1 秘密

 ねえ先輩、俺はたぶんずっと忘れないと思う。男の子を見て、俺は王子様にならなくちゃと思ったのははじめてだった。それは賢のはじめてだったのだ。だから賢にとって、それはずっと特別なことになった。出水公平が猫を飼っていたこと。それが、秘密だったこと。
 そうだ、王子様になる話、たとえばそれは時枝と賢の秘密だった。王子様みたいになりたいねと彼らはこっそりと言い合った。時枝がだれの王子様になりたかったのか賢は知らない、聞かなかった、そのとき賢はまだ、だれの王子様になりたいのか、決めてはいなかった、決め手がなかった。賢はいくつかの恋をし、きまって残念がられてふられた。残念な男の子。そう呼ばれるのには慣れていたけど、賢はいつも、いつでも、自分は王子様になれると、なりたいと、思っていた。
 だからこれは賢が王子様になったお話だ。佐鳥賢が王子様になったお話。それをこれからはじめよう。
 なんの話からはじめるべきだろう?
 そうだ、パルクールレッスンの話なんかからはじめるのはどうだろう。みんなが秘密を抱えている。レッスンその一。あらゆる秘密。

 B級以上のクラスの狙撃手は、自主鍛錬として、早朝、パルクールレッスンを行っていた。
 パルクールというのは(説明)(賢はそういう細かいうんちくを覚えるのが好きだ)、要するに忍者修行みたいなものだと賢は認識していた。壁をのぼる、棒をのぼる、そういう訓練の先に、ビルからビルへ飛んで渡り、建物の壁をさっとかけあがる、そんな動きも可能になる。トリオン体での話ではなく、生身でだ!
 トリオン体でのそれだけでなく生身での訓練を提唱したのは東で、呼びかけたのは荒船だという話だったか。佐鳥は古寺から声をかけられ(どうもその世代の狙撃手のとりまとめを古寺は請け負っていたらしい)、楽しそうだと思って参加することにした。だいたい狙撃手は(そのリーダー格である東の人徳もあって)全体に仲がよいのだった。つるんで遊ぶ格好の理由でもあったそれはあくまでも自主性による参加ではあったが実質的にはだいたい全員が参加していたと思う。例によって、当真勇をのぞいて。
 当真と奈良坂が睦みあっているところをみたのが、その最中だった。
 放棄地域の一角を使って訓練は行われた。荒船や奈良坂が指導を行い、各々、ふだんトリオン体で行っている動きをトレスするように、無防備にあるいはおっかなびっくりに動いていた。賢はずいぶん早いうちにこつをのみこんだ。賢はこつをのみこむのが得意だ、トップ5に入る実力者なのだ、あたりまえだと思う、早朝の浅い色をした空の下で、ぴょんぴょんと飛び回るのは賢の性に合っていた。
 そして同時に、賢は、他人の家をのぞきこむことに、淫靡な魅力を感じている自分にも、気づいていた。
 放棄された家はほこりをかぶり、しかしその直前まで生活がたしかに行われていたのだという生々しさを漂わせていた。退廃という言葉を賢は、すこし考えてから思い出した。退廃、あとはなんだろう、痛々しさ、切なさ、みたいなもの、それはしかしとても、きれいだとも思った。
 そしてその部屋の一室に、当真と奈良坂がいた。
 無口で表情を動かすことのあまりない、しかし指導においては常に丁寧で要を得た、なにより古寺が常に絶賛している、美しい男がそこにいて、体を、男の腕に、抱き寄せられていた。
 当真だった。
 訓練にろくに顔を出さないせいでどういう人なのかいまひとつつかめない当真勇という男、不動の狙撃手ナンバーワンとして君臨する当真勇と、そのナンバーワンをどうしても奪うことができない奈良坂透が、生活臭のないビルの一室で、抱き合っていた。
 当真と目があった。
 当真はにやりと笑い、「よう、賢」と言った。奈良坂がばっと身をおこした。シャツが乱れていた。奈良坂透はいつも白いシャツを着ている、そのシャツが乱れていた。賢はどうも頭がくらくらした。
 当真と奈良坂というのはしかし絵としてあまりにも完璧すぎた。だから賢は、なるほど、以外のなにも感じなかった。いや違うな、きれいだな、以外のなにも感じなかった、というほうが正しい。息を乱れさせてシャツの襟をかき寄せている奈良坂を、賢ははじめて、人間なのだと思った。
「すーいません、お邪魔しましたっ」
 だから賢はへらへらと笑い、足をぽんとはねさせて、見なかったふりをしようとした。しようとした。奈良坂が、佐鳥、と声を出すまで。
 賢は振り返った。
 奈良坂は、いつも通りの無表情に戻っていた。驚きも羞恥も、そこには見られなかった。
「黙っていろ」
「……ハイ。ハーイ!」
 賢はどこかふてくされたような声を出してしまった自分に気づき、明るい声を出した。そうしてひらひらと手を振り、「ごゆっっくり!」とおどけた声で、「当真さんバイバイ!」と言って、そのベランダを飛び降りた。飛び降りてから、奈良坂はともかく当真はもちろん知っていたのだ、誰かに見つかるかもしれないことは知っていたのだ、だからあれは秘密なんかではないのだ、当真にとっては、そう、気づいた。
 少し、むしゃくしゃしていた。
 真っ青な空の下を駆けながら、賢はたしかにそのとき、その淫靡さに辟易していたし、それでもその淫靡を隠そうとする奈良坂に半分感動に近い感情を覚え、しかし半分は、なんだか先輩ずるいな、と思っていた。
 部外者扱いされたことに腹を立てているのだと気づいたのは、もう少しあとになってからのことだった。
「……佐鳥はすごいよ」
 古寺が、少し悔しがっている表情で言った。「ふだん忘れてるけど、佐鳥ってすごいんだよね。変なことにこだわるのと調子に乗るのやめたら、もうちょっと順位上げられるんじゃないの。奈良坂先輩は越えられないにしても」
「あいにく調子に乗るのも俺のこだわりも捨てねーよ」
「古寺、奈良坂はどこだ」
 誰もいないはずの放棄地域で想定外の声が聞こえると驚く。「三輪先輩!」
 そこにいたのは三輪秀次で、古寺の隊の隊長だった。横に並んで(いつもどおり、横に並んで)、古寺と同じ隊の米屋陽介が頭の上で腕を組んで立っている。
「月見さんの講習がある。7時、第五会議室」
「はい、すぐ行きます」
 古寺の返事を待たず、三輪はきびすをかえして、放棄地域をもと来たほうに帰っていった。賢は目をしばたたかせる。変な人だ、と思った。
「変な奴、って思ったろ」
 そこにとどまっていた米屋が、首をかしげて言った。賢は、はは、と、意味のない笑いを漏らす。
「あれでもかわいいとこもあるんだぜ。教えてやろうか」
「えー、なんすかなんすか」
「あいついま、ほら本部に一番近いセブンの、食ったことある? プリンの、新しいやつ。あれにくそハマってて、でも一日一個しか買っちゃいけないルールらしくてさ。人気あるから売り切れてることあんじゃん? めっちゃヘコんでておっかしーの」
「え、そうだったんですか。言ってくれたら俺も気にしてたのに」
「それがさあ、……章平なら許してもらえるかもだけど。俺が確保しとくと絶対零度だよ、くそ怒ってんの、秘密のつもりなんだよあいつんなかでは。カワイーだろ。……ボタン取れてるぜ、奈良坂サン」
「……取られた」
「激しーい」
「奈良坂先輩、いまから、えーと7時から、月見さんの講習があるそうです!」
 うん、と、やってきた奈良坂は古寺に頷き、それから、表情のないままに米屋を見た。
「フォローのつもりかもしれないが、三輪の所有者面をするのはやめろ。不愉快だ」
「はいはい、すいません」
「否定しろ」
「否定しねーよ、俺のだもん」
 米屋の言うとおり、奈良坂のシャツの第二ボタンがなくなっていた。鎖骨までさらしてしまっている首筋から、佐鳥はゆっくりと、できるだけ自然に、目をそらした。
 みんなにみんな秘密がある。そういうことだった。なんだか賢は寂しくて、俺の隊の誰かもここにいたらいいのになと思っていた。俺にだってとっきーがいて、俺たちのあいだにも秘密があるんだ、ちゃんと。ちゃんとあるんだ、俺は−ー
「奈良坂先輩と俺、もう行くけど。佐鳥、もう上がる?」
 古寺に尋ねられて、佐鳥は伸びをする。なんとなく、やる気を削がれていた。そんなことは賢には珍しかったのだけれど。
「んー。うん。上がる」
「じゃあ俺の部屋のお風呂使っていきなよ、俺もシャワー浴びてから行かなきゃだから、順番待ちだけど」古寺が言った。

 だから猫を見たのだ。
 ほかほかになって、賢は完全に機嫌を直していた。どだい賢はいつだって機嫌が良くて前向きでそしてねばり強いことがとりえなのだ(しつこいとも言う)。疎外感なんて大した問題ではない、まったくもって大した問題ではなかった。だいたい、恋人同士のあいだに、そして隊のなかに、馴れ合いと秘密があるのは当たり前のことではないか? 時枝と自分の間にすらそれはあるのだし。
 古寺は、ボーダー付き男子寮に住んでいる。菊地原と同じ部屋を使っている(どやどやと入っていくともう起きていた菊地原はゲーム機から目を上げて、臭い、とこぼした)。ボーダー周辺は放棄地域にあたり、廃棄されたマンションをボーダーが買い上げたものが、主として家を失った避難民の隊員に貸し出されていた。古寺も奈良坂も、近界民によって、家を失っている。
 自分はたぶん恵まれているほうなのだった。そのことで傷つく筋合いでもないとは思ったが、実家住まいの佐鳥はただ単純に事実として、自分は単にラッキーなだけなのだ、と思った。
 そのときだった。
 出水を見たのは、そのときだった。
 寮の裏庭だ。とても小さなもののように見えた。そのときの出水は。こんな言い方をするとまるでばかげているけれど、ぽっつりと咲いた白い花みたいに見えた。だからそれがだれかにぐしゃりと踏みつぶされてしまう前に賢はそれを近くで見ておかなくてはならない気がして、いそいで寮の廊下の窓をあけて、ぽんと、ぴょんと、飛び出した。レッスンで習ったとおりに、壁を上手にかけおりて、すとんと出水と、……出水がなでていた猫のそばに、着地した。
 出水は目を丸くして佐鳥を見て、そうして、こう、ひとことめを発した。
「猫かよ」
「狙撃手、みんなこれくらいできますよ、出水先輩!」
「俺のこと知ってんの?」
「もちろん。有名人じゃないですか」
 そうだ、そのとき出水は、佐鳥を知らなかったのだ。
 出水は細い腕に猫を抱き上げながら、あー、と言った。
「あれか。奈良坂がやってるやつ。何とかの何とか」
「それ何も言ってないじゃん」
「タメ口きいてんじゃねえよ」
 出水はわずかに顔をしかめ、それから、「おまえ奈良坂と仲いいの?」と言った。
「え、先輩とはフツーです。古寺とは仲いいけど」
「……誰だっけ。……まあいいや。なに。猫さわりてーの?」
 そういわれて、はじめて賢は、そこに猫がいることに気づいた。いや、気づいてはいたのだけれど、ほとんど認識していなかった自分に気づいた。でもほかに理由はなかったので、まさか先輩が花みたいに見えましたとは言えなかったので、はい、と答えた。
 出水は賢に猫を渡しながら、
「奈良坂には内緒な」
 と言った。
 そう言われて賢はとてもうれしかった。賢も秘密を手に入れたのだった。こんどの秘密は、賢もちゃんと、内側に入った秘密だった。
「出水先輩俺さ、奈良坂先輩の秘密も知ってるんだよ、三輪先輩の秘密も。ビンゴ!」
 おどけてそう言ってみせると、出水は首をかしげて、それから、へえ、と言った。なんの重みも感じさせない、なんの興味もないという声で、そう言った。

 そうだ、あの頃出水は、佐鳥賢を知らなかった。
 賢だけではない。出水はいろいろなことを知らないでいるようだった。広報担当の嵐山が隊を率いるようになったこと、賢がテレビに出ている有名人だということ。三輪隊という若いチームがA級に昇格したこと。三輪隊の三人の十七歳とは親しい友人のようなのに、出水はそのことすら知らなかった。特に興味もないという顔をしていた。出水はいつも、何にも興味がないという顔をしていた。
 天才シューター。
 融通無碍に振舞うトリオンキューブが常に相手を圧倒するランク戦を、賢は、C級隊員の頃、いくども目にしていた。いやらしいと形容したいような、相手を翻弄する手つき。無邪気ともいえるその態度。美しいとすら思った。出水の天才は美しかった、誰が見てもそう思うだろう当然の帰結として、出水の天才は、美しかった。
 だからだったのだろう。だからこそ賢は、ランク戦に顔を出さなくなった出水のことを、心のどこかにひっかけたままでいた。猫をなでているその細い影を、だから、追ってしまったのだ。
 猫を何度かなでに行った。
「寮じゃないのに、来てるんですよ、なんでだかわかります?」
 そう尋ねると、出水は、まるで興味がないというように、「暇なんだろ」と答えた。
「ちがーう! 俺広報ですよ、ちょう忙しいの、それなのに来てるのどうしてだかわかんないかなあ」
 唇を尖らせて言う。出水は少し笑った。へんなやつ、と言って、笑った。
「広報? 嵐山さんとこか」
「そうですよ。広報担当嵐山隊、A級五位! 何回言っても覚えてくれないんだからなあ。俺に全然興味ないんだね」
「たかが五位のチームを覚える必要あるか?」
「ひっで! 甘く見てると痛い目見ますよ」
「どういうシーンで痛い目見ることになるんだよ」
 ははっ、と出水は笑った。出水はよく笑う男だった。それは知っていた。戦いのさなかもいつもふんわりと微笑んでいることが多かった。愉しそうに戦う男だった。だった、はずだった。
 どうしてランク戦に出なくなったんですか、と聞く前に、その日が来た。
 その日、出水は笑わなかった。
「嵐山さんが猫つれてった」
 いつものように賢がやってくると、出水が硬い声でそう言った。ふわふわとやわらかいものなしでぽつんと立っている出水は、冬の木立のようにさむざむとした気配を漂わせていた。その日、出水は笑わなかった。
 なににも興味がないような顔をしていたくせに、その日出水はとても、傷ついた顔をして、それから、たんたんと言った。
「そういやおまえ嵐山隊だもんな、正義の味方」
 なんの感情もこもらない声で、言った。
「……裏切り者」
 声が出せなかった。
 違う、と言いたかった。告げ口をしたわけじゃない。のに。賢は声を出せなかった。もういい、と出水が言う声を賢はただ黙って聞いていた。出水は、賢が知る限りいつも裏庭にいてそこから出て行くところを一度も見たことがなかった出水は、きびすを返してゆっくりと、賢の前から姿を消した。
 なにを言っても、出水が傷つくような気がした。

「賢、秘密っていうものは、誰かを傷つけるためにあってはならないものだと俺は思うよ」
 嵐山はそう言った。
 なんでなんですかひどいと思うんですと幼稚な言い方でとりすがった賢に、嵐山はいつもどおりのおだやかな口調で言った。
「猫に餌だけをやって、可愛がるのは、簡単なことだ。けれどそれは同時に罪深いことだ。どうしてだかわかるか?」
 時枝が心配そうに見守っていた。まだ木虎がいなかった頃、時枝は同い年なのに、賢の兄のような顔をよくしていた。
「……どうして、ですか」
「うん、……たとえば猫が病気にかかって姿を消す。理由は誰にもわからない。感染症かもしれない。そうしたらよその猫に害をおぼよすかも知れない。猫がよその家の鳥を殺す。誰も飼っていないのだから誰の責任でもない。賢、動物を飼うというのは、責任を持つことだ。責任を取れないかたちで関わるべきじゃない」
「責任」
「なんだってそうだよ。……だからおまえの秘密を俺は暴かなくてはならなかったし、おまえに謝ることはできない。賢。正しいことを行うんだ。常に、だぞ、わかるか?」
「……はい」
「よく考えるんだ」
「はい」
 よく知っていた。嵐山准がやさしいばかりの人ではないことは。
「賢、正義と愛は、相反するものではないと、俺は思うよ」
 ぽん、と、頭を撫でられた。
 猫の毛、と、時枝が言ったのは、その日の任務報告に向かう嵐山と絢辻のふたりと別れて帰途についてからのことだった。
「オレも気づいてたけど。嵐山さん、それで、変だなって思ったんだと思う」
「……そっかぁ」
「毎日みたいにつけてたからね」
「……そっか、……ばれちゃうんだなあ、秘密って」
「バレてよかったと思う? ……思える?」
「……思える、よ」
 いまは、ちゃんと、思える。そう賢は思う。そうだ。間違ったことだったんだって、思える。あんな裏庭に、ぽつんと出水を置いておくのは、それをきれいきれいと鑑賞して、かわいいねって言って、それだけで。……なんだか混同してるな、と賢は思う。出水先輩の話だか、猫の話だか、わからない、混同、してる……。
 かわいがるだけじゃだめだ。
 責任。
「……責任、取らなきゃだよね」
 そう賢が言うと、時枝は、ふふ、と笑った。
「賢は王子様になりたいんだもんね」
「とっきーは?」
「……オレもなりたいよ」
 ふたりは笑った。大事な人の王子様になりたい。とくべつなひとになって、大事な人が苦しいとき、守ってあげられるような。嵐山隊だった。正義の味方だった。だから裏切り者だと言われても仕方がなかった。
 仕方のない、ことだった。
「とっきー、あのさ」
「うん」
「俺もう一回嵐山さんと話してくる! ごめん、先帰って!」
「ひとりで大丈夫?」
「……頑張る!」
 賢はばたばたと走り出す。視界の端で、時枝が敬礼をしていた。敬礼を返した。

 ボーダー付き男子寮の一室。古寺に案内されてやってきた部屋。心臓の音がうるさかった。どきどきしながら、ノックをして、出てきた顔があからさまに不機嫌で、なおさら、どきどきした。でも。
 でも大丈夫だ。俺は、王子様なんだから。
「先輩、あのね、猫、俺の家にいるんだ」
 賢は言った。
「ごめんね先輩、勝手に決めて。でも俺はそうしたかった。あのさ。先輩、先輩がひとりで、ある日いなくなった猫を待ち続けたり、ひとりで死んでるのを見つけたり、そんなのは、そういうのは俺は、絶対にいやだった、嫌だと、思ったんだ」
 出水は黙って、それを聞いていた。表情のないままで。
「ごめんねだから猫は、もう俺のものだよ。先輩には返してあげない」
「……勝手な奴」
 そうしてはじめて、出水が言葉を発した。
 ……笑った。
 特別なシーンが何度でも賢のなかで再生される。そうして賢は簡単に恋に落ちたのだと思う。特別なシーンとして出水を、記録してしまったのだと思う。
「……勝手な奴! 変な奴だな、佐鳥」
 はじめて名前を呼ばれた。賢は嬉しくて笑いながら、「会いに来てよ。猫、元気だよ」と言った。

「猫、おまえが引き取ったんだって?」
 パルクールレッスンの合間に、また米屋と三輪に会った。よく会いますねと言うと、散歩してんだよ、という返事だった。変なの、と賢は思う。放棄地帯を、散歩? ふたりで? しょっちゅう? 変なの、と思ってけれど、そのことはすぐに忘れた。猫だ。なにしろ猫だ。
「そうそう! 米屋先輩見てよこれ、めっちゃかわいくない?」
「うっわ待受猫かよ、ベタだな!」
 話しているふたりから離れた場所に立って、三輪は会話に入ってこない。
「猫のこと、米屋先輩、知ってたの」
「あー。まあな」
「出水先輩、まだ怒ってるかな」
「……いや? あいつはそういう能力ねえから」そのときの米屋の表情に、賢はなにか、なにかがひっかかった。「壊れてっから」決定的な一言。すでに告げられていた、その一言。
 壊れている?
 それを誤魔化すように、米屋は笑って、「秀次の秘密教えてやろうか」と言った。
「あ、そうだ。三輪先輩の秘密ってなに?」
「……秀次! 佐鳥がおまえの早口言葉聞きたいってよ!」
 三輪が重い目つきを米屋に向ける。それから賢に。それに、ひゃーと内心竦み上がりながら、提示された謎に、賢は首をかしげている。秘密。
 誰でもみんな、秘密を持っている。


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -