痛い、とレイジが言ったので、陽太郎はピャッと飛んできてどうした、どこが痛いんだ、と言った。レイジは沈着な目で陽太郎を見て、陽太郎は、痛いと言ったやつはもっとつらそうな顔をするべきだという憤怒に囚われた。レイジは指をさしだし、
「すいばりだ」
 と言った。
 その言葉を陽太郎は知らなかった。
 知らなかったので、なんだかとても怖いもののように思えて、陽太郎は腹を立てたまま、「スイバリなんかに負けるんじゃない!」と言った。レイジは、そうだな、と言った。古い木製のまな板をとんとんと叩きながらそう言って、「すいばり、知ってるか、陽太郎」と尋ねた。知らないというのがしゃくだったので、陽太郎は黙り込んだ。レイジは指をさしだし、ほら、と言った。
「ここに、黒いのが見えるだろ」
「……見える」
「木の破片だ」
「はへん?」
「かけらが、指に入って、痛い。取り出さないと病気になる。おまえもこうなったらちゃんと言え」
「おれはならない」
「なっても恥ずかしくない。木の方が悪い」
「おれは、ならない!」
 ひどく腹が立って、陽太郎は台所の床に座り込んだ。レイジは陽太郎の頭を撫でなかった。陽太郎を子供扱いしなかったのでそのことに陽太郎は満足して、顔をあげた。レイジが薬箱を取り出している。薬箱からピンセットを取り出している。そうして丁寧な手つきで、レイジの指から、なにかを、抜き去った。ほとんど愛情のように、「スイバリ」に対する愛情がこもっているかのような手つきで、それを行った。レイジはいつでもそうだった。いつでもなにをするときでもなにもかもにたいして愛情があるように扱って、けれどそのくせレイジはそれを言葉ではあらわにしない。はっきりとわかるかたちでは示されないレイジの愛情はけれど玉狛支部に遍在していたから皆がそれを知っていたしそれを浴びるように受け止めていた。「スイバリ」でさえも。
「取れた」
 ぽつんとレイジが言った。
 なんだか陽太郎は悲しくなって、レイジにむかってずかずかと歩いて行った。そうして陽太郎はレイジの指をつかみ、それを口に運んだ。舐めた。レイジを犯した「スイバリ」のことを、なかったことにするみたいに、陽太郎はいっしんに、レイジの指を舐めた。
「優しいな」
 レイジはそういった。レイジはなにもわかっていないと陽太郎は思った。おれはやさしくなんかない。やさしさなんかでここにいるわけじゃない。陽太郎はただ一心にレイジの指を舐めていた。レイジはどこかぼんやりとした声で、「まな板にやすりをかけないとな」と言った。「誰かがまた怪我をしないように」と。
 木崎レイジにケガなんてしてほしくなかった。
 違う。
 木崎レイジに怪我をさせるのが、おれであったらいいと、そのときおれは、思っていた。
 木の破片のようになりたかった。レイジにとって特別な存在になって、そして除外されたかった。レイジが、なにかを憎んだり、なにかを阻害したりするところを、見たことがなかった。いまでもおれはそれを、見たことがない。
 夕暮れの台所だ。小さな陽太郎が、木崎レイジの指をいっしんに舐めている。傷痕を、なかったことにするかのように。ひとりで怪我をして、ひとりで直してしまう木崎レイジの完璧なんて、なかったことにするように。陽太郎がいなければ、世界は完全にはならないのだと、必死で主張するように。レイジはそこに立ったまま、陽太郎のおこないのすべてを、許容している。
 いまでもおれはレイジのすいばりになりたくて、そしてそれはきっと、永遠にかなわない。



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