動物のにおいがすると文句を言うので、「あたりまえだろう、動物園なんだから」と言い返した。非番の休日までどうしてふたりでそろっているのか理解に苦しむと、いまだに遼は思う。どうしてこうやって一日を過ごし続けてしまうのだろう、休日でもそうでなくても、菊地原と遼はいつでも一緒に過ごしてばかりいる。
 ひとりでいることの多い菊地原と比べて、遼はスポーツを観戦したり実際にやったりしなくてはならなかったし(したかったし)、観戦のほうはともかく実践のほうは菊地原はまるで興味を示さなかった。ぼくはおまえみたいな筋肉バカじゃないんだよと言って、しかし菊地原は遼のそういった趣味にいちいちついてきては、河原やベンチや観戦席に腰を下ろして、ぼんやりとなにかを、というか遼を、眺めているのだった。
 金魚の糞、と陰口を叩かれるのもむべなるかなというところだったがもちろん菊地原にその陰口は聞こえていることは知っていたし、そうでなくても遼は「俺の友人にそういった言い方をするのはやめてくれ」と言い返した。べつに菊地原に聞こえていなくても言い返したと思うが、菊地原はあとになって、「機嫌を取らなくてもいいよ」と、いつもどおりのむっつりした言い方で言った。
 それで、動物園だ。
 いつもつきあわせて悪いと思った。いつも遼の外出にばかりつきあわせていて、つきあわせた覚えもないのだけれどとにかく遼が休日どこへ行くと言ったら必ずついてくるのだからつきあわせているも同然なのだし、悪いと思って、おまえどこか行きたいところはないのか、と尋ねた。そうしたら、動物園、と答えた。意外だった。
「風邪でもひこうよ。平日の朝の動物園。一日くらいサボってもボーダーの信用には影響しないでしょ」
 当真さんなんかはしょっちゅうサボってるみたいだし、べつにサボったって、トリガー取り上げられたりしないんでしょ、いい子でいなくたって、いいんでしょ。そんなふうに言い訳を重ねている菊地原は存外に真面目な男なのだった。そういうところは遼は、自分に似ていると思わなくもなかった。ルールを破れない肝の小ささが菊地原にもあって、そういうところには共感できた。そういうところには。
 基本的にはこの男のことはなにひとつ遼には理解できないのだ。
「あいつらも不機嫌とか上機嫌とかあるみたいだけど陰口は言わない」
 けれどその言葉の意味はきちんと理解できた。
 遼の目の前で、菊地原はフェンスにもたれかかって、猿山をじっと見つめている。たしかにそこには抗争や上下関係があるように見えた。そしてたしかに彼らは、陰口だけは言わなかった。すくなくとも菊地原や遼に理解できるかたちでの陰口は言わなかった。菊地原のことなど関係なく、猿山の猿たちは彼らの関係に没頭していた。
 菊地原士郎は、振舞っているよりもずっと凡庸な男なのだろうと思う。ずっと凡庸で簡単で素直で、そうして傷つきながら生きているのだろうと思う。自分だったら傷つくだろう。自分だったら向けられる言葉のすべてが聞こえていれば傷つくだろう。そうして露悪的に振舞うしかなくなっていった菊地原の人生について、けれど想像することしかできない。
「歌川」
「うん」
「子供の頃、教室にずっといるのも無理だった頃があってさ」
「うん」
「そのころぼくは動物園に連れて行ってもらえなかったよ」
「……そうか」
「遊園地にも、お祭りにも。ぼくがパニックを起こして泣くから」
「そうか」
「どうして泣くのってよく叱られた」
 たんたんとした、いつもどおりたんたんとした、緩慢な菊地原の口調。
「いつのまにか、いっぺんにいろんなものが聞こえてもなにも感じなくなった。いまはべつに泣かない。知ってるでしょ。本部のラウンジにも平気でいられる。ただぼくはさ、ぼくは、たとえ耐えられないとしても、みんなが動物園に行くならさ」
 言葉はそこで途切れた。「何の話してるんだろう」単純に不思議だという口調で、菊地原は言った。
 ふと遼は、この男の振る舞いは露悪ではなく、ただ単純につねに素直なだけなのかもしれないと思う。思ったことをただただ正直に、菊地原は口に出しているだけなのではないか。人間が言葉にする感情も言葉にしない感情も菊地原の精密な耳は拾い上げてゆくから、それならば嘘をつくこともごまかすことも虚勢も意味がないと、菊地原は思うようになったのではないか。少し近づいたような気がした。黒い血が流れているわけではないのだ。ここにいるのはただの、遼と同じ年の子供だった。
「売店に行って変なボールペンとか買おう。売ってるんでしょ」
「そうだな。売ってると思う」
「そういうの買いたい人生だったんだよ」
 思わず笑うと、菊地原は顔をしかめて遼を見上げ、「なんで笑うのさ」と言った。
「いまの冗談じゃなかったのか?」
「ぼくは冗談はいわない」
「でも面白かった」
「面白がらせたかったわけじゃない」
 友人なのだと思った。ここにいるのは遼の友人なのだった。打明話をしてくれた。もう世界が怖くないと教えてくれた。そして動物園に誘ってくれた。きっと菊地原は今日生まれてはじめて動物園に来て、生まれて初めて見知らぬ動物の声に、その響きに耳を傾けた。菊地原にはかれらのことばが理解できただろうか。かれらの発する音から生み出される感情が菊地原にはよみとれたのだろうか。うまくいけばきっと動物園を誰よりも楽しんだだろうかつての子供は救われただろうか。
 友人なのだと思った。
「同じボールペンを買おう」
「なにそれ、気持ち悪い」
「俺が勝手におまえと同じボールペンを買う」
「気持ち悪い」
 友達だから。


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