3 不明

 昔々、壊れた男の子がいました。壊れた男の子は、いまでも生きています。壊れた男の子は、死に方がわかりません。この街には出口がありません。それゆえに。

 出水先輩、と呼んでは、突然遊びにいくのが恒例になっていた。
 賢が扉を叩いて返事を待たずにがちゃりと開ける。たいてい鍵はかかっていなかった。出水はたいてい部屋にいて、ベッドに転がって、ぼんやりとタブレットで漫画なんかを読んでいた。顔だけを起こして、「なに佐鳥、またきたのかよ」と言った。鬱陶しいという気配は多少含まれてはいたが、べつにどうでもいいというふうでもあった。嫌なら放り出すはずだと思った。
 出水と同室の唯我が、なにやってるんだかと白い目で見るのを尻目に、賢はさっさとベッドに上がり込み、先輩なに読んでるの、と聞くのだった。
 仲良くなった、つもりだった。
 だから賢はそれなりに、ひどいなあ、と思った。出水公平は突然、本当に突然男子寮を引き払って、消えた。唯我はいなくなった先を教えてくれなかった。それは先輩の個人情報だから、とかなんとか言って、教えてくれなかった。ひどい、と賢は思った。けれどたしかにそうだ、教えたくなかったのなら、教えたくなかった出水の気持ちを、尊重するべきなのではないか。
 本当は出水はずっと、賢が押しかけてくるのを、嫌がっていたのではないか? ……猫だって一度も、見に来てくれないし。すっかり実家(佐鳥の実家は精肉店だ)の看板猫になって、愛嬌を振りまいていて、出水以外のずいぶんたくさんの人に愛されていて、もしかしたらもう、出水のことを忘れてしまったかもしれない佐鳥の猫。
 ごめんね先輩、もう俺のものだよ。
 そうやって出水から賢は猫を奪ったのだから、いまだって、と賢はしょぼくれた。しょぼくれるのは賢の本意ではなかった。
 日曜日の早朝、本部に呼び出されたついでに、先輩生きてる? と顔を出すつもりの朝だった。からっぽの気持ちを抱えて賢は廊下を歩き、ふと目をあげると、奈良坂透がいた。
 あ、当真さんとこだ。
 直感的にそう思った。
「先輩エロい」
 言葉がすらっと勝手に出て行った。あ、まずかったかな、思ったときには後の祭りだった。奈良坂は眉をひそめた。言ってしまったものは仕方がない、賢はべらべらと言葉をつないだ。
「朝帰り? 当真さんと付き合ってんの? オフだったらふたりでどっかいったりすんの、いいなあ、かっこいい、当真さんバイク乗れるんでしょ」
「……佐鳥。うるさい」
 ゆっくりとした口調、ほとんど背筋が寒くなるような口調で、奈良坂は言った。
「俺と、当真さんは、そういうことではない」
「え?」
「全く違う。俺と当真さんの間にはなにもない」
 奈良坂はそう言い、白いシャツの、はずれたままだった、一番上のボタンをゆっくりと止めた。その手つき。
 その手つき!
 ぽかんと賢は、すれ違って歩いていく奈良坂を見送る。あまりにもあからさまなことなのにと思いながら。だって賢は知っているのに。隠す必要だってないのに。秘密。謎。不明。
 不明。

 いつもどおり、パルクールレッスンの最中に、米屋陽介が(三輪秀次も)顔を出した。「散歩」だ。一軒家の屋根の上をあるいていた賢に声をかけてきたので、賢はいさんで飛び降りた。ヒュー、と米屋は口笛を吹き、「猿みてえ」と言った。
「佐鳥、オニイチャンがイイコト教えてやろうか」
 米屋は、底知れない色をした目つきをした男で、少しこわい印象がある。それはいつまでたってもそうだな、だからって米屋先輩がこわい人なわけじゃないのは知ってるけど、そう思いながら佐鳥は、なんですか、と言った。
「一回で覚えろよ」
「はい!」
「ボーダー本部の玄関を出て右に曲がって本部沿いにずっと歩いて曲がった先にある平屋、屋根が青い」
「え?」
「クソみたいなボロ家だぜ。以上〜」
 ひらひらと手を振って米屋は、離れた場所で待っていた三輪のもとに戻っていく。三輪は米屋を見ていた。まっすぐに米屋を、ずっと見ていた。三輪先輩の目もちょっと怖いな、そう賢は思う。
「……覚えろよ、って言われるほど、難しくないよ」
 なんのことだか、たぶん、賢はわかっていた。
 そしてまた、奈良坂透に会った。
 夕刻だ。「クソみたいなボロ家」から、奈良坂は出てくるところだった。今日もボタンのいちばん上が外れていた。なぜか、賢は、腰のうしろがぞわりと寒くなる感覚を抱いた。奈良坂は不思議な男だ。けれど出会う人出会う人皆が賢にとって謎でしかないような気もするけれど、奈良坂がいま、一番の。
 一番の?
 違う。出水だ。賢は出水を探しているのだ。賢のものにはなってくれない出水を、それでも探しているのだった。
「佐鳥か」
 奈良坂は、いつもどおり表情のない声にそれでもわずかに驚きを含んで、言った。
「先輩こんにちは! 米屋先輩に行ってみろって言われて俺」
「……陽介か」
 なるほど、と小さな声でひとりごちた奈良坂は、「入ればいいだろう、鍵はついていない」と、ぞんざいともいえる手つきで、平屋にむかって手を振った。
「嫌なら追い出すだろう」
 自分に言い聞かせるような言い方だった。
 お化け屋敷に入るような気持ちで、賢はその家の門を抜けた。はずれかけた門と、雑草にまみれた庭があった。ペンキのはがれかけた扉を開いた。
 甘い香りがあった。
「桃のにおいがする」
 ぽつりと賢が呟くと、そこに転がっていた細い体から、声が発された。うすべったい、夏に飲む瓶飲料のような声だと思った。
 出水の声はこの家によく似合っていた。
「ああ。なんか匂い良くて買ったけどモソモソした桃でさ。ほっとけよ、奈良坂がそのうちなんとかする」
「……奈良坂先輩、……よく来るの?」
「ああ、……うん、まあ」
「でも、秘密って……」
「何?」
「猫。奈良坂さんには、秘密って」
「ああ」
 賢は立ったまま、出水をみおろしていた。夕刻だった。この季節特有の、滲んだような夕刻の光と、空間を震わせる虫の声。人間がいなくなった廃墟でも、虫は鳴くのだった。虫はずっとここにいるのだろう。近界民が来ても、来なくても。
「……付き合ってんの?」
「誰が?」
「先輩と、奈良坂さん」
 出水は目を瞬かせ、それから、ゆっくりと起き上がった。首をかしげて賢を見上げ、口元に笑みを浮かべる。
「……オコサンには難しーことだけど、否定だけしといてやろうな、俺フリーだよ、俺と一発やりてーの? 佐鳥」
「やりたい」
 出水は賢の目の前でそのときたしかにたじろいだ。
「やりたいよ先輩、何回でも」
 桃の、匂いがした。
 出水がゆっくりと立ち上がった。出水はゆっくりとしか動けなくなっているようだった。前に会った時よりあきらかに痩せたと賢は思った。もともと痩せているのにあきらかに痩せた。そしてこの家にとても似ている。出水が賢の目をのぞきこんだ。きれいな目だと思った。いろいろな目がある、こわい目、つめたい目、けれどそのとき見た出水の目はただ単純に賢にとって、きれいな目だった。
 出水が腕を持ち上げた。
 てのひらが、賢の頬に触れた。
 そして出水は、はは、と、笑った。
 とん、と出水は賢の胸をついて、距離をとった。出水はすこしふらついた。ふらつきながら笑って、「ガキは家帰って寝てろ」と言った。賢は口を尖らせた。予定調和として。
 予定調和だったのだ。そして第一回戦だった。賢の負けだった。
 けれど奈良坂は第一ボタンを外していた。奈良坂はたしかに、いつかの朝と、同じ顔をしていた。

 夕暮れが終わりつつある。佐鳥賢を帰したあとの部屋にぺたりと座り込み、出水はだらだらと流れ落ちる涙を止められずにいる。だらだらと涙はきりもなくこぼれていく。毛羽立った畳が濡れていく。出水はタブレットを手に取る。コールする。相手はすぐに出る。任務中ではなかったのかもしれない、確認もしなかったけどそういうことだったのかもしれない、他人のことなんてどうでもいいけど今日はそれは、良いことだった。とても。とても良いことだった。
「奈良坂今すぐ来いよ。今すぐ。やりたいんだよ今すぐ来い。俺は死ぬかもしれないからおまえと今すぐやりたいんだ」
 そして俺を救ってくれ。


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