秋が好きよ、と月見蓮が言う。だからなんだということもない。ただ慶の生活において月見に割かれる時間は(不本意ながら)最も長かった。慶は月見を大学で捕まえては、戦略上の質問を繰り返した。太刀川くんはときどきすごくまじめねえ、いいことだけど偏ってるわ、もっとほかのことにも力を注いでもいいんじゃないの、ボーダーとしてはいいことでしょうけどそんなことじゃあなたの人生のためにならないわよ、月見蓮は昔から、正論しか言わない、いわば女子というイメージの塊みたいなところがあった。掃除中に遊んでいると小言を言ってくるタイプ。
 にもかかわらず月見のことが嫌いではなかったし、秋が好きと言われて「そういや月見バーガーは美味いな」と言い返す程度に好感を持っていた。慶としては月見を、まさに月見自身を褒めたつもりだったのだが、笑われた。不本意だった。
 というようなことを、慶は思い返しながら、夏の路上で、ストロー付きのブリックパックを手のひらの中で弄んでいる。
 秋が好きよ、と月見蓮が言った。なにが好きだとはっきりと表明できる月見を、うらやましいと思った。
 予定を立てるのは苦手だった。とくに、未来の予定を立てるのは。
 慶はスマートフォンが嫌いだった。意味がわからないからだ。慶には意味がわからないものが多かった。どだい世の中というものは慶にとっては複雑に過ぎた。慶は戦うことにしか興味がなかったし、もっと言えば、ランク戦で迅やガキどもや風間さんを相手に戦うことにしか興味がなかった。太刀川はランク戦で勝ちたくて、月見にまとわりつくようになったのだ。委員長タイプの月見、聞けば親切になんでも教えてくれるが、小言とも言い切れないような軽いひとことを忘れない月見。それでも慶は月見が嫌いではなかった。
 復讐みたいに自分をいじめるのはやめたほうがいいわよ。そう月見は言った。
 哀れまれているような気がした。
 そう思ってもべつに嫌じゃなかったな、と慶は思う。手にしたブリックパックの飲み物を、慶はどうしても口にする気になれないのだった。それは閉じ込められていた。慶がストローを差してやりさえすれば、そしてそれをきちんと飲んでやりさえすれば、ブリックパックに閉じ込められた飲み物(それはコーラ味の豆乳飲料で、奇妙なものでありさえすればなんでもよかったからコンビニで買った)はブリックパックの外に出られて、自由になれるのだった。
 慶は予定を立てるのが嫌いだ。スマートフォンも嫌いだし、なにかにこだわるのも嫌いだ。ただランク戦だけ好きだった。
 あと、
 ……慶は電話をかけている。慶はスマートフォンが嫌いだから、電話は老人が使うようないわゆるカンタンケータイだ。出水、本部、それから忍田、の電話番号が、123と並んだボタンから呼び出せる。シンプルで良かった。それで十分だった。あとのことは出水にやらせればいい。それから忍田に。
 それ以外は俺の仕事じゃない。
 電話をかけた。ボタンを押す以外の方法で、電話をかけた。電話はすぐにつながった。今から? いいよ。そう言われた。
 復讐みたいに自分をいじめるのはやめたほうがいいわよ。
 月見蓮は賢い。賢い人間は人生が大変そうだ、と、ごくはっきりと他人事として慶は思う。まだブリックパックを弄んでいた。
 そこはカンカン照りの路上で、慶は誰もいない道に立ち止まったまま、右にも左にも行けないでいる。
 男に電話をかけた。
 男と寝るために、電話をかけた。簡単に寝る相手が、慶の携帯電話には、ぎっしり詰め込まれている。どこにもいけないブリックパックの中身のように。

「ブタニク」
 言いながら冷蔵庫を指さした。帰宅した忍田は目をしばたたかせたあと、小さく笑って、「冷蔵庫に入れる発想があったのは偉かったな」と言った。それは記憶のなかのできごとだ。昔、あったできごとだ。
 慶は忍田と一緒に住んでいた。大学に入るとき、いいかげん一人暮らしでもすると言ったら、小さな子供に言い聞かせる口調で、「それより私と暮らさないか」と言われた。嬉しかったので、承諾した。スキップするくらい嬉しかったので、メールで送られてくるおつかいのメモなんかにもちゃんと対応した。これ冷蔵庫いれたほうがいいですかと店員にちゃんと聞いた。すぐ食べられないのならそうしてくださいと店員は親切に答えた。慶にとって世界は複雑すぎたが、わからないことは尋ねればいいのだった。月見蓮はなんでも教えてくれる。慶が馬鹿なことさえ。
 慶は馬鹿だった。
 忍田に褒められたのが嬉しかったので、「忍田さん」と声をかけて、それから、かがみこんで、キスをした。唇にむかって唇をおしつけるかたちの、キスをした。そうしたとたん、背中がぞっとした。
 反吐が出る、と思った。
 忍田はじっと慶を見ていた。真摯な顔で。いつもどおりの、忍田真史の顔で。
 忍田は操られるように、まるで慶の望んだとおりに、「慶、これは、間違ったことだ」と言った。ごく簡単なしぐさで、慶から遠ざかりながら、豚肉を冷蔵庫から取り出した。そうして慶が忍田から目を離すチャンスをくれた。慶はそれに従うことができなかった。
 慶はずっと忍田を見ていた。
 忍田は豚肉を取り出し、それをキッチンの流し台においてから、きちんと振り返って、きちんと慶を見て、言った。なにもかもがきちんとしすぎていて、慶にもよくわかった。いつも忍田は、慶にも、よくわかった。
「私たちは年が離れすぎているし、おまえは私にとって子供のようなものだから、私たちが愛し合っているとしても、ハラスメントに当たると私は思うよ、だから、なかったことにしような」
 その通りだった。言っている意味はよくわからないのに、よくわかった。忍田と恋愛をするわけにはいかないのだった。そうすれば慶は忍田から一歩も出られなくなるのだった。閉じ込められてしまうのだった。忍田のものである以上のほかの何にもなることができない。そんなことはわかっていた。慶は自分は馬鹿ではないつもりだった。ただ世界が複雑すぎる。ついていけない。自分自身すらも複雑すぎてついていけない。忍田に恋をしてはいけないことはわかっていた。
 わかっていたのに。
 慶のなかにはしるしがついていて、それは永遠に外せない。未来永劫、カレンダーの赤丸みたいに、決まったこととして残されている。月見蓮のことが嫌いではなかった。それからたとえば迅悠一のことが嫌いではなかった。それに出水公平のことも嫌いではなかった。風間のことも三輪のことも城戸のことも嫌いではなかった。
 忍田真史が好きだった。
「忍田さんなんか死んじまえ」
 ブリックパックを手にした太刀川は、それを高いところに持ち上げて、アスファルトの地面にぼとりと落とした。それを上から踏み潰した。ブリックパックはぐしゃりと潰れて、なかに隠されていた水分を吐き出した。死ねば外の世界に出られるのだった。忍田真史が好きだった。
 そしてそれは、それだけのことだった。
 慶は予定を立てるのが嫌いだ。いつか秋は来るだろう。そしてそれはそれだけのことだ。慶は名前も覚えられないような男とくり返し寝るだろう。そしてそれはそれだけのことだ。いつか忍田も死ぬのだろう。そしてそれはそれだけのことだ。慶は忍田真史にとじこめられている。ブリックパックのなかの馬鹿げた味の豆乳飲料の味を、結局慶は、確認しないままだった。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -