女子に手紙をもらった、と言ったとき、遼は内心、ひどくどきどきしていた。なにを言われるかわかったものではないと思った。けれど菊地原士郎はただ目をしばたたかせてからじっと遼を見つめ、「ふうん」と言っただけだった。
「つきあうの?」
「勇気を出して手紙を書いてくれたのにそれに応えない理由がない」
「そんな理由?」
「悪いか」
「いいんじゃないの」
 おかしい、とは思った。菊地原にしてはおとなしすぎた。菊地原にしてはなにも言ってこなさすぎた。そしてそのくせ遼は、なににどきどきしていたのかわからないのだった。菊地原に言葉を尽くして罵倒されなかったのだからそれで十分だったはずなのに、そのことを恐れていたはずなのに、遼はずいぶん、物足りない気持ちなのだった。

 菊地原が花を吐き始めたのはその日の夕刻のことだった。
 任務を終えて本部に戻り、換装を解いてすぐに、菊地原は口をおさえてトイレにかけこんだ。遼はあわてて後をおった。なにも考えていなかった。あとを追うべきだと思ったから追っただけだ。
 トイレの入口から、個室に至るまでの道筋に、花がこぼれていた。
 そして、便座にかがみこんだ菊地原は喉の奥から、げえげえと音を立てて、花を吐いていた。背中を撫でようとした歌川のからだを、菊地原は押し返した。
「……な、花に、触らないで」
「……ああ」
 花吐きは伝染病だ。遼も知っていた。
 花吐きは、恋愛を病根とする伝染病だ。片思いをこじらせると花を吐く。吐いた花に触れると伝染し、恋を始めることになる。花に触れないように背を撫でてやりながら、遼はぽつりと言った。
「おまえなら治りにくいだろうな」
 びく、と菊地原の背が震えた。
「……だろうね」
 う、と喉を鳴らして菊地原は呻き、またあたらしい花をこぼした。菊地原のくせにずいぶんと派手な花ばかりを吐くなあと遼は他人事のように考えていた。他人事のように考える他になかった。深く考えると心臓が痛む感覚があった。
 どうしてだろう、深く考えると、心臓が深く痛む感覚があった。

 女子と付き合うといったってたいしたことはできなかった。ただそれまで菊地原と食べていた昼食をその女子と食べるようになった、任務のない日はふたりで出かけてみたりもした、その程度だった。その程度だったのだが、しかしその程度の時間をそういえば菊地原とばかり過ごしていたのだと遼は気づいた。
 べつに親友と呼べるような関係ではないと思っていた。
 友人、ですらあったかどうかわからない。ただふたりで過ごしている時間はとても長かった。気づけば、とても長かった。菊地原をひとりにしておくことに罪悪感があったからかもしれないし、菊地原がほかの人間に罵詈雑言をなげつけていることに罪悪感があったからかもしれないし、それから。
 ……菊地原と過ごすための静かな場所を探すのが嫌いではなかった。むしろ率先してそれをやっていた。そのことに遼は気づいている。女子は悪い子ではなかった。ただ、静かな場所を探したがる遼に、けげんな顔ばかりをするのだった。うるさいコーヒーショップを避けてクラシック音楽が流れているような喫茶店に行こうとする遼が、理解できないようなのだった。あたりまえだった。遼自身にすら理解ができなかった。
 女子とは結局一週間で別れた。君のことがわからなくてすまなかった、と遼は言った。
 歌川くんずっとほかの人のこと考えてたものね、仕方ないわ、と女子は言った。

 そしてその間ずっと、菊地原は花を吐いていた。

 心臓がにぶく痛むのに、遼は、菊地原が吐いているその背中に触れずにはいられない。菊地原はそのつど、背中をびくりとふるわせて、けれどもう押し返さなかった。その日の吐き方はいちだんとひどく、菊地原がへたりこんだ便座のまわりいちめんに、花が散らかっていた。それに触れないように背中を撫でるのは骨が折れた。それでも遼はそれをしないではいられなかった。菊地原の背中を撫でないではいられなかった。
 遼が背中を撫でていると、花がどんどん大きな派手なものになっていく、そのことに遼はふと気づいた。そのことに気づいた瞬間の痛みが、それまでより一段とひどかった。
 もしかして、と気づいてから、ブランクはなかった。
 心臓が激しい音を立てていることに、菊地原の精密な耳は気づいていたのだろう。振り払うことはできたのに、逃げることもできたのに、菊池原は抵抗しなかった。触るどころの話ではなかった。菊地原の口から出てくる花をかじって、食い散らかして飲み込んだ。
 つまり遼は菊池原にキスをした。
「ずるいな、歌川」
 ぽっかりとあいた菊地原の口からは、もう花は姿を見せなかった。
 おびただしい量の花がこぼれたトイレでふたりは抱き合っている。
「……歌川は吐かなくて済むからずるいな、両思い、じゃないか」
 花吐きを治癒する方法はただひとつ、恋の成就である。


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