なにもかもを見透かすように笑うから当真勇が嫌いだ。
 そして腹が立つのは、実際に見透かされるような態度、だれが見てもわかりきっているような態度を、透がとってしまうということだった。古寺章平が眉をひそめて、そっと見ないふりをするくらいに。それはあまり望ましいことではなかった。
 家を失ったあとボーダー隊員となり、仮設住宅で暮らす家族から離れて、寮に入った。最初は別の相手と同室だった。やがて古寺がやってきて、指導をするうちに親しくなり、三輪隊に誘い、同室で暮らすようになった。それから古寺章平は透にとって家族も同然の存在で、少年時代の数年を過ごしたということはなんだか既に人生のほとんどを過ごした家族のようですらあった。その古寺が困った顔をして見なかったふりをするので、それは、まずいことなのだった。
 かれらはボーダー本部の食堂で食事を取っていた。小さなテーブルに向かい合って座り、仲の良い兄弟のように、たわいもない話をしながら、数年食べ続けてもはや食べ飽きた定食を食べていた。それはささやかに幸福で十全に満ち足りていた。
 はずだった。
「奈良坂」
 声が聞こえた。
 透は振り返らなかった。にも関わらず、ゆっくりと頭にむかって血が上っていくのがわかった。頬が紅潮し、首筋まで熱くなった。声が聞こえただけ。ただそれだけだというのに。そこにいる。そうして奈良坂の名前を呼んだ。ただそれだけだというのに。
 そして目の前の古寺は、ひどくいたたまれない顔をして、目をそらした。
「……悪い」
 透は、かろうじてそう声を出した。古寺の顔をまともに見られなかった。食器が乗ったトレイを乱雑につかみ、立ち上がった。先輩、そう言う古寺の声に、「寮に先に帰れ」と言い返す声がかすれた。「悪い」もう一度言った。
 ほんとうに、悪いと思っていた。ほんとうに。

「あんたはなんなんだ!」
 怒鳴った途端に引きずり寄せられた。
「遅い」
「……遅くは、ない」
 ぎりぎりの近さで吐息を落とされた。とたん声が小さく縮み、透は、自分は馬鹿だと思った。なにを追いかけてきているのか。馬鹿正直にもほどがあるのではないか。しかしここは戦場ではなく、模擬戦闘でもなく、だからいくらでも逸脱することが許された。そして透は自分が逸脱を楽しんでいることを、渋々ながら認めざるを得なかった。
 そこはボーダー本部のトイレの一室で、もはやなにもかも予定調和だった。あんたは予定調和が嫌いなはずだろう、と透はどなりつけたかった。しかしもう透の体には、当真をどなりつけるだけの感覚は残されていなかった。いつもこうだ。当真といるとばらばらにされる。そしてペースを持っていかれるのだった。
 トイレの個室にふたりで入っていた。
 ボーダー本部の、訓練室のある階、この時間帯ならもう訓練をしている隊員はいたとしてもごくわずかだろう。
 トイレの個室に、ふたりで、入っていた。そして鍵をかけた。距離がとても近かった。
「……そもそも準備をしていない」
「だろうな」
「なにも持っていない」
 当真はなにも言わず、黙って透の頭を撫でた。
 猫を触るようにそうするので、透はしゃくにさわるのと同時にどこかやすらかな心地になり、息をついた。狭いそこで、ぎりぎりまで距離をとった。「扉を背に立て」
「はいよ」
「あとは、……黙ってろ」
 おそろしく狭い。
 透はしゃがみこもうとし、背中がトイレの便座につかえて、ぺたりと膝をついて膝立ちで当真を見上げた。当真はいつもどおりの面白そうな顔をして透を見ていた。透もいつもどおりの顔をしようとした。どくどくと鳴っている心音には、耳をふさいだ。ベルトを取った。当真のベルトだ。それだけで、自分のものが膨張する感覚があった。取ったのは、当真のベルトなのに。
 ジッパーを下ろした。
 当真のものは芯を持ち始めて下着の奥で主張していた。それを認識して、透は内心高揚したが、それは隠したまま、つとめてなんでもない顔をして、下着をおろし、出てきたそれを、唇の奥に迎え入れた。
 苦かった。
 そう懇切丁寧に話すようなことでもないだろう、ただ咥えて舐めていかせてやるだけのことだった。ただそのさなかに透はたしかに、古寺章平のことを考えていた。古寺章平がこれを見たらどう思うか。どんな顔をするか。どんなふうに信じられないと思うか。そうしてそれでもそれまでどおりに触れようとするか。そう考えていると興奮が募り、俺は正真正銘の馬鹿だ、と透は思った。喉の奥に流れるものをごくりと飲み込んだ。そうして当真を見上げた。当真が透を引きずり上げた。キスをした。苦いキスをした。
「でて、いけよ、……ひとりで、する……」
 もう一度当真は頭を撫でた。そして従順にトイレを出て行った。黙れと言われたルールに忠実に従って、なにも言わなかった。
「おやすみ」
 その声を聞いたかどうか、わからない。
「……おやすみ、当真さん」
 硬くなって、痛かった。透はそこに転がるように座り込み、触れることもできないまま、荒く息をついた。口のなかが苦い。けれど当真もいま、同じ味を口の中に抱いているのだ。そしてそれは当真自身の味だった。ざまあみろ、と透は思った。あんたは馬鹿だ、あんたからキスをするなんて、あんたは本当に、馬鹿だ、あんたは本当に。
 奈良坂透は笑わない。
 家が壊れて笑い方を忘れたまま時間が過ぎてしまって、だから、奈良坂透は笑わないのだと皆思っている。透はいつもどこでも笑わない。だから、同じ境遇の古寺が上手に笑っているのを見ると、不思議な気持ちになると同時に、胸のどこかがあたたかくなった。だから古寺をかわいいと思っていた。
 のに。
「……俺は馬鹿だ」
 痛いものを痛いままにとじこめたまま、透は呟く。さっき透はたしかに古寺を侮辱した。古寺をかわいいと思っていたのに。いとおしいものだと思っていて、守って指導してすくすくと育つようにしてやりたかったのに。俺は馬鹿だと思った。そして透が馬鹿であることが、いま透には心底、おかしかった。
 はは、と透は声に出して呟いた。はは、はははっ。声はきちんと笑い声になった。笑うことができた。奈良坂透も笑うことができた。馬鹿だった。こんなに簡単なことを失っていたなんてばかだった。透は笑いながらトイレの便座に這いより、腰をかけた。そうして笑いながら気をやった。
 そうして気がついたら泣いていた。
 当真さん、と透はつぶやいている。体中の当真が触った部分が熱い。そして触っていない部分が苦しい。心の中のばらばらになったぶぶんがむきだしの破片として散らかっているから痛くて苦しい。当真さん、と透はくり返しつぶやいた。会いたかった。
 会いたかった。
 当真勇は奈良坂透を赤面させることができる。当真勇は奈良坂透に苦い味の液体を飲ませることができる。当真勇は奈良坂透の頭を撫でることができる。
 当真勇は奈良坂透を、笑わせることが、できるのだ。


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