4 死亡告知

 奈良坂透の性欲は早朝に最もたかまる。だから透は週に二度から三度、性欲を解消するためにというよりは性欲を利用して、当真勇の部屋を襲撃する。
 当真の部屋へ向かうとき、透はイヤフォンでワーグナーを聞いている。家を失ってから(正確には、家を失うと同時にギターが壊れてしまってから)、透は、かつてあれほど聴いていたジャズを聞かなくなった。だから代わりにクラシックミュージックばかりを聞いている。ワーグナーは勇壮でよかった。ワルキューレの騎行が、ぴったりと透の耳に密着したイヤフォンから流れている。
 当真のそれをくわえこむこととイヤフォンで音楽を聴くことはよく似ている。
 ボーダー本部付き男子寮の各部屋には鍵がついていない。だから誰でもいつでも入り込むことができる。透は当真の部屋へ音もなくまぎれこみ、当真のそれを潤沢にたかぶらせ、当真とそれを行う。透はその行為が好きだ、存外なことではあるが、好きだと、単純に好きだと思う。半覚醒のままの当真に、夜には決して与えないような甘いばかりの愛撫をあたえることも、時間を考慮して声をけっして洩らさない為に事前にタオルで猿轡を透自身に噛ませてからことをおこなうことも、そのすべてを透は心から楽しんでいた。
 だからこそ、透はそう言ったのだ。
「当真さん、俺はあんたがいなかったら生きていけないかもしれない」
 片手で猿轡とイヤフォンを外してから、唾液で濡れたタオルを弄びながら、透は言った。それはごく単純な率直な感情から発された言葉だったのだが、当真が世にも珍妙な顔をしたので、「他意はない」と付け加えなくてはならなかった。そうしてから透も顔を赤らめた。まるでプロポーズのような言葉を吐いていまったと気づいてしまった。
「……俺に勇気を与えられるのは世界であんたただひとりだ、そう言いたかったんだ」
「足りねーの、勇気」
 言い足した言葉はますますひどかったような気がしたが、当真は笑いながらそう言い、そうして透の弛緩した体を再度ベッドに押し倒した。透は猿轡を探したがそれはいつのまにかどこかへ消滅していた。かわりに透は、ミュージックプレイヤーを口にくわえた。歯を立てた。
「……なんかの武器、みたいだな奈良坂それ、俺を、殺すの?」
 俺は、あんたに、はやく。言葉を殺したまま透は縋るように当真に腕をまわした。当真はいつも笑っている。透の性欲は早朝もっとも高まるが、当真がなにを考えて透のそれに付き合っているのか、透は知らない。
 ……興味もない。
 ただ当真だけが透に装填できる。耳にぴったりとはりつくワーグナーのように。なにを?
 勇気を。
 勇気がざんざと必要だった。

 出水公平が買った家にもまた、鍵がなかった。作れば簡単なことなのだろうが、そもそもこの壊れかけた家は扉以外の場所からいくらでも侵入ができた。だからいらないという筋は通ってはいた。
 青い屋根のある、古い平屋の一戸建て。出水の住む小さな家は出水の持ち物だ。幾らで買い取ったのかは知らないが、A級一位のチームに所属して潤沢な報酬を得ているのだから十七歳でもこの程度の部屋くらい簡単に買える。
 小さなその平屋は老朽化が進んで水漏れが壁を侵食し、そのうえ本部基地に近すぎて、今のところ潰れてはいないがどの戦闘で甚大な被害を被って潰れたとしてもなんらおかしくはなかった。いまだに建っていることがむしろ奇跡だった。
 累積されてゆく細かな被害のほうが、致命的な破滅よりも死に近いように思える、透はここに来るといつもそう思った。
「よう」
 透がやってきたとき、出水の家の門からちょうど、米屋と三輪が出てくるところだった。透は眉をひそめた。
「お互い、朝は捗るねえ」
 そう言いながら、米屋は通り過ぎていった。三輪はうつむいている。三輪がうつむいているところを見ると、透は無性に腹が立つのだった。その理由には気づいていたが、透は追求はしなかった。そのときは。彼らの関係は彼らの関係だ。口を出す筋合いではない。筋合いではない。ない。
「……出水を巻き込むのはやめろ」
 ないはずなのに透は、三輪の背中に向かってそう言っている。三輪は背中をぴくりとひきつらせ、それからゆっくりと振り返った。重い色をした目が、透を見た。
「おまえには関係のないことだろう」
 そのとおり、三輪は正しかった。透は眉をひそめたまま、彼らが並んで朝の道を歩いていく背中を見送った。
 数ヶ月前、出水は前触れなく突然、その家を買い取ったのだった。そうして出水はいま、毛羽立った畳の上になにもかけずに転がり、眠っていて、そしてぼんやりとした目ひらいて、透を見た。
「食事はとったのか」
「えー……」
 だらだらと喋る出水の腕を引き、立ち上がらせた。勇気が必要だった。出水の住む、この、廃屋に限りなく近い部屋にやってくるためには、いや違う、そこでほとんど死にかけているように眠っている出水の顔を見るためには、そして出水に生きることの意味を説くことには常に全て、勇気が必要だった。
「朝食を作る」
「あー……あざーす」
「布団で寝ろと言ったろう」
「だるくてさ」
「死ぬぞ」
「死にゃしねーって、トリオンさえ出せりゃいいのよ俺はさ」
 けらけらと笑う。どうしてだろう、当真と出水と、奈良坂の目の前にあらわれる天才ふたりはまったく似ていないように見えるのに、にもかかわらず彼らはとても似ているのに、どうしてだろう、当真さんあんただけが、俺に勇気を、補填できる、そう思いながら、透は湿気た空気を吸い込む。夏が来ている。
「おまえはいつも投げやりだ、猫のことにしたって」
「誰から聞いたの?」
「……当真さん」
 ためらったあと言った。はは、と出水は笑った。
「御夫婦仲のよろしいことで」
「二度と俺と当真さんをそう呼ぶな」
 反射的に透は振り返り、叱責する口調で言った。畳の上にだるそうに身を起こした出水は、あきらかに煽るための表情を浮かべて、にこりと笑った。
「俺が猫を可愛がろうが苛めようが可愛がることで苛めようが、おまえに口出しできないんじゃないの? 奈良坂、おまえにはさぁ」
 痛いところをつかれた。それはすでに喧嘩だった。火にかけた鍋を意識の片隅に置きながら、置くことで激高しないようにと気を配りながら透は、静かな口調を心がけた
「おまえは佐鳥に、特に俺に言うなと言っていたそうだな」
「それも当真さんから聞いたの? やだなどっから漏れてんだろな、時枝かな、……どっちにしろあのガキ全部吐いたのかよ、あーあーもうやだよ本当に馬鹿みたいじゃねーか、秘密もなにもあったもんじゃねーよ」
 ぶつぶつとぼやく出水は、もう透を見てはいない。すぐに意識が拡散してゆく男に、それでも透は言い聞かせる。
「俺にどうして隠そうとした」
「怒られるから」
「なぜ俺が怒ると思った」
「……おまえは俺がなにかを愛そうとすると怒る。奈良坂。そうだろ。もっと言おうか? おまえは俺がおまえ以外に依存しようとすると怒る、はは、支配欲? いいね、もっと依存し合おうぜ、ラブラブみたいで気分いいじゃん」
 透は言い返さなかった。透はガスコンロに意識を戻した。この家にはガスも電気も通っていない、水道だけがかろうじて通っている。水がないと死ぬけどあとはいらねえだろと出水は、他人事のように言った。だから透はガスボンベで使うコンロを持ち込んでいる。料理を作っている。出水のために料理を作っている。
 足をつかまれた。みおろすと出水が、ずるずると這いよるアメーバのようにして透のあしもとに来ていた。へらりと笑った出水は、透の足首にくちづけをおとした。透は眉をひそめ、しかし身をかがめて、出水のひたいにキスを返した。ガスコンロの火を止めた。体を探った。朝の蝉が鳴いていた。
 当真と透のあいだに関係などない。なにも。ただ勇気を搾取しているだけだ。たったそれだけだ。当真と透のあいだに関係などない。だから透が関係を持っている相手といえば出水だけということになる。けれどどんな関係が?
「朝飯、作る気、なくした?」
 終わったあとで出水が、台所の床に身を丸くしてころがったまま言った。
「沸騰したら火を止めろ」
「どこ行くの」
「風呂」
「絶対に風呂行くよな」
 俺は汚えかね、そう言いながらけらけらと笑っている出水を置いて、つめたい水を浴びるために、部屋を、あとにした。 

 太刀川さん、太刀川さん、太刀川さん、絶頂の間際、悲鳴のように喘ぐ出水の声。操られていると知っていて操られた。単に太刀川を求めているとわかっていたのにそこに戻してやることはできないのだからほかに方法はないのだった。太刀川さん。
 奈良坂が出水とこのようなかかわりを持つようになったのは、一年ほど前のある事件がきっかけだった。
 ある任務で、太刀川隊からひとり外されて三輪隊に編成されていた出水(それ自体は珍しいことではなかった)が、突然錯乱した。戦闘自体は終わっていた。終わっていたのに出水は、無数のトリオンキューブをふと、自分に向かって降らせたのだった。
 それが出水を直撃する前に、透は出水を撃った。どちらにしろ出水のシュートによって出水のベイルアウトは確定していたのに、あえて撃った。撃たずにはいられなかった。
「出水のフォローに回る。ベイルアウトする」
 透がそう通信すると、米屋は「おまえあいつと喋ったこともねーんじゃねえのか」と言い返してきた。
「だからだ。もしあいつがそのまま発狂したとしたら、陽介、おまえは正気でいられるか?」
 古寺や、……三輪は言うに及ばず、と、透の含みを米屋は理解したようだった。ことこの男は、三輪秀次に対しては妙に敏いところがあった。はは、と小さく、米屋は笑った。
 三輪は黙っていた。古寺は困ったように静観している気配があった。
「いいな、三輪」
「行け」
「奈良坂、ベイルアウト」
 三輪隊のオペレーションルームから太刀川隊のそれに直行した。太刀川隊のオペレーターが、ひ、ひ、としゃくりあげている出水を胸に抱き寄せて、透を見た。それから出水も。出水は腕をのばし、透のシャツを掴んだ。
「太刀川さんには言わないで」
 出水は、指先が白くなるほどの力で透のシャツをつかみ、そう言った。
 痛々しいほど尖った泣き声で、そう言った。
「捨てられるのは嫌だって太刀川さんには言わないで」
 モニタされていたその逐一は報告され、出水はカウンセリングを受けたが、結局口を割らなかった(と、出水本人の口から透は聞いた)。
 以来透は定期的に出水に連絡をとるようになった。透と出水は学校が違う。会わないでいれば数週間数ヶ月にわたって会わないこともある、そもそもなんの関係もない相手だった。けれどあのときほかならぬ透が出水を撃ったのだ。そのことに透は責任がある、そう思った。
 太刀川さん。
 悲鳴のような喘ぎ声。死亡告知は告げられたのに、まだ死ぬことができないゾンビに触れるような心地で、透は出水を抱いている。

 この街には出口がない。
 蛇口の下にかがみこみ、冷たい水を浴びながら、透はそう考えている。冷たい水がだらだらと降り注ぐ感覚よりも、目の前の排水口に水がだらだらと流れ込んで行く様子のほうが、透にとって鋭敏な存在だった。視覚ばかりに頼っている、と透は思い、おまえは視覚ばかりに頼っていると言ったのはそもそも誰だったかを思い出して、顔をしかめた。
 当真勇はもはや、透の、肉体あるいは意識の、一部なのだった。
 排水口へ流れ込んでいく冷たい水、透を経由しておいて全く関わりがない透明度を保ったままの水は、三門市を出て遠くどこかへ流れてゆくだろう。その明瞭さと同じ感覚で、透ははっきりと、この街には出口がない、と思った。
「出水」
 そして風呂を上がった透は家主の名前を口にした途端に、馬鹿げた冗談のようなことを考えていたと気づき、顔をしかめた。出て行く水。こいつの名前が呼び起こした連想だった。
 出水はぺらぺらとうすっぺらな体を反り返らせ透を見、「ガリガリくん」と言った。
「なに?」
「ガリガリくん。奈良坂も食っていいよ、俺のも取って」
 冷凍庫のなかには、氷菓が五本、ばらっと投げ捨てるように入っていた。ほかにはなにもなかった。透は冷蔵庫の扉もあけた。なにも入っていなかった。背筋がつめたくなるような痛々しさがあった。けれど出水がなにも考えていないことは透はよく知っていた。何も考えていない。動物の方がもっと考えている。死に方を知らない神の風情にそれは似ていた。
「おまえはここを出ていくことができないな」
 透は、氷菓を差し出しながら、そう出水に言った。庭に夥しい雑草が生えている。蚊が入るな、と思ったあとで、知ったことか、とも思った。そこは透の家ではなかったし、どうせこの家なら閉めるのが網戸だろうと雨戸だろうと蚊は入るだろう。
「なに? 何の話だよ、優等生」
「うるさい」
 縁側に出水と並んで座り、透は、本部基地の大きな影を感じないように努めようとしていた。けれどそれはあまりにも大きすぎて、知らないふりをすることは不可能だった。だからこそ、と透は思った。出水はきっと気づいていないのだろう。だからこそ出水はこの家を買わずにはいられなかったのだ。出水は動物よりももっと小さなものに似ていた。夏が終われば死ぬような種類の、数日しか生きないような種類の、そういう生き物に似ていた。
 出水公平の天才は、この巨大な黒い閉ざされた箱のような場所を起点にしてのみ存在し、そのほかの場所でこの男は単なる、うすっぺらな体をした馬鹿に過ぎないのだった。そのことはかわいそうなことではないはずだった。
 透は立ち上がる。
「時間だ。準備をしろ、出水、学校だ」
 そういいおいて縁側から部屋へと戻っていこうとする透の足首に出水の指が触れた。「冷たい」そう言ったあとで出水は、めをしばたたかせて透を見上げ、「奈良坂、生きてんの?」と聞いた。当然の質問のような言い方で、そう聞いた。
 この街には出口がない。
 ふと透は、自分はあの日、近界民が爆弾のように落ちてきたあの家で、潰れて死んだのかもしれない、そのあとの世界を透は生きているだけなのかもしれない、だから出水公平は、死後の民だからこそ、こんなふうに、……そんなはずがない。
「馬鹿」
 透は足を蹴って出水の指を離させ、「水を浴びたからだ」と言い足した。
「蚊が入るぞ」
「どうせ網戸破れてんだよ」
「直せ」
 俺は太刀川慶に似ているだろうか。透はさきほど、浴室の曇った鏡をみつめたことを思い出す。そんなわけはなかった。
「俺は太刀川さんに似ているか?」
 そう尋ねると、出水はいかにも天衣無縫な口調で、
「どうせならイケメンがいいじゃん」
 と言った。
 自分は何を探し出そうとしているのだ、いったい、出水のなかに。当真との関係? 当真との関係を太刀川と出水のそれに投影している? 当真に捨てられたら俺も狂うだろうと危惧している? まさか。すべてありえなかった。ただ何かの――真理を――つかもうとしている、そのような感覚があり、結局透は出水を、見捨てることができないのだ。
「俺じゃなくてもいい、そうだな?」
「そうだけどおまえみたいに都合のいい男いねえよ」
 あっけらかんと出水は言った。誘われるように操られるように、透はかがみこみ、出水に、口づけをした。


「疲れてるみたいに見えます」
 学食で昼食を一緒に摂ったとき、古寺はそう言った。
「見えるだろうな。疲れてる」
「……無理しないでくださいね」
 やめろ、と透は言いかけた。都合の良い体にはもううんざりしていた。けれどそれを口には出さなかった。ふと透は、あの家に古寺がやってきたらどうだろう、と思う。あの退廃の空気の中で古寺はひどく居心地の悪そうな顔をするだろう。それは美しいことだと透は思った。
 だから俺は古寺に守られているのだ、とも。
「佐鳥と最近話したか?」
「あ、ええと、はい」
「どうしている」
「元気ですよ。ふつうに」
 あの退廃の空気の中であの平凡としか呼べない佐鳥賢はいったい、どんな顔で、なにもかもを壊そうとしているのだろう。


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