「歌川にしいたけを食べてもらった」
「しいたけ食べられないの?」
「食べられるけどいらない」
 付き合ってみると菊地原士郎は存外にふつうだと古寺章平は思う。放棄地域内の、もとは企業の寮だったという部屋をボーダーが買い取った部屋に、菊地原と暮らすようになって二年になる。章平と菊地原は同期入隊で、知的レベルが高いということで月見の戦術私塾を勧められて知り合った。それまでの同室とは喧嘩別ればかりをしていたという菊地原は、入寮一ヶ月も経つ頃には誰にも扱いきれない存在として、しかたなく一人部屋をあてがわれていた。
 そのほうが楽だったのに、とはさんざん言われた。言われたが、章平としては少しでも知っている相手のほうが全く知らない相手と過ごすよりずっとましのように思えた。侵攻から二年が過ぎてもまだ避難所に住んでいて、章平の学校の問題さえなければ転居しようかと家族が話し合っていた頃だった。章平はボーダーを選び、そして三輪隊が章平を選んだ。
 そんなわけで菊地原と暮らし始めて二年だ。
 菊地原もいつも刺のある発言しかしないわけではないということに、章平はもう気づいている。もともと章平は罵られてもいまひとつ打って響かない自分に気づいてはいた。それに菊地原の発言はいつも的を射ていた。うまいことをいうものだと感心する方が多かった。章平が、そうだね菊地原の言うとおりだ、と言うたびに、菊地原は拍子抜けをした顔をして、「うん、間違ってないでしょう」と言った。実際、間違っていなかった。
「歌川とどこに行ったの?」
「水族館」
「楽しかった?」
「平日に行こうって言ったのに、さぼるのはよくないとかなんとか言ってさ。だから日曜でしょ、混んでてうるさかったな」
「さぼるのはよくないよ」
「優等生ども」
「菊地原だってそうでしょ」
「……まあね」
 ほんとうは菊地原だって、学校をさぼってデートをするのは良くないことだと思っているのだ。そのことは十分に分かる。ただ、菊地原のサイドエフェクトが、たまには静かな場所を求めるのだろう。
「でも、だれもいない部屋があってさ。まっ暗いなかに、ちらちら、深海魚が光ってて。深海魚が光るなんて知らなかったな。古寺知ってた? ああ知ってそうだな。古寺ってどうしていろんなことを知ってるんだろう」
「いろんなことに興味があったからだよ」
「ふうん」
 ふうん、と菊地原は、どうにも理解できないというような口調で言った。
「歌川に、こういうところでなにするかわからないの、って訊いたら、わからない、ってさ。あの馬鹿」
「なにするの?」
「古寺もわからないの? どいつもこいつも」
「なにをしたの?」
「キスだよ」
 章平は目をしばたたかせ、それから、ゆっくりと顔に血がのぼるのを自覚した。静かに赤面している章平を見て、菊地原は、また、よくわからないという顔をして、それから、子供に言い聞かせるように、
「だってデートだったんだよ」
 と言った。

「だからさ、デートだとは聞いてたけど、なんていうかそういう、冗談みたいなものだと思ってたわけ、そうじゃないって聞いたから、びっくりしてさ。いや、ぜんぜん悪いことだと思ってるわけじゃなくて」
「あいつは冗談をいわない」
「そうだったんだね。僕これまで菊地原のことちょっと誤解してたかもしれないな」
「いや、なんというか、悪かった」
「……なんか、歌川も、あいかわらずだね」
 くすりと古寺は笑った。
 菊地原は、ささいな(けれど本人にとってはささいではないらしい)理由で同級生と激しい口論の結果殴られたことで呼び出されていた。生身の体を鍛えていないものだから菊地原は喧嘩に弱い。舌戦で勝てる人間はいないだろうが、男は言葉でやり込められると十中八九手が出るものだ。ただ殴り合いの喧嘩は殴った方に非が傾くものでもあったから、菊地原が手を出さないのは当然とも言えた。そもそも戦闘のプロが喧嘩をしてはいけない。……舌戦にしても。……しかしたぶん菊地原には喧嘩をしようという意図はなかったのだろう、聞き流しかねる言葉を耳にしたので、ありのまま思ったことをそのままに口にしただけだ。
(守られてなにもできない自分を自覚したら?)
 けれどそれは言ってはいけない一言だったとも思う。言ってはいけない一言があるだろうと、菊地原が帰ってきたら、言わなくてはならないと遼は思う。
「歌川」
 古寺が呼んだ。
 遼は古寺とふたりで、菊地原が戻ってくるのを待っていた。放課後の教室のななめのひかりのなかで、ぼんやりとしている時間は珍しかった。今日は任務は非番だった。古寺はもう数分待ってみてから任務に向かうと言った。ちょっと歌川と話したかったから、と言って、そこにいた。
「いま、菊地原のこと考えてたでしょう」
「……菊地原の話だっただろう」
「関係ないこと考えてたでしょう?」
 たしかにそうだった。「悪かった」もういちど遼が謝ると、古寺はまた笑った。
「謝ってばっかりだ。しかも菊地原のことでばっかり謝ってる。菊地原がそんなに大事?」
「いや」
「聞くまでもなくすごく大事なんだろうな、って思うよ。だって歌川、気づいてるかい? 僕が菊池原からデートの話を聞いたって話してるあいだ、すごく、なんていうのかな、不安そうな顔してるよ」
 顔に手のひらを触れた。そうしてもわかるはずもなかったのだけれど。はは、と古寺は笑い、立ち上がった。
「時間切れだ。菊地原によろしく。といっても夜には会うんだけど。怪我ひどくないといいんだけどね」
「ありがとう。言っておく」
 ああだめだ、顔が、紅潮していて止められない、そう思いながら遼は、うつむいたまま手を振った。不安そうな顔。それはたぶん。
 水族館のあと、ホテルに行った。
 ぼくは方法調べたくないから歌川が調べといてよ、と言われて、なんでそういうことになるんだと抗弁はしたものの、だって気持ち悪くて見てられなかったんだよ、一応調べたけど、と渋面で言われると、なにかひどく苦行を菊地原に強いているような気分にさせられてしまい、なんだっていつもこういうことになるんだと思いながら、遼はいいように使われた。詳細をインターネットで調べてひどく混乱した気分になり、実際にはだかになった菊地原を目の前にしてますます混乱は深まった。とにかく怪我をさせないように、痛くないようにと慎重にことを行った。結局最後まではできなかった。痛いと言われるとなにもできなかった。仕方がないので菊地原のものに触ってやると、なにするのとほとんど悲鳴に近い声を上げた。怯えたような顔をしている菊地原のそれを扱うのをけれどやめなかった。菊地原は息を殺して一貫して怯えた顔をしていた。けれど遼が菊地原のものを握りながら自分のものもあつかっていると、おそるおそるというように遼のものに指を重ねた。それだけの行為だった。
 菊地原は一瞬死んだように目を閉じ、それから深く息を吐いた。
 うまくいかないもんだねと言った。
 うまくいかないもんだな。遼も答えた。ごめん、次はもっと、うまくやる。そう言うと、菊地原は呆れたように笑い、「歌川のせいではないだろ、馬鹿だな」と言った。
「なに、真っ赤な顔してんの」
 菊地原が立っている。夕刻の教室、夕暮れの光のなかに、菊地原が立っていて、遼をみおろしている。頬が赤く腫れている。盛大にやられたな、と思った。
「エッチなこと、考えてたんだろ」
 そう言いながら菊地原は、遼の頬に指を触れた。まるで菊地原のそこではなく遼のそこが傷ついているような手つきで遼に触れて、そうしてかがみこんできた。遼は立ち上がった。される前に菊地原を引き寄せた。いつもされるばかりだということに気づいてはいた。いつもされるばかりだということに気づいてはいたのだ。頭を引き寄せた。がたん、と机が揺れた。
「……痛い、よ」
「悪かった」
「そればっかり」
 机をはさんでほとんど乱雑なやり方で、抱き寄せていた。ボーダーなんて言ったってなんの助けにもならないと遼にすら聞こえるような声で言った。言われた。守られてる立場を自覚しなよと大きな声ではっきりと菊地原は言った。言わせたくなかった。菊地原に聞かせたくなかった。なんの意味もないだなんて菊地原に聞かせたくなかった。たぶんそういうことだった。古寺は正しい。たぶん、そういうことだった。
 菊地原が傷ついていると、遼は何度でも誰にでも謝ってまわりたくなる。
 もういちどキスをした。指でなぞった菊地原の頬は熱を持っていた。菊地原がぴくりと背を震わせた。頭に血が上っているなと思った。おまえが殴られたとき俺が立ち上がって殴り返してしまいそうだった。それをこらえたことが正しかったのかわからない。わからないと思いながら混乱していた。菊地原が可愛そうだと思った。自分なんかを選んで好きになってボーダー隊員なんかになって戦わなくてはならなくてべつに好きでもない同級生たちを守らなくてはならなくて守ってもなんの意味もないことを知らされなくてはならない菊池原が、自分なんかを選んで好きになるしかなかったことが可愛そうだと思った。
「すごくうるさい」
 机越しに抱き寄せられた菊地原が、ぼやくような声を漏らす。
「歌川の心臓の音、すごく大きい」
「……好きなんだろ」
「うん」
 何度も言われた。歌川の心臓の音が好きだ。歌川の心臓の音だけが聞こえる場所にいるとぼくは安定する。その音を聞いていると楽になる。歌川といると楽になる。大丈夫になる。じゃあ俺がいなかったら大丈夫じゃないのか。俺や、仲間たちがいなかったら。
「歌川が謝る必要ない」
 けど、と菊地原は、言葉を繋いだ。
「歌川は謝るんだろうな」
「謝るよ」
「可愛そうだね」
 たぶん同じことを考えていた。別々の、同じ、同じ、別々の。お互いをお互いに哀れんでいた。夕暮れの教室で、ほかになにもなかった。静かな空間で、たぶん遼の心音だけが響いていた。遼の心音だけが支配した世界に、菊地原は浮かんでいるのだと思った。
「歌川はすごく可愛そうだから、ぼくは一緒にいてあげるよ」
 別々の、同じ、別々の、同じ、同じ、同じ、別々の。


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