「自分が都合のいい道具みたいに扱われてるの知ってるか」
キッチンにやってきた林藤がそう言い、レイジはゆっくりと包丁から手を離してから、林藤を振り返った。「何がですか」と尋ねた。
「おまえだよ」
「俺ですか」
「自覚ないか」
 はは、と林藤は笑い、「いい奴だよな、おまえは」と言った。言外になにか含むものがあったように思えて、けれどレイジは表現された言葉をそのまま受け止めた。「ありがとうございます」
「知ってるか、おまえがいなかったら玉狛支部は立ちゆかないぜ」
「……ありがとうございます」
「今日なに」
「いつものです」
「そりゃ皆喜ぶ」
 手をひらりと振った林藤は、「俺はいい奴が好きだよ」と、「いつもありがとな」と言って、去っていった。その言葉にあいかわらず含むものを感じてレイジは眉をひそめ、そして首を振った。
 考えない練習をしていた。
 正確には、必要十分に考えて、それ以上考えない練習をしていた。必要十分に考えてそれ以上考えないためには、余暇は敵だった。さいわいレイジの生活はそれはそれは忙しかった。大学の課題をこなしながら玉狛支部の家事全般を請け負い、雨取千佳を、そしてあとのふたりの新人を指導し、トリオン体としての訓練と生身の鍛錬を怠らなかった。レイジの生活は無駄なく切り詰められ、レイジは自分の生活を美しいと思った。有用であることは美しい。
 壁にかかったコールボタンを押し、宇佐美、とレイジは呼んだ。「そろそろ皆を集めろ、夕食だ」と告げながら、レイジは自分の人生は十全であると思った。包丁を握るとき指が時々震えるのは錯覚だろう。
 もしくはただの幻肢痛だ。

 死ぬべき人間は死んだだろうか、そうレイジは時々考える。そして首を振る。それを知る手だてはないし知る必要もなければ知りたくもなかった。多分、この世界は、死ぬ必要のない人間から死んでゆくしくみなのだろう。迅悠一の母親や空閑遊真の父親。おそらくは十分に愛されるに足る存在だったはずの人間から死んでいっているようにしか思えない。
 強くなりたいと思った。死なないためだった。べつの強くある理由を林藤匠が与えた。だからレイジは、必要なだけ考えて、あとは考えない。人間の思考が生み出すものなどおおよそろくなものではないとレイジはおもう、必要なことは、肉体が、教えてくれるだろう。そして接触が。
 あるいは愛が。
 ここには愛ばかりがある。そのようにレイジには思える。皆が幸福そうに見える。守られて安息しているように見える。疲れていないはずはないのにいつも絶対に疲れた顔を見せない烏丸が小南に軽口を叩きながらおかわりをした。誰かがおかわりをすると、レイジはそのたび、許された心地がした。なにを?
 そこにいることを。

「陽太郎」
 夕食に出てこなかった子供が、そこで寝ていることを、レイジは知っていた。さっき探してすぐに見つけ出した。陽太郎はもうすでに自分の部屋を与えられてひとりで眠っているのだが、よくレイジの部屋にやってきてレイジの傍らで(もしくはレイジのいないベッドで)眠る。レイジは自分のベッドで寝ている子供を起こさないまま、夕食を終えて自室に戻ってきていた。
 この時間までぐっすりと眠っていたのでは、子供は明日の朝まで起きてこないかもしれない、そうレイジはおもう。あるいは妙な時間に起きてきて、遊びたいと言って騒ぐかもしれない。そのときは付き合ってやらなくてはならないだろう。
 一日の仕事はすべて終わった。片づけるべき課題も、読むべき本もない。あとは眠る前に重量挙げをする。だけだ。だけだ、と思いながら、レイジは、布団のなかからちょこんと頭を出している陽太郎の横に、ごろんと転がった。陽太郎はとても真剣な顔をして眠っていた。眉根を寄せてさえいる。レイジはぎゅっと目をとじた陽太郎の眉を撫でてそこを伸ばしてやりながら、自分の指が震えていることに気づいた。指は震えているし、もうかたほうの手は拳をつくっている。林藤匠はどこでなにをしているのだったか。どうしてこの子供はここで眠っているのだったか。いやもちろん林藤は仕事をしているし子供が林藤の部屋ではなくここで眠ることに深い意味などない。レイジは深呼吸をした。息を吸って吐くことを繰り返した。そうするうちに眠たくなった。子供の息をレイジはほんのちかくで浴びていた。それは眠気をそそる呼吸だった。レイジは子供をそっと抱き寄せ、目を閉じた。
 ずいぶん長く眠っていたような気がするが、時計をみるとほんの数十分だった。起きあがろうとすると、シャツを引っ張られた。子供の指がレイジのシャツをつかんでいた。しっかりとつかんだ指にレイジはすこしだけたじろいだ。そうしてレイジはゆっくりとシャツを脱ぎ捨て、そこに子供をおいて部屋を出た。

「レイジ」
 トレーニングルームとして緩衝用のマットを敷いた部屋で、重量挙げをしていると、声がきこえた。まだ半分眠っているような声で、レイジのシャツをひきずって、陽太郎がそこに来ていた。シャツをひきずったそのようすが、漫画に出てくる子供のように見えて、レイジはほんの一瞬、陽太郎は大きくなったな、と思った。どうしてその連想がそう考えさせたのかわからない。とにかく、そう思った。
「下ろすまで近寄るなよ」
 レイジがそう言うと、陽太郎はむずがる声で、「しってる」と言った。レイジはゆっくりとダンベルを床におろし、陽太郎にあゆみよった。
「目が覚めたのか。晩飯はどうする」
「ゆめのなかですごいぼうけんをした」
「そうか。晩飯はどうする?」
「ばんめしじゃなくて、すごいぼうけんをした。レイジ。おまえもすごいぼうけんをするべきだ。おれといっしょにすごいぼうけんをしよう」
 たわいもない言葉だった。そうだなと言ってやればよかったのだ。けれどもレイジの口は肯定の言葉をつくることができなかった。レイジは一拍息をのみ、それから静かに、「陽太郎、俺は、行かないよ」と答えた。
 それより晩飯は、と繰り返そうとしたレイジの目の前で、陽太郎が目をみひらき、はっきりと覚醒したという表情で、「どうしてだ、レイジ、ぼうけんだぞ、すごくおもしろいんだぞ、とおくへでかけていくんだ、そうして、たのしいことをいっぱいする、へんなものをたべる、ふわふわしたものにさわる、いろんなどうぶつとはなしをする、それで、レイジも、そこに、ひつようだ」
 陽太郎が、レイジの指をしっかりと握っている。レイジは、自分がまた拳をつくっていることに気づいた。レイジはゆっくりとそれをほどいた。それから首を振った。どうしてそんなに意固地になっているのか自分でも判らなかった。考えることができなかった。シャッターがおりているように、なにも、考えることができなかった。
「陽太郎、俺は、いけない」
「どうしてだ」
「どうしてもだ」
「そんなのはおかしい」
「おかしくてもいいんだ」
「レイジ、いこう」
「だめだ」
「どうしてだ、そんなの、ちがう、なあ、レイジ、おれとレイジはとおくにでかけるんだ、そうしておれとレイジは、ずっと、一緒で」
「それはここでもできる」
「ちがう」
 そうだな出かけていこうと一言言ってやればいいのにレイジは、どうしてもそれを告げてやることができない。ただ馬鹿のように繰り返し、それはここでもできるだろうと言いながら、ふとレイジは、林藤が告げたいい奴という言葉は誉め言葉ではなかったのだと思い至った。
 苦い感情があった。
 しかしそれでも林藤はたしかにレイジを好きだと言ったのだ。
 愚かな動物だからレイジを好きだと言ったのだ。
 レイジは陽太郎をみつめる。陽太郎のサイドエフェクト。動物の言葉を理解するサイドエフェクト。カピパラはほとんど鳴かないのに陽太郎は時々カピパラの言葉を伝える、……それが陽太郎の妄想ではないとも言い切れないけれども。
 そうだ、動物の感情とは言葉よりむしろ所作で表現されるものなのではないか。どんよりと転がっているカピパラの言葉はきっと所作から放たれている。尻尾をふる犬の言葉は尻尾から放たれるのではないか。
 陽太郎は、レイジにすら感知できない、レイジの動物としての所作を、理解している、のでは、ないのか。レイジの拳。包丁。震える指。
 ……寒気がした。
 死ぬべき人間とは誰のことだっただろう。手が震えている。それは林藤のことではない。混同するな。それは林藤のことではないのだ。林藤に対して父親に寄せるような感情を抱いているとしてもそれが憎悪である根拠はなにひとつない。はずだ。そのはずだ。そうだろう?
 遠くへ行きたくなんてない。ここがレイジの家だ。
 陽太郎が、レイジにも感知できないようなレイジの感情を、感知したなんて、錯覚だ。
 いまや陽太郎は泣きわめいている。うわあんと声をあげて泣きながら遠くへ行くのだと言い募る陽太郎をレイジは抱き寄せる。子供の体は熱く湿っていて、まるで遠い異物のようだとレイジはぼんやりと考えている。遠い異物のようで、小さくて軽くて、簡単に、殺してしまえるものを、どうして殺されずに俺は、生き延びてここまで来たのだろう、この世界では、善悪は、生きるための理由には、ならない。
 いつのまにか泣き止んだ陽太郎が、ひっくひっくとしゃくりあげながら、小さな、小さな、とても小さな、かすれた声で、「どんなにとおくへいっても、さいごには、たまこまに、かえってくるんだ」と言った。
 その声は感傷を伴ってレイジのなかに響いた。

「気がついたんですけど」
「うん? なに? まだ計上してない給料あったか?」
「俺、生身のときなら、ボスのこと殺せますね」
「はは、なに、物騒なこと言うな」
「いえ別に。陽太郎は賢い子に育ちましたね」
「そうだな」
「あの子のこと好きですか?」
「可愛いよ」
「愛してます?」
「うん」
「よかったです」
「信用ねえなあ」
「すみません」
「愛してるよ」
 それはよかったです。



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