が目を細めてそう言ったとたん、すう、と諏訪の輪郭が薄れた。あ、と思った。諏訪は苦笑いを浮かべ、「クソ」と言った。
「嘘ついたわ」
「嘘ってほどのこともなかったのに」
 その声はうまく届いたかどうかしらない。ゆっくりとうすれて消えていく諏訪を大地はじっと見つめていた。その気配が完全になくなるのを待って、靴の中敷きを調べた。たしかに、磨り減っていた。「そんなこときにするようなタマかよ」もういちど大地は呟いた。もうそこには諏訪はいない。煙草の香りがするのは、ただの錯覚でしかない。
 煙草の香りがするのは、ただの錯覚でしかない。

 寂しい夜には泣ける映画を借りて帰る。話題になった時代劇、人情物、夫婦の交情を描いたそれを、小さな音で流しながら、だらだらと泣いていると、タオルを差し出される。そのタオルに大地は指をのばし、そしてするりとつきぬける。涙がもう少したくさん出る。もう少しだけだ。たいしてかわりはない。困ったように小さく笑って、諏訪はそこにいる。タオルを大地に差し出している。
「いま、……いいとこなんで」
「知ってるよ」
「邪魔しないでくださいよ」
「してねーよ」
 とたん輪郭が薄れた。大地は舌打ちをした。
「あんたって人はなんでそうなんですか」
「知らねえよ」
 諏訪は笑いながら姿を消し、大地はぼたりと涙が畳を濡らすのを見た。もちろんこれは映画が美しく寂しかったからで、ほかの理由はなにもない。もはや泣くようなことですらないのだ。もはや。
 もはや。

 毎日体を鍛える。毎日きちんとジムに通う。毎日業務を確実にこなす。新人研修をつづけてもう何年だ。隣に座るのが諏訪でなくなってからもずっとここが大地の部屋だ。
 諏訪はここには現れない。
 ということは、と大地は思う。あれは大地の部屋に属したものなのだった。ボーダー本部ではなく、三門市でもなく、大地の部屋にひもづけられて、諏訪はあそこにいる。そこまで考えたところで大地は、推理ゲームはオレの分野じゃない、と頭を掻いた。新人研修オペレーションの相方が首をかしげて大地を見た。
「思い出し笑い」
 そう説明しながら大地は、ルールが厳密すぎるよなあ、と考えている。
 あんなにも諏訪が、嘘ばかりついていたとは知らなかった。そして大地が、諏訪の嘘をあんなにも愛していたことも知らなかった。そんなことも知らないまま、何年、十何年、何十年。ずっと隣にいて、それが永遠なのだと思っていた。
 諏訪は嘘ばかりつく。殊に大地の前では嘘ばかりついていた。だから諏訪が現れたとしても、数分もそこにいることはほとんどない。諏訪はつい嘘をついてしまうからだ。そして、ああまいったなというような表情を浮かべて、消えていく。まいったなと思うなら嘘をつかなければいいのにと思うけれど、そんなものにはとても耐えられないと大地は思う。嘘をつかない、ただ率直なだけの諏訪なんて、とても耐えられないと思う。だからもう諏訪は出てくるべきではないのだ。

「最近、帰ってこなかったみてーじゃん」
「……ああ。はい」
 風呂に湯を貯めていたら、背後から声をかけられた。大地は振り返らなかった。
「帰ってきたら、アンタが消えるところ、また見るはめになるんで。本部の仮眠室使ってました」
「ふん。じゃあなんで帰ってきたよ」
「あほらしくなりました」
「ふーん」
「あんたが出ようが消えようが、知ったことじゃない」
「おまえは嘘ついても消えないからいいよなぁ」
「いいでしょう」
「堤、今晩肉焼いてくんない」
「そう言われると思って買って帰りました、あんたの好きなやつ。あんた高い肉高い肉うるさかったけどホントはコマ肉炒めたのとかが一番好きでしたね」
「過去形使うなよ」
「使いますよ」
「俺はここにいるだろ」
 一度も振り返らなかった。消えるところを見たくなかったからだ。
「アンタはそこにいません」
 もちろんそれを諏訪は知っていたのだ。じっと目を閉じて待っていてそして目を開いて振り返ったときにはもう諏訪はそこにはいなかった。煙草の気配の一片さえもそこにはなかった。そして大地は、やはり、煙草の香りを嗅ぐのは錯覚に過ぎないのだと悟った。立ち尽くしていた。裏切られたような気分だった。
 実際裏切られたのだ。何に?
 風呂を止めた。風呂に入った。風呂から上がったときにはもう顔は乾いていた。肉野菜炒めを作った。作りながら大地は、遺されたひと箱の封を切った。咳き込みながら大地は煙草をふかした。ひどく不味かった。そしてキスの味がした。

「おまえいまでも俺でオナニーしてんの」
「……TPO、ってもんを、わきまえろよアンタって人も……」
「なあ」
 いくにいけなくなった手が止まって、しゃがみこんだ男の腰骨ばかりを見つめている。瞬間的に、抱きたい、と思い、抱きたい、という思考ばかりが頭のなかを流れ、そして止まった。抱けない、もう二度とだ、そう思った。
「……そうですよ」
「手伝ってやろうか」
「は」
「脱いだほうがいいか?」
 大地は、はく、と息をのみ、それから、「……いえ。着たままで」と答えた。答えながらどうしようもなく、ああこの人のからだが見たいなあと思っていた。思っていたのに断ったのは、それが身を切るだけだと知っていたからだった。
 諏訪は指をのばし、大地のそれに指をからませた。もちろんそれはなんの感覚ももたらさなかった。そのあたりに指の影があるというだけのことだ。にもかかわらず大地はひどく興奮した。諏訪が指を前後に動かすと、本当に扱かれているように錯覚した。びゅ、と飛んだ。
「変態」
 諏訪はそう言って、笑った。精液は諏訪を通り抜けて、ぱたた、と布団の上に落ちた。慌てて大地はそれを拭おうとし、諏訪のなかをつきぬけた。寒気がした。
 諏訪は、くくく、と笑い、そのまま、大地を腹に突き抜けさせたまま、大地の上に覆いかぶさってきた、ようだった。声の位置でわかった。諏訪はあるいは、大地を抱き寄せようとしたのかもしれなかった。
「可愛そうなんかじゃない。そうだな?」
 それが別れの合図だった。
「やめろよ」
 大地は呟く。「そういうのやめろよ」いつも終わってから大地はつぶやいている。いつも、いつも、いつも。くりかえし。

 季節が過ぎていく。冬がすぎて春がすぎて夏が過ぎてゆく。そのあいだずっと、諏訪はそこに現れては消え現れては消え続けた。
 ぱちん、ぱちん、と枝豆を枝からはずして切っていると、背中の後ろで、くっくと笑う声が聞こえた。
「おまえ背中、丸いの。かわいーの知ってる?」
「男にかわいー言って楽しいっすか」
「楽しいよ」
「あんた嘘回避するの上手くなりましたね。そのまま黙っててくれませんか。そしたら消えずに済むでしょう」
「頭いいな。でも寂しくねーのか」
「あんたが消えたあとのほうがずっと寂しいんですよ」
「堤大地くんも嘘回避上手くなったな」
「オレは昔から正直でしたから」
「じゃあ諏訪さんは、だまりましょう」
 そのまま、諏訪は黙った。
 枝豆を切り終えて立ち上がると、諏訪は、目を閉じたまま、大地の背後に転がっていた。反射的にタオルケットを探してきてかけてやろうとしたあとで、ああそうだと思い出した。思い出して、ひどくがっかりした。タオルケットはこの男と同じ次元にもはやいないので、それがぺたんと落ちてゆくところを見たくはなかった。
 かがみこんだ。触ることができないからだに、ぎりぎりまで指を這わせた。触っているようなふりをした。かがみこんだ。キスをした。くちびるで空間をなぞっただけだ。いっそオナニーでもしてやろうかと思い、ばかばかしくなってやめた。
 茹で上がった枝豆とビールを手に戻ると、諏訪の姿はもうなかった。
 裏切られたような気がした。
「嘘をつくならせめてオレのまえでつけよ」
 呟いた。ビールが冷えすぎていて指が痛い。二本ぶんのビールをこれから大地はひとりで片付けなくてはならない。
 煙草に火をつけた。それを置いた灰皿の脇に、ビールを置いた。

 ようやく墓参りができたときには、もう盆はとうに明けていた。皆よくわかっているという墓前で、麻雀の牌まで置いてあるのには笑うしかなかった。線香のかわりに、愛飲していた煙草に火をつけた。備えて、そうしてもう一本、火をつけた。最近はもう、うまく吸えるようになっていた。深く吸い込んで、吐いた。
「おまえがそんなにやさしいと、俺もう帰ってこれなくなっちゃうかもしれないぜ」
 部屋以外の場所には出ないはずじゃなかったのか、と思った。
 一拍待った。それでも隣に立った気配はなくならなかった。大地は、この人よりも自分の方がでかいことを呪った。否応なしに視界に入ってしまうから呪うしかなかった。隣に立たれると、絶対に見えてしまうのだった。肩のかたちとか、そういうこと。
 そういうことを、早く忘れたいのに。
 一拍待った。それでもなにも変わらなかった。
「……消えてくださいよ」
「消えらんねーよ」
 諏訪は、笑いを含んだ声で言った。
「ほんとだから。いつかまた会おうって俺が言ったらそれが別れの合図だ。大地」
「俺の名前を呼ぶのをやめてくれないか」
「そうだな」
「やさしくするのもやめてくれないか」
「うん」
「オレは嘘をついても消えることができないので嘘をつきます。諏訪さん。あんたが好きだったよ」
「うん」
「あんたが好きだった」
「うん」
「あんたが好きだったんだ」
 うすぼんやりとした視界のなかで、諏訪は笑っている。諏訪に大地は向き直る。諏訪をじっと見つめる。
 架空の散弾銃を取り出した諏訪が、まっすぐに大地に狙いを定めた。諏訪は大地をゆっくりと撃った。けして届かぬ架空の弾を、大地は受け取った。重く鋭い弾だった。
「大地。いつか、また、会おう」
 じいじいと残暑の蝉が泣くそこに、煙草の香りだけが残っている。大地のよく知っている、染み付いた、それこそが大地の胸を射抜く、重い弾の火薬の音だった。


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