のっそりと起き上がった肩でさえなにかを決意しているように見えると陽介は思う。たぶん実際に三輪秀次はなにかを決意し、そしてなにかを決意し続けている。陽介の目の前で、たしかに、常に。そうだ、それは常に示されているのだから、そして陽介はいつでも秀次のとなりにいるのだから、当然の帰結として、やはりそれは意思表示なのだった。三輪秀次は決意し続けている。常に。常に、常に、常に。
 そうしてのっそりと大義げに起き上がった秀次の手にはシャープペンシルがあった。いまはもうない彼の姉が彼に買い与えたのだという、0.7ミリの太芯のペン、筆圧の高い秀次は細い芯をすぐに折ってしまうからと言って、選んでくれたのだという物語を、すでに陽介は与えられていた。陽介は三輪秀次の様々な物語を与えられて手にしていた。そんなに簡単に心をひらいてしまうから三輪秀次は単純な男だった。与えられたデータを疑わず頭から信じることのできる、健やかな男だった。
 そして秀次はいま、その製図用の銀色のシャーペンを手に、柱に印をつけていた。
「……なに、してんの」
 生理的反応の帰結として吐き出したあとのだるさと相反するすっきりした感覚を両方抱えながら、米屋陽介はまばたきをした。
 黒ずんで汚れた柱の根元に近い部分に、くっきりと濃く、正の字がふたつ、書きかけの字がもうひとつ、書かれていた。
「……みわくん?」
「なんだ」
 すでになにかを決意してそして決意し続けているように見える、尖った秀次の肩。その尖り方が陽介は好きでだからこそ一緒にいるのだけれど、それにしたって三輪秀次のとなりに居続けることは、リアクション能力とスルースキルを問われた。「それなんの数字?」
「回数」
「回数……」
「おまえの」
「俺の方!?」
「こっちが」すう、と指を動かした先に、一本横線を引いたすぐ上、正の字が、こんどは完成したものが3つ。……あ、そうなんだ。説明を受ける前に陽介は理解した。すこしめまいがして、陽介は、裸のままの秀次の肩に腕をもたせかけてぺたんと肩に頬を寄せる。あ、そうなんだ、秀次のが、多いんだ……。「こっちが俺のだ。おい、甘えるな」
「いいじゃん別に」
「……いいけど」
 小さな声でぼそりと、「またやりたくなるから近づくな」と秀次は言った。いいじゃん、もう一度陽介は繰り返した。笑みを含んだ声で繰り返して、首筋にかるく唇を落とした。ぐしゃりと投げやりに秀次は陽介の髪を撫でた。追いやる形ではなく完全に、甘えかかるしぐさ、媚を含んだ甘さで陽介の髪を撫で、陽介はもう一度、煎餅布団のなかに秀次を引きずり込んだ。
 正の字ねえ。
 陽介は吐息をつく。その吐息を飲み込むように頭をぐいと引きずり寄せられて、よそみを禁じられる。まったくうちの隊長の生真面目は測りかねる。それを記録してどうするつもりやら。しかし彼らの行為においてたしかに記録は重要とも言えた。
 これは愛のしぐさではない。そう米屋陽介は考える。
 これは愛のしぐさではない。
 これは三輪秀次においては愛よりもっと切実なものであり、これは米屋陽介においては愛よりもっと即物的なものであり、そして彼らは確実に、死と破壊のためのコントロールとして、これを行っていた。

「長かったじゃん」
 陽介が納戸を出てきたとき、もう夜はそこにきちんと鎮座していて、陽介は、また奈良坂にメールをしてこっそりと部屋に入れてもらわなくてはならないなと思う。秀次と陽介が(そして奈良坂も古寺も)住んでいるボーダー本部付き男子寮には、今時門限があるのだった。もちろんそこに住むことで様々な利便に預かっているのだから文句をいう筋合いではなかったし、文句があれば、そこで寝転がっている(というか転がっている、というふうに見えた)出水のように家を探せば良い話なのだった。
 実際には、近界民の被害で家を失ったボーダー隊員の大多数が、そして実家は息災だが通勤の便やそのほかの口実を持った隊員も、寮に入った。親元を離れた集団生活は悪くないと思えたし、なにより米屋陽介は三輪秀次の傍らをマークしたかった。そして三輪隊は男子隊員全員が寮住まいとなったおかげで連絡が非常に密なチームになった。言うことなしだ。
 言うことなしだがしかし、秀次と陽介には秘密の場所が必要で、そこで出水が都合の良い魔法使いのように現れることになった。
 出水が家を買うまでは、三輪と米屋はホテルに行っていた。しかし、金銭的な問題はA級隊員の給料で解決されるにしても、ボーダー隊員がホテルの休憩に足繁く通っているというのはそれなりに問題になりそうなスリリングな作業ではあった。
 ある日出水が、「基地の近くのあのボロ家、俺買ったから、おまえらやるとき俺んち来たら?」と言って、寮を出て行って、以来、出水のぼろぼろの平屋の離れの納戸は、秀次と陽介の、なんというかいわば、愛の巣として解放された。南京錠をぶらさげただけの納戸に、敷きっぱなしの布団、終わると秀次は家の裏に投げ出されたホースで水を浴びるか、出水が起きている時間なら(彼らは早朝に連れ立ってやってくることもあった)出水に声をかけて風呂を借りた。秀次が出て行ってしまったあとの納戸で陽介は思案し、扉を開け放した納戸の入口で中をぼんやり眺めながら、こっそりと煙草を吸った。メンソール煙草を吸っているのは、煙草が好きだからというよりも、そこに漂う濃い空気を払拭したいからという理由の方が大きかった。それを作り出したのは陽介本人なのに、陽介はまるで自分が阻害されているような気分になる。
「秀次は?」
「三輪まだ風呂」
「まだ出てこねーの? 俺行くの待ってんのかな」
「はいはいうるせーうるせー、風呂でやんなよ片付け面倒だから」
「やんねーよ」歌うように陽介は言った。「やらせてもらえない」
 毛羽立った畳の上に転がってタブレットを眺めている出水は目を上げ、なにも言わずにまた下げた。
 陽介が気楽なのは、この男のこういうところだった。出水公平は、家具と呼べるものがほとんどないそのぼろぼろの平屋に転がった、忘れ物の玩具のように、薄っぺらでかるがるしく、神経に障らなかった。ここは出水の家なのに、まるで出水はそこにいないかのようだった。そのくせここは出水の家そのもの以外の何でもないのだった。
 あってもなくてもどちらでも良いように思える。
 陽介はそう考え、そう考えた自分にぞっとする。
 あってもなくてもどちらでも良いように思える。それはけれど出水のことではなかった。それはむしろ陽介のことだった。そして秀次の。生きていてもいなくてもどちらでも良いように思える。存在していてもいなくてもどちらでも良いように思える。どうしてだろう、抵抗するために抱き合っているはずなのに、存在していると叫ぶために抱き合っているはずなのに、どうして秀次を抱くとこんなにもときどき、なにもかもが無意味に思えるのだろう。こちら側が正しいはずなのに。
「風呂」
 夜そのもののような静かな声でだらりと、出水の声が流れた。
「いちゃつくなら邪魔しねえよ」
「いちゃつかねーよ」
 言い返した。かろうじて笑った。

 がらり戸を開く前に、湯気がやってきた。秀次の体は温もって、生き物としての存在を感じさせた。けれどそれは、単に、熱い湯を浴びていたからというそれだけの理由で、もし秀次が生きていないものだとしても、湯を浴びれば簡単に、これだけの熱さを得ることが、できるのだった。
 秀次は闇の中で湯を浴びていた。あかりをつけないなかで漂う湯気は灰色に見えた。がらり戸を開けた先にいた陽介の存在を予知していたかのように陽介の体に腕を回し、ほとんど囁くような声で言った。
「奈良坂が言った。おまえに気をつけろと。おまえは狂っていると」
「俺が?」
 陽介は小さく笑う。まるで酒、そうだなすごく強いやつ、バーボンを浴びているみたいな気分だった。美しい声だと思った。
「殺しを楽しんでるからだ、おまえが。……ばかなことを言うって俺は思ったよ、陽介、おまえくらい健やかな人間は、ほかにいないのに」
 ばかだな。そう陽介は言い返す。口にはしなかった。馬鹿なのは秀次、おまえだ。奈良坂は正鵠を突いている。俺は狂っている。俺はたぶん間違いなく狂っている。俺は殺しを楽しんでいる。そして俺は殺しを楽しむためにおまえを利用している。秀次。おまえが近界民を憎むたび俺は都合が良くて笑ってしまう。秀次、おまえが近界民すべてを殺すと宣言するたび俺は、おまえの命令だという顔をして、ただのキリングマシーンになる免罪符を与えられるんだ。秀次。おまえは馬鹿だ。そして馬鹿だからこそ。
「好きだよ」
 陽介が言った途端、秀次のからだが震えたことに陽介は気づいていた。秀次はとんと陽介の胸をついて離れて立った。湯気と闇が邪魔で秀次が見えなかった。ただ秀次のからだがゆっくりとくずおれて濡れた浴室に落ちる形は感知できていた。嗚咽を漏らす声も感知できていた。泣く必要のない出来事だった。なぜなら秀次も陽介も、ふたりとも、お互いがお互いを愛していることはよく知っていたからだ。愛のしぐさではないとどれだけ否定を重ねても秀次も陽介も、もはやお互いなしでは生きる意味さえ見いだせない次元まで追い詰められている。陽介はしゃがみこんだ。同じ湯気のなかで秀次の肩を抱いた。それが三輪秀次から姉を追いやり、死を追いやり、憎悪を追いやりそして追い詰めてゆく愛のしぐさであるとわかった上で、はっきりと理解したその上で、陽介は秀次の震える肩を抱き、もう一度、
「秀次、好きだよ」
 そう言った。
 闇の音に耳を立てる。出水も、すぐそこにあるボーダー本部基地も、どこか遠くにあるはずの近界も、なんの音も漏らさないから、だれひとり三輪秀次をすくい上げてやることができない。
 米屋陽介の手から、すくい上げてやることができない。


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