ずれていく。
 ココアだ、と士郎は言う。士郎は喜んでそう言ったのに、母は笑っていない。取り出しかけた箱を取り落として、どうして、と、母は動揺した声を漏らす。「どうしていつも気づくの、作り始める前に」母の声は震えておびえている。士郎は目を丸くして母を見上げている。謝らなかった。悪いことをしたとは思わなかったから謝らなかった。嫌いなものが増えた。
 すこしずつ、すこしずつ、世界に対して無感覚になってゆく。嫌いなものばかりが増えていく。どうして、どうして、どうして。わからなかった。どうしてわかってはいけないのかが、わからなかった。ココアだ、と士郎がはしゃいで言ったときに母の心音がごとりと鳴って鳴り止まなかったことを士郎は知っていた。好きだったはずのものが嫌いになってゆく。
「ねえ、ぼくのこと嫌いなの」
 嫌われているなら嫌われているでそれでよかったはずなのに士郎はそうやって言葉にしていてそれは、まだ、士郎は、嫌いになりたくない、ということだった、と思う。本部のラウンジで士郎を見つけた笹森が怯えたように足を止めたときの、心音を士郎は聞いていた。びく、と震えるからだの関節が軋む音、上がる心拍数、はねている心音、アラートサインを示す感覚。そうして笹森はくるりと踵を返した。正直、意外だった。
「笹森」
 声をかけた。笹森は足を止めなかった。もう一度呼んだ。「笹森!」
 笹森日佐人は足を止めて、嫌々というように振り返った。
「……なん、なんだよ、おまえ」
「おまえこそ、なんなの、人の顔見て逃げるなんて、失礼だと思わないの」
「わけ、わかんねーよ……」
 笹森は後退りをしてそれから小さく笑った。心臓の音が早いままだった。士郎は慎重にそれを聞き分ける。笹森のこの動揺しやすい性格は士郎は決して嫌いではなかった、むしろそこに惹かれているといってもよかった、でも嫌われるのはちょっとよくわからない。いつだってよくわからないのだけど、だから、もう、気を使うのはやめていたはずだったのだけど。
 嫌われないように振舞うなんて不可能だから気持ち悪いと言われる前に言いたいことを言ってそれでいいと思っていた、はずだったのに。
 笹森は小さく笑い、そうして、
「オレのことからかって面白い?」
 と言った。
「からかった覚え、ないんだけど」
「……キ、……とか」
「ああ」
「忘れてたのかよ」
 呆れたように諦めたように、笑う笹森の表情には見覚えがあった。その表情を向けられたことが、以前にもあったと思う。キス、をした。少し前に、会った時に、どうしてもしたくて、した。その話だ。
 笹森の声は笑いの末尾が震えてそれから、ぎゅ、とこぶしをにぎりしめた。
「いいかげんに、して、くれよ。おまえのこと、いいやつだと、思ったのに、死なないでよかった、とか、言っ……」
 あ、泣く。
 士郎は笹森の腕を掴んだ。振り払おうとする笹森に、「ここで泣いたらはずかしくない?」と小さな声で言う。笹森は涙のにじんだ目で士郎を睨んで、けれど抵抗せずにうつむいた。周囲の視線を感じた。ささやく声も。悪人は士郎のほうで、だから人が多いところにいたほうがずっと、笹森にとっては有利だったはずだった。士郎の都合がいいように、わざとそう言った。士郎にとって都合がいい、ほうに。
 ラウンジを離れて、静かな廊下に出た。笹森はけんめいに涙をこらえていて、それからこらえきれないというようにぼろっと涙をこぼした。あわてて顔を拭っている。
「すぐ泣く」
「るっ、さい……!」
「これ」
 ティッシュペーパーを取り出してわたす。うまく取り出せないでいるようなので、一枚取り出して、「顔」言って、こちらに向けさせた。身長差は五センチ、だったか、背伸びをしたら埋まる距離だ。した、ときも、そうだった。ティッシュで涙を拭ってやってもまだぼろぼろと涙はこぼれてくる。士郎は嘆息し、笹森を見つめた。
「ちょっと。困らせないで」
「……困ってる、のか」
「困ってるよ」
 士郎の心臓の音もずっと士郎の耳には聞こえていて、それがひどくうるさいので、なんだかなあと思っている。こんなふうにいろいろなことを、感じて生きていくのはとうのむかしに、やめたはずだった。けれどそれでも感じないで生きていくことは良い事ではないと思ったからこうやって、笹森日佐人を選んでここにいるのだ。愛された子供、聞き分けのよい子供、守られて導かれてゆく子供、ずれてゆかなかった笹森日佐人の人生、それが、欲しかったから。
「すごく、困ってる」
「……ごめん」
 士郎は虚をつかれた。そして笑った。「なんで謝るの。悪いのはぼくじゃなかったの」
「いや、……うん」
「キス」
「う」
「してもいい?」
「や、嫌だ」
「どうして」
「からかってる、ん、だろう」
「この間急にしたのは謝る。ぼくだってあんなことされたら気持ち悪くて吐きそうになると思う。おまえは間違ってない。たしかにぼくはひどいことをした。ちゃんと聞かないといけなかった。してもいいかって。謝ったからもういいでしょう。してもいい?」
「なんで?」
「おまえに触りたいんだ」
「……触ってる」
 言われて、はじめて、腕を掴んだままだったことに気づいた。お互いの心臓の音がうるさすぎて、音ばかり効きすぎていて、そんなことに意識が向いていなかった。ぎゅっと握った指が必死に見えて士郎は笑う。
「なんで笑うんだよ」
「おまえ、のことじゃないよ。ぼくが。必死すぎて」
「おまえが?」
 く、く、く、笑っている士郎に、驚いたように笹森が言う。跳ね上がる心拍数、それから、笹森も小さく、ふふっ、と笑った。
「……笑ったり。必死になったりむきになったり、しないんだと、菊地原は、そういうの、ぜんぜん、ないんだと思ってた」
 その言葉は士郎のなかのどこかに残ったまだ柔らかい部分をずるっとえぐり、士郎はほんの一瞬顔をこわばらせる。けれど笹森は笑いながら、
「ごめん。そんなわけなかったよな」と、言って、士郎に向かって、微笑みかけた。
 ずれて、いく。
 世界がどんどんどんどんずれていっていずれ士郎は地球から遠く離れてしまう。その直前に風間が士郎の腕を掴んだ。そうして巡り巡って結果として目の前に笹森日佐人がいる。笑っている。あの子が怖いのよ。あの子が怖いの。あの子はわたしたちとは違うから。違うから。
 ごめんなと笹森が言った。
「好きなんだ」
 たぶん士郎はそのときいっそ泣き出したかった。けれどうまく泣くことができなくて力なく漏れた声があった。笹森がじっと見つめている。士郎をじっと見つめていてそうしてたぶんこれはずれていかない、正しい場所に士郎はいるのだと思う。きっと、笹森は、わかってくれる。風間が、歌川が、宇佐美が、三上が、士郎を受け入れたように士郎はきっと、もっとたくさんのものを、愛してゆける、士郎が愛することを、許してくれる。笹森。どうか。
「おまえのこと好きなんだ」
「……変なやつ」
 笹森は困ったように諦めたようにそれから呆れたようにそれからどこか嬉しそうに笑った。
「ありがとう。菊地原」
「触ってもいい?」
 頬が赤くなる。笹森はさっと周りを見渡し、それから士郎に向かって顔を傾けた。つま先で立った。ほんの一瞬、すれ違う星と星。



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