2 謎(75分)

 市内循環バスは三時間かけて市内を一周する。非番の日、太刀川慶はそれに何周も乗っている。太刀川慶が太刀川慶だということを、運転手は多分知らない、太刀川慶というボーダーA級一位を背負った名前は新聞やテレビでそれなりにひとり歩きしているが、太刀川慶がどんな顔をしたどんな男なのだということは、それほど知られていない。
 嵐山隊がどこを歩いていても指をさされるほどには、知られていない。
 けれど市内循環バスの運転手たちはおそらく、慶がどういう存在なのか知っている。バスオタクだ。不定期に現れては一日中飽きることなくバスに乗り続けているバスオタクだ。その認識は正しい。同時に間違っている。慶が興味を抱いているのはバスそのものではない(けれど同時にバスもそこに含まれている)。
 忍田真史のことを慶は考えている。
 忍田真史が守ろうとしている、三門市という名の、街のことを。
 慶の人生は、遠征を除き、おおむねここで閉じている。ボーダー隊員のおおかたがそうであるように。そのことに不満はない。ただ慶には解らない。忍田真史がなにを守ろうとしているのか、なにを愛しているのか、慶には一度も、理解できない。
「太刀川さん、遅れてすいません」
 声がした。うつむいてベンチに座っていた慶は顔を上げた。
 滲んだような夕焼けを背に、出水公平が立っていた。
「遅えよ」
「でも約束より早いでしょ」
「黙れ」
「はーい」
 出水は朗らかだった。あるいは、朗らかなふりをしていた。出水はいついかなるときでも、慶の前で、朗らかなふりをしていた。慶はそのことに苛立つこともあるし、安心することもある。煽られている気がすることもあれば、守られているような気がすることもある。
 確かなことがひとつあった。
 出水はいまでも慶を好きなのだということ、少なくとも好意を持っているから、慶とこうやって、全く無意味な慶の休日に、一日を捧げようとしているのだった。
 出水を壊したのは、慶なのに。

 風間蒼也は時々、兄のことを考える。
 蒼也の意識、少なくとも現在の蒼也の意識はおそらく、そこから作り出されている。兄が死ぬ前に行った全ての出来事よりもそのことが、兄が死んだということ、兄は死んだということ、ほかの誰でもなく蒼也の兄が死んだということが、今の蒼也を作っているのだと、そんな風に彼は思う。
 夕暮れのなかで蒼也はぼんやりと、記憶を探っている。探る必要のない記憶だった。ただこんなふうに滲んだような夕暮れだったことを思い出しているだけだ。
 蒼也は無言で部屋の入口に立っていた。そしてトリガーを起動させた。最悪の場合トリガーを没収される規定違反だということははっきりと理解した上で、トリガーを起動させ、スコーピオンを手に、蒼也はそこに立っていた。
 ぽっかりとカーテンのない窓から映る滲んだような夕焼け。それ以外がすべて墨をおとした水のように濁った空気。覚えている。はっきりと覚えている。
「出水を今すぐ離さなければお前を殺すぞ、太刀川」
 壊れた人形のように倒れていた出水が、ゆっくりと首をまわして、蒼也を見た。そしてへらりと笑った。笑ったあと、焦ったように身を起こそうとした。それは叶わなかった。骨まではいっていなかったかもしれないがそれに近い衝撃を受けた痕跡のある、自由のきかなさで出水は、それでも起き上がろうとした。
「ごめんなさい風間さん、見逃してください、俺、俺たち、べつにふざけてただけなんですよ、風間さん俺」
「黙れ、出水」
 太刀川は、……加害者は、ずっと、黙ったままだった。蒼也を見ることすらなかった。ただ立ち上がって、拳をそっと開いた。そこに横溢している暴力とはなんの関係もないのだというような風情で、なにが起こっているのかよくわからないという風情で、太刀川はそこに立っていた。焦っているのは出水だけだった。焦っているのは被害者だけだった。そこにある暴力を暴かれたことに焦っているのは被害者だけだった。
 蒼也は静かに言った。
 その言葉が太刀川に届いていたのかどうか、蒼也には今もって解らない。
「俺たちの体はもう俺たちのものじゃない。そんなことも判らないのなら、死んだほうがいい」
 風間蒼也の兄の死はそれを蒼也に告げ続けている。

 俺たちの体は、もう俺たちのものじゃない。
 それならば誰のものだ?
 慶にはそれが解らない。あのとき風間が言った言葉は一言一句覚えている。重要なことを言われたのだと思ったから、一言一句忘れないように、何度も反芻して覚えた。慶は馬鹿ではない。ただ解らないことが多すぎるだけだ。この世界は慶には複雑すぎるだけだ。教えられれば覚える。覚えることはできる。覚えている。風間が言った言葉。
 俺たちの体はもう、俺たちのものじゃない。
 おそらくそれは、忍田が、三門市を守ろうとしていることと、同義なのだろう。
 けれど慶には判らない。
 やってきたバスの運転手が、慶に向かって軽く手を振る。おそらく知っている相手なのだろうと思う。思うけれど慶は人の顔を覚えることができない。つよい相手、ランク戦で殴り合って楽しいと思えた相手の顔と名前だけが慶のなかにインストールされる。それ以外のものは慶の世界に存在しない。
 弱いものは慶の世界に存在しない。
 このバスだって、近界民に襲われることがあれば、いやそもそも慶の手で、簡単にぶち壊すことができるのだ。慶にはそれができる。運転手は弱い存在だった。大きなバスを運転していても。この世界のありとあらゆるものは弱い存在だった。
 太刀川の隣に座って窓の外すら見ずにぼんやりしている、天才シューター出水公平すらも。
「おい」
「はい?」
「なに見てる」
 出水は意味もなく笑った。「なにも」

「太刀川さんって誰とでも寝るって本当ですか?」
 そう聞かれたときそもそも、間違ったのかもしれないと慶は思う。
 端的に不快だった。にも関わらず慶は、「相手は選ぶ」と答えたのだった。出水は悪くなかった。安定しきった目をした出水は、悪くはなかった。出水は子供のくせに、安定しきった目をしていた、子供の頃から。……いや違う、子供の頃だけ、安定しきった目をしていたのだ。慶が出水を壊して、子供ではなくする、その前だけ。
 たった一年前でしかない。出水はただの、邪気も内面もない、子供だった。
 出水の安定しきったからっぽの目は、そのときの慶には、からっぽの器のように見えた。叩き壊される日を待っている器のように。それは、物欲しそうだとも、飢えているともいえた。
 だから慶は上手に叩き壊した。求めたのは出水だ。今でも慶はそう思っている。
 大学生になった春から、繰り返し、男と寝るようになっていた。
 女と寝る気にはなれなかった。トリオン体でもない女の体は脆すぎるような気がした。男のほうが強度が高いから、寝る相手として都合がいいだろうと思った。
 忍田に抱かれたいと思ったことも、忍田を抱きたいと思ったこともない。ゆえに慶はセックスが嫌いだった。慶のすべては忍田でできており、それ以外のものは必要なかった。にもかかわらず慶は忍田になることができない。なる必要もなかったが、それならば何になればいいのかわからなかった。わからないままだ。
 ずっとわからないままだ。
 だからこそ太刀川は、忍田ではない何かに、必死でなろうとしなくてはならなかった。
 だから男と繰り返し寝た。顔も名前も覚えられない弱い男と。忍田にまるきり似ていない男と。抱くこともあれば抱かれることもあった。どちらでもよかった。というより、どうでもよかった。セックスは嫌いだった。ただほかに思いつかなかっただけだった。セックスは忍田から百万光年も離れた場所にあるような気がした。だからそれを選んだ。
 壊れない相手だけを選んでいるはずだった。そのはずだったのに慶は、壊すとわかっていて、選んで、出水を抱いた。
 出水を壊してから、慶は決まった恋人を持たないようにして生きてきた。顔も覚えられないような相手だけを選んでセックスをした。慶はいまでもセックスが嫌いだった。もう出水を抱いてはいない。風間に禁じられたので。
 出水を壊したことを、叱られたので。
 俺たちの体は俺たちのものじゃない。あのとき風間はそう言った。
 じゃあ、誰のものなんだ。
 忍田のものではない。それだけは確かだ。それを選んだ。忍田派ではいられなかった。たとえば嵐山准のようになれるはずがなかった。なにを守るべきなのか判らなかった。城戸についた。強ければそれでいいと認められたからだ。慶がなにを考えることもできないとしても強ければそれでいいと、認められたからだ。
 同じ場所にいるはずなのにどうして風間は、あんなことを言ったのだろう。
 バスが終点にたどりついた。循環バスにも終点は存在する。終点につけば降りなくてはならない。けれど終点は同時に始点だ。次のバスに乗り込めばいい。そうやって循環を繰り返す。永遠に三門市を出ていくことのない循環を繰り返す。繰り返す。繰り返す。
 狂っているんじゃないか?
 ふと、慶はそう思う。
 忍田真史は、あるいは風間蒼也は、嵐山准は、ただたんに、狂っているのではないか?
 そうではないのなら。
「出水、狂ってるのは俺だと思うか?」
 バスターミナルには夜の帳が降りはじめていた。こうこうと蛍光灯に照らされた出水の顔はやけに白く見えた。やけに白い、つくりものじみた顔で、はは、と出水は笑った。如才なく。
「そんなことないでしょう」
「適当に嘘言ってんじゃねえ」
「はは」
 出水はつくりもののように見えるまま、笑い続けていた。
 はやく出水が死ねばいいのになと慶は思う。それは愛情に限りなく近い感情だった。かわいそうだから出水ははやく、死ぬべきだった。どうして出水はここにいるのだろう。どうしていまだに、非番の日でも朝でも夜でも慶が呼び出しさえすればやってきて、へらへらと笑って慶につきしたがっているのだろう。もう慶は出水に指一本ふれることはないのに、どうして、不安定な水盆の顔をしてそこにいるのだろう。もうからっぽの器はなくなっていた。出水の目はこぼれかけた水盆だった。こぼれかけてこぼれないまま、ふらふらと揺れている水盆だった。
 それをひっくり返してやることが愛かもしれないと慶は他人事のように思う。なにひとつ判らない。なにひとつ理解できない。世界のすべてが難解すぎた。
 出水公平は娼婦に似ている。呼び出されるとやってくる都合のいい装置だ。
 そして。
 出水公平はこの街そのものに、よく似て、空虚で壊れかけている。
 ただあたらしいバスに乗り込んだ。出水はへろへろとついてきた。それだけ。
 その日はバスを二周して解散した。

 嵐山准はテレビ収録を終え、忍田への報告書類を抱えて、夜のボーダー本部にやってきていた。ぱっきりと明るい光で照らされた本部の入口はしかし、どこか昏く見えた。少し寒い、と准は思った。そしてそれは、少し疲れた、ということと、同義のような気がした。いつもどおり、長い一日だった。准の生活はすべてボーダーと三門市のために捧げられたものであり、正義のためにあり、それゆえに准は、自分が消耗品としてどんどんきりもなくそれらに飲み込まれていくことを、自覚しながら自ら飲み込まれようとしていた。
 嵐山准の人生は三門市で始まって三門市で終わる。准は弟妹を好きだった。それと同じように市民の全てが好きだった。だからそれでよかった。
「嵐山」
 ボーダーの玄関口の脇から、暗がりそのもののように、ふらりと立ち上がった影があった。
「太刀川さん。こんばんは、どうしたんですか、こんなところで」
「これ忍田さんと食って」
 太刀川は問われたことには返事をせず、紙袋を差し出した。その店を准は知っていた。市内にある小さな和菓子屋だ。へえこんな店知ってるんだな、と准は思い、それ以上尋ねず、「ありがとうございます、戴きます」と言った。忍田の弟子でありながら城戸派に転向した太刀川の立場はきっと、微妙なものなのだろうと思いながら。
 それきりふらりと准の横を抜けて、ボーダー本部近隣の放棄地域、廃墟のほうへと歩いていこうとした太刀川は、ふと思い出したというように振り返った。言った。
「嵐山おまえ、怖いものねえの」
「ありますよ」
 准は端的に答えた。
「この街がこれ以上壊れていくのが俺は怖いです」
 太刀川は、なぜか、傷ついたような顔をした。


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