「保健室から帰ってきたよ」
 声が、遠くで、聞こえる。
「なに。泣いてたの」
「……そうだ」
「寂しかった?」
「そうかもしれない」
「それはわかんねーのか」
「わからない」
「素直でえらい」
 いいこだな秀次は、そう言われても構わないのは部屋の中にいるときだけだ。
 ボーダー本部付きの男子寮に、二人部屋を持っている。二段ベッドの上の段が陽介、下の段が秀次、二段ベッドを使うのは久しぶりだった。姉が中学生になった日に二段ベッドは解体されたから久しぶりだった。時々、そこからもう二度と出られないのではないかと思う。二段ベッドに寝るのは久しぶりだった。
 その部屋にいるべき時間、夜や早朝に、ふらりといなくなることを、陽介は、保健室に行く、と言った。
 寮住まいのべつの友人の部屋に行ったり、寮外に住んでいるべつの友人の家に行ったりする。あるいはカラオケルームやコーヒーショップにいる。あるいは、あるいは、出かけていく場所はいくらでもあった。秀次をおいてひとりでどこかに出かけていくそれらを全てまとめて陽介は、保健室に行く、と言った。狂ったことだった。出かけていくこと自体ではない。そう形容することが、そう形容させている秀次の存在が、狂っているということだった。わかっていた。けれどその言葉を陽介は使うし、秀次は使わせている。
 保健室に行かなくてはならない。
 米屋陽介は、保健室に行かなくてはならないのだ。
「ただいま」
 米屋が身をかがめる。切れかけて痛い秀次の目尻にくちづけを落とす。いつもこうだった、ふたりで部屋にいるときの陽介は、そらおそろしいほどに秀次に優しかった。
 ふたりは寮ではセックスをしない。
 けれどそこで行われていることは。
 秀次は起き上がる。髪をかきあげ、目をこする。そんなつもりはなかったのに、陽介が保険室に行っているあいだ、堰が切れたように泣き続けていた。べつになにが悲しかったわけでもない。ただ単に泣いていただけだ。ただたんに生理的な現象として泣いていただけで、その理由は秀次には判らなかった。陽介の言うとおり、寂しかったのかもしれない。夕刻から夜にかけて、時折わあと騒ぐ声が遠く聞こえる男子寮で、ひとりでいることが単純に寂しかっただけかもしれない。あるいは。
 あるいは?
 秀次は起き上がり、立ち上がり、そうして、机のそばにある通学鞄のなかを探った。陽介はただ立ったままそれを見ていた。ぼんやりと。秀次は手に目的のものを持ち、かがみこむ。ずいぶんと使い込まれた、悪く言えば痛んだ、さりげなくてタフな、陽介のランニングシューズ。
「靴紐が切れそうだったから買っておいた」
「……おねえちゃんみてえ」
 目があった。
 引き寄せられるようにキスをした。軽い触れるだけのキス、そこから先に進まないように、進まないように進まないように進まないように堰を切らないように、ぎりぎりを測るように自分の心を図るように、触れるだけ、舌をあわせない、まるで友情しかそこにはないかのようなキスをした。それからかがみこんできた陽介の腕が秀次を抱いた。「ごめん」そう囁いた。
「謝るな」
「うん」
「新しい靴紐を買ったんだ」
「うん」
「離れろ。……欲情する」
「しろよ」
 命令形で陽介は言った。顎をつかんでひきよせられた。「もう一回。今度は手加減しない」
 力が抜けた。
 陽介の足元にひざまずいたかたちで秀次は顔を上げ、自分がひどく、弛緩した顔をしていることに気づいていた。おそらく陽介がもう一度言えば俺は流されるだろう、そう秀次は思った。寮ではセックスをしない。どうして? とめどがなくなるからだ。どうして? どうしてとめどがなくなってはいけない?
「……約束が違う」
 弱い、弱い、ひどく弱い声で秀次は言った。
 陽介は笑った。
「うん」
 それだけ。それでおしまい。
 それで、おしまい。
 陽介のあしもとにかがみ込んで、スニーカーの靴ひもを変えてやった。明るいはっきりした色が、よく似合っていた。陽介は、何か思い出してはいけない何かにとほうもなくよく似た手つきで、秀次の頭を撫でた。そうして、ありがとうと言った。あたらしい靴紐を買ってくれてありがとうと、保健室に通い続けなくては家に帰ってくることができないかわいそうな米屋陽介が、言った。
 けれどここで行われていることはセックスよりもずっと、隠微なことだ。


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -