暑い暑い夏だった。最上宗一が死んだ。
 しっぽがとれたぬいぐるみを見るような気持ちで、おまえのためならなんでもできると言った。迅はしっぽのとれたぬいぐるみの目をして、真っ黒い、底のしれない目をして、じゃあ俺に抱かれてみろよと言った。おまえ俺の女になってよと言った。なんでもできるんならしてみせてよと言った。痛い、痛い、痛いばかりのはじまりだった。
 まだ子供だった嵐山准はその日いなくなったのだと思う。最上宗一が死んだ日にいなくなってそのまま二度と帰ってこない。いなくなってしまって長いその子供は、けれどたぶん迅のなかにはまだ残っているのだと、ときどき准はそう思う。いなくなったはずのその子供を迅は隠し持っていて、ときどき准でなくその子供を見ている。迅が破壊する前の子供を。
 暑い、暑い、夏だった。
「夏だなー」
 クーラーをきかせた部屋で、迅はべったりともたれかかって、准の肩ごしにパソコンの画面を見ている。ホームビデオのなかで、嵐山副が活躍している。それを胸をときめかせながら見ている准は、ほとんど無意識に迅の髪を撫でた。さやさやと撫でていた。迅の髪はつるりとした感触でここちよかった。時枝充の髪が少し似ている。充のほうがさらさらしているのだけれど。
 はあ、と迅は息を吐いた。
「あのさあ」
「うん?」
「いや……」
 なにかを言いかけた迅はけれどなにも言葉にしないまま、並んで腰掛けたベッドの、嵐山の背中のうしろにごろんと転がった。「その角度から見えてるか?」そう聞くと、「見えてる見えてる」なおざりな返事。試合が終わる。終わるまで准は集中していて、それからふいに集中を解いた。迅が准の服をまくりあげてなにかごそごそと動いている。
「こら。くすぐったいよ。見たがったのはおまえだろう」
「観たがったわけじゃないよ、嵐山ならどうするかって訊いたら、おまえが勝手に再生したんだ」
「でも見たかったんだろ?」
「見たかったよ」
 べろんと准の着ていたTシャツを剥がした迅は笑いながら、「弟妹をみてるおまえを見たかった」と言った。成程。
 口当たりの悪いものを見ると、口直しに、准の出ているニュース報道の録画を見るのだ、と迅は言った。
 おまえにもそういうのはあるかと聞かれて、あると答えて、そうして迅と准はふたりそろって准の部屋で、佐補と副のそれぞれの試合の録画を見ることになったのだった。ホームビデオはいくらでもあった。だからいくらでも見せることはできたし、准はじっさいいくら見ても飽きなかったのだけれど、こうなってしまってはビデオを見るどころの話ではない。いくらなんでも弟妹のビデオを見ながらそういったことを始めるわけにはいかない。というかここは家で家族が階下にどころか隣の部屋にいるというのに迅ときたら。
「やめないと殴るぞ」
「んー……」
「そう。そこまでにしてくれ」
 怪しいところをまさぐっていた迅の手がぴたりと止まり、ただ単に准の腹のあたりにおさまった。ただ単に上半身を脱いだ准の背中に、迅が抱きついている形になった。ぺたり、と張り付いて、小さな子供のようなしぐさで、迅はそこにいた。
 小さな子供。
 ときどき迅は小さな子供のようにふるまう。それがどういう意味を持つのか、准にはわかるようでわからないようでわかるふりはしないほうがいいような気もしていて、ただ准は手を伸ばして迅の頭を撫でたり体をなでてやったりする。ごろんとベッドに転がった。「迅」呼んだ。
「なに」
「これより、向かい合わせがいい」
「ん」
 向き直った。向い合わせになって、抱き合った。もういちど抱き合った。ぴったりとくっついたひとつのもののように、抱き合ってそうして准は目を閉じた。
「夏だな」
 もういちど迅は言った。
「外に出たくないよ。暑いだろうから。ここは涼しくていいや」
「もう、涼しくなってるだろう」
「副も暑い中がんばってたなあ」
「うん」
「外は暑いよ。俺はずっとここにいたい」
「帰らないのか」
 はは、と迅は笑った。「ずっとここにいたいな」
 腕に力がこもった。迅は准の体を強く抱いていた。ひとつのものになりたいというように。

 暑い暑い夏だった。
 ほとんど力任せというように、ぎちぎちと押し入ってくるなにか。硬くて熱かった。どこまでも硬くて熱くて暑くて苦しかった。そのころ迅が最上と二人で暮らしていた狭いアパートの一室、もうじき立ち退くことになっているのだと言っていたその部屋、その後近界民に破壊されることになる部屋の畳。痛い、と准は言わなかった。ただ奥歯を噛み締めて、目をみひらいて、起こっていることをすべて受け止めようとしていた。なにが起こっているのか、きちんと把握して、記憶しないといけないと思った。それが、しっぽのとれた犬を哀れんだ、責任だと思った。
 泣けよ、と迅は途中で言った。
 泣けよ嵐山。泣け。はやく。そう言われても涙はこぼれなかった。涙がこぼれなくて困った。なにもできないのだという無力感ばかりが募った。痛いばかりだった。とても痛くてめりめりと壊れていくのがわかった。けれど本当にくるしんでいるのは迅のほうだった。わかっていた。ほんとうにくるしんでいるのはいつだって迅のほうだったのだ。
 なにもうしなったことのない嵐山准。
 祖母と両親と弟妹と犬のいる嵐山准の家庭。友人と笑い合うだけの生活。迅悠一に与えられなかったものすべて。哀れまなかったといえば嘘になる。そしてそれは准の罪なのだと思った。迅を哀れんだことは准の罪なのだった。だから迅には正当な権利があった。それを准は教えただけだった。
 泣けよ、と繰り返す声。
 泣けよ、嵐山。

「嵐山」
 迅の、とまどった声が聞こえる。
「なんで、泣いてんの」
「いや……」
 准は混乱している。どうしてだろう。夏だと迅が言った。それだけのことなのに。記憶が苦しかった。それだけの理由だろうか。記憶のなかで准が泣くことができなくて苦しかった。それだけの、たったそれだけの理由だろうか。たった? たったなどと言えるようなできごとだったか? 准を破壊し作り変えたのはあの日のことではないか? 准はそれを差し出した、そうではないか?
「おまえが、夏だといったから」
 准は言った。
「おまえが夏だと、暑い夏だといったから。だから泣いている。そうだと思う」
 ああ、と、吐息のような声を、迅は漏らした。たぶん理解していた。たぶん。たぶんそうだった。だからここで迅が准にしがみつくようにして何を伝えようとしているのか准は理解しているはずだった。理解できているはずだった。たぶん。ぴったりとくっついている迅が、ひとつのものになりたいというようにくっついたまま離れない迅が、准の腹の上に手のひらを置いてなにを思っているのか、准は完全に理解したと思ったしそれは間違っていないはずだった。
 それは間違ったことではないはずだった。
「おまえを産みたいよ。迅」

 失われたなにかのかわりに。

 やっぱり暑いじゃないかと迅は言った。そうだなと准は答えた。川原にいた。放棄地域の川原にふたりはいて、准はそこに転がっていた。嵐山家を出て、遠回りをして、玉狛支部に向かう途中の道、遠回り。
 放棄地域でばかり、セックスをしていた。
 たとえばひとつの都市を愛するように、迅悠一を愛しているのだと言ったら、迅は笑うだろうか。家族は、充は、あるいは忍田は、笑うだろうか、それとも共感してくれるだろうか。この世界がどんどん傷ついていくことを俺が止められるのならそれが俺にとって愛することだと、そういう意味で迅悠一を愛しているのだと言えば誰かが、ああ、と、吐息に近い声で賛同を漏らしてくれるだろうか。
 わからなかった。准がどれくらい狂っているのか、准にはわからなかった。ただ迅が好きだと思った。この都市を愛するように、迅が好きで、そして迅が傷つくことがなかった過去に、迅を産みなおすことができたらきっと幸福だろうと、そんなことは絶対に不可能だとわかった上で、そう考えたのだった。
 迅は笑い、俺を産むの、おまえが、と言った。それは不可能だろ、と。そうだな、と准は言った。そうだな、つまらない冗談を言ったな、と。送っていこう、と言った。帰ろう。もう外は涼しくなっているはずだから。帰ろう。迅。送っていくから。
 ひとつのものにはなれないのだった。
 ブルーブラックの夜のなかに、迅のサングラスがぎらりと光った。それをばかげたうつくしさだと思いながら准は、キスをゆっくりと受け止めた。長いキスだった。准のなかをすべてさぐりあててゆくような、准のすべてをさらいだしていくような、そういうキスだった。わかっているのだ。またそう思った。准が言った言葉の意味を、迅はちゃんと理解しているのだ。迅悠一を産みたかった。完全無欠な形で。
 そしてそれは暴力と等価だった。 
 自分の罪を准は思った。生きている限りすべてが罪だった。傷つかないで生きている限り罪人なのだと思った。笑っていられる限り、誰もにとって頼りになる偶像として笑っていられる限り、それは傷ついていない証拠でしかない。そのことを迅といると思い知らされる。そしてきっと、思い知らされるために迅の傍らを選んでいる。
 迅は俺を殺すことができると知っているから迅の傍らを選んでいる。
 体を探る手が、どんどん的確な場所を選び始める。准はうまく声を漏らすことができない。十四歳の夏に始まったその行為で、いまではもう痛みより快楽を得ることができるのに、あの夏からずっと、准はうまく声を出せない。声を殺したまま、迅の手の的確さをただ必死で追い続けることしかできない。あの夏のはじめのそれとなにひとつ変わっていない。迅のすべてをトレスしたいと願うようにただすべてを感じている、それだけしかできない。
 ぐ、と喉の奥で音が弾ける。迅が准の最奥をさぐっている。快楽を得るための場所に作り替えられてしまった最奥を、迅の指先が探っている。つま先が空中を蹴った。声が喉のなかで暴れまわっている。そいつを出してやりたくてたまらないのに准は声を漏らすことができない。やけに大きく聞こえる虫の鳴き声。川の音。ほかのことを考えてはいけない。集中しなくてはいけない。迅を知らなくてはいけない。迅のすべてを知らなくてはいけない。迅の与える快楽の全てを知らなくてはいけない。そして苦痛の全てを。
 苦痛の全てを。
 ひゅっ、と息をすいこむ音がやけに大きく聞こえた。その瞬間、迅はわけいってきた。
「あ」
 声が。
 声が漏れて出てゆく。弾けるように、全身が弾けるような感覚のなかで、准ははじめて声を漏らす。あ、あ、あ、ああああっ。悲鳴に近いその声が、ずっと、たぶんずっと、迅に伝えたかった言葉だった。迅にずっと伝えたくてかなわないままだった言葉だった。かわいそうな迅。テレビのニュースを通じてしか准にすがることができないのだと言った迅。ここにいる男の強度を信じることができないのならかわいそうだった。そして准の手落ちだというほかなかった。もっとなにかを伝えてやらなくてはならない。俺がこの肉体で伝えてやらなくてはらならない。涙がぼたぼたとこぼれた。声と涙があふれかえって止まらなかった。そして准は射精をしていた。一度も触れられていないままのそこもあふれてはげしく吐き出していた。
「う、あ、あああっ、じ、じん、じん、あ、ああっ」
「……あらしやま」
 呼ぶ声に縋るように、迅、迅、迅、それだけを漏らし続けた。苦しかった。全身が快楽に満ち足りて狂おしいほどだった。そしてそれこそが迅に伝えたいことだったのだ。必死で迅の背に爪を立てながらただ虚空につま先を伸ばした。すべてが迅のためにあった。その瞬間全ては迅のためにあった。嵐山准のからだ。嵐山准の全て。そして三門市の全て。すべてが迅悠一のものだった。大丈夫だと准は言った。くるしみにかぎりなく似た快楽の中で、大丈夫だからと言った。くりかえしくりかえし、迅に、大丈夫だ、大丈夫だ、大丈夫だと、言い聞かせ続けていた。どうしてだろう。なにを肯定したかったのだろう。迅悠一が生きていること。
 多分その全て。
 気がつくとすべて終わっていて、体を投げ出したまま、准は静かに息をしていた。
「……無理させてごめんな」
 准は小さく笑った。「そんなこと言わせて悪かった」
「何言ってんだ。……立てるか? まだ無理か」
「もうすこし、ここで」
「うん」
 迅、と准は彼の名を呼んだ。迅悠一。准の恋人の名前、唯一の恋人の名前、唯一無二の名前を呼んだ。迅。繰り返し、准は名前を呼び続けた。ブルーブラックの闇に、それは溶けて消えていった。迅はそこにいて、ただ准の声を聞きながら、うん、うん、と繰り返して頷いていた。手が降りてきた。迅の手が頭を撫でた。やわらかい手のひらだと思った。剣など握ったこともない、やわらかいだけの子供の手のひらのように、そのとき准は錯覚することができた。
 なにもかもまぼろしで、彼らはただの幸福な子供で、あのとき畳の上に転がっていたのは、ただの、夏の、魔物で、まぼろしでしかなかったのだと、そう考えることは不可能ではないのだ。
 そしてそうではないのだと理解することも、しつづけることも、不可能ではない。
「蠍座」
 指差す迅の先にあるものを准は見ている。准はいつも迅の指差すものを見ている。迅が指差す未来を見ている。それらをすべて明晰に捉えようとしている。何もかもすべてを手に入れることはきっとできるはずだ。何もかもすべてを理解することは、きっと可能なはずだ。
「スコーピオン」
 そう、准は答えた。
 はは、と迅は笑う。「なんでいつも嵐山には、分かられちゃうんだろうな」
「努力してるんだよ」
「おれの負けだ。……いつだっておれの負けだよ」
「いつだっておまえの勝ちだよ、迅。俺はおまえのものなんだから」
「……ものじゃないだろう」
「そうだな。間違ったことを言った」
 ものだったらよかった。
 嵐山准が、迅悠一だけの、持ち物だったらよかった。俺がおまえの、しっぽのとれた犬だったらよかった。それを抱きしめて泣くのが、おまえの役割だったらよかった。俺がかわりに泣かなくてもよかったら、そのほうがずっとよかった。大丈夫、それでも准は泣くことができた。それでも准は泣くことができたのだ、大丈夫、こうやって、ここにいて、おまえのとなりにいて、いつも一緒にはいられなくても、それでも俺の録画はおまえのスマートフォンに記録されているんだろう。
「おまえのものになりたかった。それだけだ」
 キスが降りてきた。あたたかいキスだった。こんどは、あたたかい、あたたかいだけの、やさしいだけの、キスだった。それを受け止めながら准は、たぶんすべてが正しいのだろうと思う。ここで起こっていることのすべてを正しいと思うべきなのだろうと思う。すでに起こってしまったことのすべての正しさを信じながら、嵐山准は正しいものとして生きるしかないのだと思う。それが迅悠一を追い詰め傷つけることだとしても、そうするほかに、道はないのだ。ほかにどんな方法もなく、そういう存在でしかなかった。
 迅の首を抱き寄せた。そうして准はぴったりと、迅の体を抱き寄せてひとつのものになるように、強く抱き寄せて、そうして迅の髪をゆっくりと撫でた。おまえを産んで、おまえを育てて、おまえを作り直したい、俺の持ち物になるように、そしてそれは暴力で、俺はそういう暴力を行使したがるような人間で、そうであることは変えられなくて、それでもおまえとひとつのものになりたかったから、俺はおまえのために泣くしかなかった。泣いて、泣いて、泣いて、そうしてはじめて俺は、おまえと接続された存在になる。
 ひとつの都市を愛するように、迅悠一を愛している。ほかの方法を、何も知らない。


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