むかしまだ陽太郎がカピパラに乗って歩きまわっていたころ、陽太郎は厳粛な面持ちで、積み木を持って支部長室に入った。カピパラさえいれば陽太郎はうまくドアノブをまわせたが、どうせ、支部長室の扉はおおむねうすく開いていた。陽太郎がうまく入ってこれるように。いつもそこは陽太郎のために開かれた場所だった。
 陽太郎の父はそこにいたりいなかったりした。いずれにせよ陽太郎は床に積み木を積み上げ、難しい顔をして床に座り込み、積み木をあっちにやったりこっちにやったりした。そうして、よう陽太郎、なにやってんだ、と父に問われると、「しごとだ」と答えるのだった。
 そこは仕事をする場所で、そこが林藤匠の部屋だった。たぶんおれは林藤匠になりたかったのだろう、そう陽太郎は思う。少なくとも陽太郎の夢のなかの少しの部分はそれを求めていた。林藤匠になって、それから――
 それから?
 陽太郎は「仕事」を終えると、雷神丸とは解散して歩いて別の部屋へ行った。その部屋の扉もまた、陽太郎がいつやってきてもいいように、少し開かれたままになっていた。レイジの部屋のベッドはレイジのにおいがした。頑強で堅実な、レイジの匂いがした。陽太郎はレイジの匂いをふかぶかと吸い込み、それから眠った。レイジのベッドはとてつもなく大きく、とても満ち足りた心地で、陽太郎はそこにいた。レイジはけっして、陽太郎に、自分のベッドで寝ろとは言わなかった。レイジがやってきて、陽太郎の横で寝入っていることもあった。陽太郎は目覚めてそれに気づき、レイジにしがみついて、また眠った。レイジの強度にしがみついて、眠った。
 ただ単にいまでもそこにいるのかもしれないと陽太郎はいまでも思う。
 陽太郎はただたんにおさない子供ではなくなり、もう雷神丸にまたがることはできない。雷神丸を従えて、もしくは雷神丸に守られて、陽太郎は夏の、ほこりっぽい道を歩いている。はあ、と息をつくと、疲れたのか、とカピパラは言った。疲れてない、そう陽太郎は答えた。カピパラは、人間にはわからない所作で笑った。つまり、陽太郎にしかわからない所作で。
 もはやおさない子供ではなくなった陽太郎がそこにいて、彼は時々、教会にかよっている。
 動物の世界にも神はいるのか、と陽太郎は尋ねる。動物なんて枠組みのものはありゃしねえよと雷神丸は答えた。なるほどそのとおりだった。では、カピパラの世界にも、神はいるのか。いるとも、と雷神丸は答えた。
 ただ俺には関係のない話だね。飯を食ってどこにもゆかずにおまえとだべっているだけの身の上で、なんの代わり映えもしないとあっちゃあ、祈るようなこともないじゃねえか。
 教会は古い建物で、まだ近界民からの爆撃を受けていないままずっとそこにあったというようにみえる。だから陽太郎はそれには強度があると考える。それは信じるに足るだろう。神はそこにいるのだろう。たしかに。
 陽太郎は、そこにいる神のことを、信じきってはいないが、信じていないわけではないのだ。
 ただ陽太郎には別に信じる神がある。
 木崎レイジは陽太郎の神である。
 だけど陽太郎はさいきん時々、レイジにむかって、これは大丈夫なことなのか本当にそうかと、問いただしたくなるのだった。毎日陽太郎のうちにいることは(そこが玉狛支部と呼ばれる戦闘拠点のひとつであることは、とうの昔に陽太郎は理解していたけれどそれでもそれ以前に、そこは陽太郎のうちだった)、ごはんをつくることは、おれたちにやさしくすることは、レイジにとって楽しいか、どうなんだ、おれのまえでレイジはいつもつよくてやさしくて完璧で優れていて母であり父以上に父であり全てであったレイジに、もうひとつあたらしい名前を与えることは、許されることなのか、レイジ教えてくれと陽太郎は思いながら、それをレイジに問うことはできないと自覚している。
 それが間違ったことなのかすら、陽太郎には判別がつかない。
「陽太郎」
 きらきらと光るステンドグラスの光に目を奪われていて、そこに誰かがいることに気付かなかった。陽太郎は目をあげた。きらきら光るステンドグラスの光のなかに、完全なものを陽太郎は見た。そこには木崎レイジが立っていた。
「……レイジ」
 ぽかんと陽太郎は言った。雷神丸が、人間にはわからない所作でまた笑った。陽太郎は少し腹を立てたが、それよりもそこに男がいることのほうが何十倍も大事だった。
「教会に来ているのか」
「いけないか」
「いけないことがあるわけがないだろう。神を信じているのか?」
 信じているとも信じていないとも言い難かった。陽太郎は黙り込んだ。レイジは小さく笑い、「いや、大丈夫だ、構わないんだ」と、小さな子供に許しを与える口調で言った。
「ここは難民支援を行っている教会だから、その関係で話をしに来たんだ。一緒に帰るか?」
「帰らない」
「そうか。そうだな、来たばかりだものな。それじゃあ気をつけて帰れよ」
 レイジは光のなかをあゆんでいった。陽太郎はそれを見送ることができなかった。陽太郎はこわばってそこに立ち尽くしていた。
 今日陽太郎ははじめての夢精を体験した。
 夢の内容はよく覚えていないが、それゆえに今日陽太郎は教会に来た。レイジの部屋の大きなベッドに救いを見出したかつてのことを陽太郎は思った。もう陽太郎はレイジのベッドにもぐりこむことはできない。あのベッドにはすべてがあった。十全に満ち足りて陽太郎はそこにいた。それこそがその日見た陽太郎の夢のビジョンであることを、否定できなかった。
 おれはなにもかもすべてがこのままであることをねがっているくせに木崎レイジの夢を見て夢精をしている。
 できることならレイジを神以外の名で呼びたい。父以外の、母以外の、名前で呼びたい。でもどんな名前で? 信じるということは信仰するということでしかないではないか。そして陽太郎はいつでもレイジを信じ尽くしていた。完全に。レイジは勝ち続けるだろう。レイジは愛し続けるだろう。レイジはそこに存在するだろう。レイジはおれのものだ、――――でもそれはおれがさだめたことではない。
 そういうもの、運命づけられて信じるしかないものを、神って呼ぶもんさ。カピパラはそう言って、笑った。 
 陽太郎は神の前に進み出て祈った。どうか陽太郎の心配の全てが杞憂でありますようにと。陽太郎の神が神であり続けることを願うことが間違ったことではありませんようにと。そして同時に。
 どうか神様、おれの神が、神であることに疲れ果ててしまったとき、正しく、おれを捨てて、逃げ出すことができますように。そのときおれが彼の、荷物になることが、ありませんように、と。



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