5 自明

 この街には出口がない。違う。この関係に出口がない。陽介はそう考えながらぼんやりと煙草を吸っている。授業が始まるまえの早朝、彼らはいつも放棄地帯をあてどなく散歩するか、そうでなければ出水公平の家に来ていた。
 出水の買い取った古い家には、離れとして納戸がひとつ付属していた。放棄地帯をふらふらと歩き回ってはセックスをする場所を探していると知っている出水は、うちでやりゃいいじゃん、邪魔しねえよ、と言って、その納戸をまるごと、陽介に(そして秀次に)貸し与えた。だから陽介はここにいて、ことを終えたあとに秀次が水を浴びているあいだ、煙草を吸っている。
 煙草を吸うのは、そうしたいからというよりも、そこに漂う濃い空気を払拭したいからだった。それを作り出したのは陽介本人なのに、陽介は、まるで、自分が疎外されているような気分になっている。
 やめよう。煙草の火をコーラの缶にもみ消した。
「出水」
 早朝のこの家はいつもにましてそら寒く思える、もう夏のさなかなのに。そう思いながら陽介は、そこに転がった男の名を呼ぶ。いつだったか佐鳥賢が、出水先輩って人形っぽくないですか、と言った。あそこでああやって転がってると、起き上がらせて、話しかけたくなりませんか。佐鳥はなんという健全な男だろうと陽介はほとんど呆れて笑った。陽介には出水はそうは見えない。
 毛羽立った汚い畳の上にじかに転がって眠っている出水公平は、死体に似ている。
「出水」
 つまさきで力を入れずに蹴った。
「痛え」
 出水は目をぼんやりと開き、「なにさまのつもりだよクソ槍バカ、人んちでバコバコやっといて家主様を蹴るとは信じられねえ傲慢さですね」と言った。
「いつまでも寝てっからだよ」
「今日涼しいな」
「ここいつも寒くねえ?」
「そんなわけねーだろ」けらけらと笑う声。「夏だぜ、ヨウスケくん」
 出水公平は都合のいい男だ。都合のいい男を演じることで自分を保っている。そう、陽介は思う。
 出会ったばかりの頃はこうではなかった。出水はただのからっぽな馬鹿でしかなかった。要領よく立ち回ることばかりうまい、けれど基本的には陽介と同じ種類の馬鹿だ。
 ……だからこそか?
「三輪は?」
「まだ風呂」
「どんだけ入ってんだよ水しか出ねえのに。女子かよ」
「また蹴られたい?」
「へーへー御馳走様でした。旦那ヅラしてんじゃねーよ」
 それはけっこうクリティカルな一言だった。陽介は笑った。「してねーよ」陽介が不機嫌になったことに出水は気づいていた。目を細めて、機嫌良く笑った。確信犯だった。
 はやく眠れば朝が自由になる。陽介は朝が好きだ。なんでもできるような気分になる。同時に陽介は朝がこわい。朝が来れば陽介はまた三輪秀次の隣に立つのだ。
「陽介」
 声が聞こえる。陽介は笑ったまま振り返る。「秀次」
 出口がない。
 また感じた。お互いの声に閉じ込められる。そこに出水がいるとしてももはや関係がなかった。陽介は秀次に閉じ込められている。そして秀次を閉じ込めている。この関係には出口がない。
 奈良坂透は、出水を巻き込むなと言った。
 出水を巻き込むことすらできないのだと、奈良坂透はほんとうに、知らないのだろうか。
「陽介も水を浴びてこい」
「へーい」
「出水、風呂を借りた」
「どうぞご自由に、水しか出ねえけど」
 てかお前らってさ。言いかけた出水が、「いいや」そう言って、ごろんとまた、畳に、崩れ落ちるように転がった。出水はやはり死体に似ていた。なんの関わりもなくそこに転がっている、薄ら寒い死体に似ていた。

 どうして出口がなくなったのか、わからない。
 陽介は秀次を愛していると思う。ボーダーに入って、秀次を陽介が見つけた。近界民を殺したがっている有名な男を陽介が見つけて、俺も近界民殺したいんだよチーム組もうぜと、そう言ったのは陽介だった。そうして一緒にいるうちに、これはやばい案件だと気づいたのも陽介だった。なあ秀次俺とエッチしようぜと、俺男じゃねーと勃たねえんだけど秀次が一番好きだから秀次とやりたいと、そう言ったのも陽介だった。ほんとうのことなどどうでもよかった。三輪秀次は結局陽介と寝た。
 そしていまでも寝続けている。
 すべて陽介のてのひらのうちにある出来事のはずなのに、どうしてだろう、三輪秀次といると、陽介はどこにも存在しないような気分になる。
 秀次に、殺すことと憎むこと以外のなにかを、与えなくては三輪秀次は死ぬと思った。死なれると困ると思った。死なれると、陽介の大義名分が失われるから、困ると思った。愛していたわけではなかった。それだけだった。
 出口を失うつもりなどなかったのだ。
 まっすぐに立つ秀次の背中を陽介は見ている。なにかを決意している、決意し続けている、そういう背中だ。
「秀次」
 陽介はその名前を呼ぶ。閉じ込められるとわかっていて呼ぶ。秀次が振り返る。重い色をした三輪秀次の目がはっきりと陽介を捉える。出口がない。閉じ込められている。閉じこもっている。どっちだ?
「俺今日、保健室行くわ」
 秀次はほんの少しだけ目を揺らした。そして、平気なふりの顔に戻った。陽介はひどく胸が痛む自分を自覚した。
「そうか」
「うん」
「そうか」
「夜には帰るから」
 秀次はもう一度、そうか、と言った。それだけだった。
 いつでもすべてが、それだけの話なのだ。

「保健室?」
 いつもどおり死体じみた形で転がっている出水は、しかし今は身を起こしてタブレットを眺めているぶん死体から遠ざかっていた。出水は漫画を紙で買わない。鬱陶しいと言って、全部電子書籍で買っている。その感覚が陽介にはわからない。簡単に消えてしまうもので満足できる感覚がわからない。けれど同時に。
「消せるっていうのは出口がある」
「出口ね」
「保健室に行くんだよ。居場所がなくなったら、保健室登校するじゃん。そういう意味」
「それで米屋クンはオフにひとりカラオケ行ったりマックで時間潰したりしてんの」
「あとはまあ誰か捕まえたり」
「俺を捕まえたり?」
「まあそういうこと」
「出口ね」
 ごろん、と出水は転がり、タブレットを放り出して、陽介をみた。なにを考えているのかわからない、うすい微笑みを浮かべていた。とん、とタブレットの背を叩く。
「こんなかから消えるってことは、なくなるってことだぜ。死ぬってこと」
「知ってるよ」
「死にてえの? 米屋」
 ころしてやろうか。
 陽介は笑った。良い冗談だった。出水も笑った。けたけたとふたりは声を合わせて笑った。まったく良い冗談だった。そうして出水は身を起こして、陽介の手をつかみ、そこにくちづけをした。良い冗談だった。その先にあるものは簡単だった。陽介は保健室でキスをした。薄暗がりの保健室で。夏なのに薄ら寒い保健室で。死体と。
「つうかその理屈で言うと、俺はつまり、出口じゃん」
 笑いながら出水は言った。
「俺はおまえらの外側じゃん? 俺に救われてろよ槍バカ。寝ようぜ」
 何もかもすべてが良い冗談で、そして、同じだけ、悪い冗談だった。米屋陽介は三輪秀次を愛していた。
 そしてそれはそれだけだった。

「米屋先輩」
 狙撃手はいつも敏い。出てくる影を先に見つけたのは佐鳥だった。明るい声、とても明るい声に、ひどい違和感があった。
「よう佐鳥、どうした」
「遊びに来たんです。でも米屋先輩来てるみたいだったから、邪魔しちゃ悪いかと思って」
 狙撃手は怖いなあ、そう陽介は思う。奈良坂にしろこいつにしろ、どうしてそう何もかも見通すような目をしているのだろう。へらへら笑ってそのくせ全部見通しているように佐鳥はそこにいて、「じゃ、出水先輩、お借りします!」と言って、鍵のかかっていない出水の家に、堂々と入っていった。
「俺のじゃねーよ」
 声が聞こえていたかどうかわからない。
 出水公平は陽介のものではない。もはや誰のものでもない。壊れてしまったから。けれど佐鳥はひどく堂々としていた。佐鳥は特別な子供のように思えた。だからなにかを佐鳥に求めた、それはたしかだった。それは実際、確かなことだった。
 出水公平のことが好きだった。それは実際、確かなことだった。
 陽介はふと手のひらで顔を覆う。けれど傷ついてはいけないと陽介は思う。それは陽介自身が選んだことだった。保健室が必要だった。出口がなかった。
 出口がないのだ。
 この街には、出口がない。
 電話をかけた。コール音は鳴り続けた。鳴り続けた先に、かぼそい声が戻った。
「保健室から帰ってきたよ。秀次」
 陽介の声もどこか細い。夕暮れがどんどん落ちてゆくなかで陽介は、寂しい、と思った。
「行こう」

 放棄地帯に、小学校が一校含まれている。そこは秀次が通った小学校であり、そして秀次が姉と通った小学校だった。
 放棄地帯を歩き回るのが、習慣のようになっていた。そもそも秀次は動き回ることを好んだ。暇な時間は常に歩き回るかジムに出かけていた。ジムでは映画を(タブレットを使って)観ていることが多かったが、歩き回っているときはなにも見ていなかった。あるいは、すべてを見ていた。
 どちらにしろ陽介はつねに隣にいた。つねに隣にいることが、習慣になっていた。習慣に、するようにしていた。三輪秀次のとなりには米屋陽介がいる、いつでもそうだ、いつでもそうであることに、意味があった。いつでもそうなのだと言われることに、意味があったのだ。
 放棄地帯を歩き回るのが、習慣のようになっていた。
 開かれたままの門を抜けて、小学校に入った。避難するために開け放たれたままの、放棄された、解放された、迎え入れるような小学校に入った。もう夜が来ていた。窓だらけの小学校のなかはどこもかしこも真っ黒い窓で、そこを、秀次の照らすスマートフォンの明かりだけがかぼそく照らしていた。
「肝試しっぽい」
 陽介の声はずっとどこか細いままで、そのことを陽介は恥じているのに、治すことができない。
「秀次、おまえといるのはずっと肝試しみたいだ」
「良い意味じゃないんだろう」
 たんたんと秀次は言い返した。
「そうだよ」
 陽介もたんたんと答えた。
「良い意味じゃない」
 放棄地帯を歩き回るのが習慣のようになっていた。
 陽介がなにを見つめ続けているのか陽介は知らなかった。
「ここだ」
 ぽつんと秀次が言った。六年生の、机の前で。
 誰の、と陽介は聞かなかった。あまりにも救いがなかったからだ。それは秀次の机ではないと思った。秀次の机ではないはずだと陽介は思った。そしてかなしかった。かなしいということを表情に出さないように陽介は、ふうん、と言った。
「座れ」
 とん、と秀次は机を叩いた。
 小さな傷がいくつかと、落書きの残った机だった。小学生のための、小さな、机だった。そこに陽介が座った。なにがおこるかはもうわかっていた。陽介は秀次といるとき、なにがおこるか、たいていのことはわかってしまうのだった。たいていのことは全部わかっていて、だから陽介はいつも、秀次を許している。
 たぶん逆でもあるのだろう。
 陽介は、夕日のさしこむ教室で秀次が陽介のものを取り出し、かがみこんで咥えるのを見ていた。秀次の、そういったことを知らないふうに見えるくちびるが、うまく動くところを見ていた。そういったことをなにひとつ知らないふうに見える秀次がしかし、陽介のそれをとてもうまくあつかうということを、知っているのは陽介だけなのだった。世界は完全に閉じていて、だから陽介はとてもやさしい手つきで秀次の頭を撫でてやった。
 一回いった。秀次の喉がごくりと鳴った。喰われているのだと陽介は思った。いままさに俺は食い尽くされようとしているのだと陽介は思った。だから少しでも取り返すために、うわむけた唇を急激に貪った。自分のものの味のする唇を奪った。喉をさらしてそうされながら秀次は、もう一度陽介のものを握っていた。
「……逆、俺じゃなくて」
「いいから」
「秀次机乗って」
「ようすけ」
「言うこと聞くんだよ」
 いいこだから。そう耳元で囁くと、秀次は背中をびくりとふるわせ、そうしてからその小さな机の上に、陽介に背を向けて、乗った。がたりと揺れる不安定な場所に、不安定なかたちで乗った秀次の腰を晒させた。そのためのものは持っていた。放棄地帯を歩き回るのが習慣のようになっていた。いつも持っていた。どろどろしたもので濡れた秀次のそこを陽介は舐めた。どろどろしたものの味しかしないそこを。
 机ごと抱いているのだと思った。
 机がひっくり返らないように、慎重に抱いた。机にしがみついた秀次が、誰かの名前を呼んだ。陽介の名前ではなかった。そのことは構わなかった。秀次を抱いているのは陽介だったから。ただ机がひっくり返ったら全てがおしまいになるような気がした。セックスがということではなく別の意味で全てがおしまいになるような気がした。だからゆっくりとゆっくりととても甘いやりかたでやさしく秀次を抱いた。
 誰もが陽介以外の誰かの名を呼びながら絶頂をする。出水公平も。三輪秀次も。世界に取り残されているのかもしれない。閉じ込められているのは、俺ひとりなのかもしれない。
 ひ、ひっ、ひ、と、声を立てて秀次はいつのまにか泣いていた。しゃくりあげて、机にしっかりとしがみついて、まるで強姦しているようだと陽介は思った。背中をやさしく撫でてから、肩に歯を立てた。しっかりと歯を立てた。痛いから泣いている、そうだろう、そう言ったか言わなかったのか、どちらにしろ秀次は、理解していたと思う。すべてを理解していたと思う。
 放棄地帯を歩き回るのが習慣のようになっていた。放棄地帯には誰もいない。そこは三輪秀次の町だ。三輪秀次はそこでなにかを見ている。あるいは何も見ていない。あるいはここにはもうないなにかを見ている。そこは夜の小学校で、帰り道をうしなった子供の声が残響している。
「……陽介」
 机から崩れるように落ちた秀次が、ぺたりと腰をおとして陽介を見上げている。陽介は返事をせずに、秀次の頭をそっと撫でた。出会った頃より髪が荒れたと思い、そのことを口にした。
「疲れてるみたいに見える」
「疲れている」
「死のうか」
 あまりにも自然に出た言葉だった。秀次はうつろな目で陽介を見た。こんなことは間違っているのだと陽介は思った。人間のいる場所に行きたいと陽介は思った。放棄地帯を歩き回るのが、習慣のようになっている彼らの生活は、間違っているのだと思った。荒れた髪の三輪秀次が姉の目の前で男に犯されることも間違って、いる、の、だった。
「死なない」
 なにも見えていないようなうつろな目でしかしそれでも秀次は、そう言った。
 あまりにも出口のない、この場所で。



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