楽しいの、と菊地原が聞くので遼はなんだか罪悪感に囚われて、それでも、楽しい、と言った。ふうんと言って菊地原はきまぐれな猫のように去っていったので歌川は、罪悪感につかまったままジムに行くことになった。ボーダー本部にはトレーニングジム施設があり、身体感覚をクリアにする作業としてのトレーニングは奨励されていた。遼はそこに行くことが好きだったが、菊地原がそうではないことは明らかだった。女子より華奢とすらいえるがりがりの体をして、そうであることを恥じる様子すらなかった。身体感覚を育成しないとトリオン体がうまく動かせないなんて馬鹿のいいわけだよと公言していた。
 菊地原をひとりにしておくのがどうしてこんなに不安なのかわからない。おそらくは菊地原がどこか適当な相手と喧嘩をはじめているのではないかということが気がかりなのだと思う。たぶんそうだと思う。けれど菊地原は放っておかれさえすれば(面と向かって言葉を向けられさえしなければ)聞こえている言葉の九割九分までを無視できるということも知ってはいた。だから心配する必要などないのだった。おおかたラウンジでぼんやりとジュースでも飲んでいるのだろう。無果汁のうすっぺらい味のジュース。人工的な味のものばかりを好む菊地原。聞こえるすべてのものをぼんやりと聞き流しながら。
 菊地原のことばかり考えている、と思った。
 そうして遼は菊地原のことばかり考えながら重い機械を扱って筋肉を鍛えランニングをし、またそのうちフットサルでもやろうと声をかけられいいですねと答え、つつがなくトレーニングを終えて、シャワールームに向かって、そして。
「遅いよ」
 口を尖らせて菊地原は、しゃがみこんでいた身を起こした。シャワールームの入口に菊地原がしゃがみこんでいた。そうして腕を伸ばして、遼の首に腕を回した。キスをした。菊池原はキスが嫌いだ、いつもそう言っている、それなのに遼にキスをするのは、いつも菊地原のほうだった。遼はいつも少し怖くて、菊地原が怖いのではない、そうではなくて、そうではなくてなんだ?
 細い、力をこめれば簡単にぽきりと壊れそうな体を、遼はおそるおそる抱き返す。完全におそるおそるという手つきでしかないことが菊地原の繊細な耳にはたぶんバレている。腕を持ち上げようとして持ち上げるかどうか躊躇ったこと、結局持ち上げて、指をそっと載せたこと、たぶんバレている。
「……ねえ歌川、ここ廊下だよ。みんなすぐ見つけちゃうよ、ぼくのこと抱き寄せてる場合?」
「おまえがはじめたことだろう」
「個室」
 人差し指がすいと動いた。「そこにあるでしょ」
 シャワールーム。
 個室といっても仕切りがあるだけの空間だ。そうしてそこに入るということは服を脱ぐということだった。はっと遼は気づいた。いま自分はとても汗をかいていてたぶんとても臭い。「すまん」遼は反射的に謝ったが、あからさまにタイミングはずれていた。菊地原は顔をしかめた。
「なに」
「臭いだろう」
「あのねえ……」
 呆れたように菊地原は息をもらし、そうして遼の腕を掴んで、シャワールームに入った。仕切りでしかない扉をばたんと閉めた。ふたりきりになった。服を身につけたままで、ふたりきりになった。本来裸で入るはずの場所に、ふたりきりになった。
「服を。着替えるから」
「いいよ」
 菊地原が腕を伸ばした。もういちど腕をのばしてきて、遼の首に腕をまたまわして、ぴったりとくっついた。菊池原の感情がわからないと思った。菊地原がなにを考えているのかいつも、遼には、わからない。聴覚を共有してもしなくても。ただ体の動きだけがぴったりと練習した通りに阿吽だ。菊地原が遼を抱き寄せれば遼も菊地原を抱き返す。おそるおそるでも。
 トリオン体であればいいのになと遼は思う。そう思ったあとで、また、罪悪感が襲ってきた。トリオン体なら菊地原の体が簡単に壊れそうで怖いなどと思うことはない、それは、間違った考え方だった、間違っていると、わかっていたのに考えた、罪悪感。
「まだ無駄なこと考えてるね」
 体をぴったりとくっつけたまま、菊地原は言った。
「動悸が早い」
「……おまえにひどいことを考えた」
「そういうことはねえ、歌川、黙っておきなよ。バカ正直に言わなくていい」
「ごめん」
「謝るなよ」
 歌川のにおいがする、とちいさく菊地原は呟いた。それからもういちど、
「謝るな」
 と言った。
「シャワーを浴びさせてくれないか。恥ずかしい」
「恥ずかしい?」
 ははっ、と菊地原は言い、腕をほどいて、とんと背中をシャワールームに預けた。パーカーを勢いよく脱いでいる、その菊地原から目をそらすことができずに遼は、止めることも目をそらすこともできないまま、じっと見ている。
「これ外出しといて。それと、歌川も脱いでいいよ」
 いつもどおり、わずかな苛立ちを交えた、けれど感情のあまりこもっていない、だらだらとした言い方のまま、それでもその感情の示すところは明確で、だからこそ遼にはわからない。だからこそわからないのだ。菊地原はなぜここにいて、人間の体など嫌いだという顔をしてそれでも、遼の汗の匂いを求めたりしたのだろう。わかっている。わかっているのに。
「これからなにをするか、説明が必要?」
「いや」
「そうだね。歌川が馬鹿じゃないことは、ぼくは知ってるよ」
「買いかぶりすぎだ」
「死ねばいいのに」
 下着まで外してしまった、骨のかたちまではっきりとわかる菊地原の体がそっと、まだ着衣のままの遼に寄せられる。
「そんなにものわかりが悪い歌川は、はやく、死んでしまえばいいのに」


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