ぬるま湯のようにあたたかい場所にいて、そこは士郎にとってはじめての場所だった。ぴりぴりとするどいものにいつも突き刺されているように生きてきたから、そこはほんとうに、士郎にとって特別に、暖かくて幸福な場所だったのだ。士郎は家族をあまり愛していない。全く愛していないと言い切ることはできないけれどあまり、愛することができなかった。家族はぼんやりと士郎の鋭敏を厭うたし士郎も家族の鈍感を厭うた。あたたかい家庭において士郎の鋭敏は異物だった。それが特別な才能だとわかるまで。
 彼のチームはみなたぶん屈折をかかえていて、だからここはぬるま湯のようにあたたかい。自分がいなくてもいいのではないかとか自分は死んだほうがいいのではないかとか自分の感情なんていらないのではないかとか、思ったことがある人間だけが集まってここにいる。それは風間隊という名前を持ち、たとえば士郎は歌川遼を、自分と似ていると思う。
 なかみがなくてからっぽでなにをしたらいいのかわからないから風間に見つかって中身を詰めてもらった。よく、似ている。だから士郎は歌川のことも好きだった。周囲の人間を肯定することでしか自分を保てないようなところのある三上歌歩のことも、そうして神のようにおもえる風間ですら彼の兄の身代わりとして生きているということも、すべて士郎にとって、愛おしいものだった。
 ただひとり宇佐美栞だけは違っていて、だからこそ宇佐美の場所はここではなかったのだろうと士郎は思う。宇佐美がぬるま湯に浸かっていることを捨てて外側の世界に出て行ったこと、本部すら離れて遠ざかっていったこともまた士郎にとっては愛おしいことだった。士郎は彼らのことをいつくしんで、よかったね、と思う。いるべき場所を見つけられて、よかったね。ぼくたちは自分のいるべき場所を見つけられて、よかったね。
 風間がときどき話しかける、あるいは話しかけられる、風間と同学年の男がいる。
 その男のことも、士郎は嫌いではない。士郎はボーダーという名前のついたこの組織に所属する人間のことが、みなおおむね、嫌いではない。ただ風間を、士郎の神である風間が最強ではないと証明してしまう太刀川慶のことは好きになることはできなかったけど、それくらいで、あとのものを士郎はうまく愛することができなかった家族のかわりにいつくしんでいた。ばかだなとか弱っちいなとか言いながら、でも、消えてしまえ、とは、思わなかった。
 思わなかった。
「笹森」
 模擬戦闘室を使っていた、同年代の少年は、風間と同学年のあのタバコ臭い男の部下にあたる。さきの侵攻で連携をとる機会があった。それまで士郎がそいつのことを認識していたかどうか、あまり、認識していなかったような気がする。タバコ臭い人の名前は諏訪で、その隣にいつもいる人の名前は堤、そこまでは覚えていたけれど、その隊のあとの構成員の名前なんて、覚えていたかどうか。けれどいまとにかく笹森日佐人はいて、士郎を見てぎくりと身を震わせた。
 模擬戦闘室の二階席から、声をかけた。笹森は復元されたトリオン体で、居直ったようにきっと士郎を見上げた。笹森の目の前に出現していた新型近界民「ラービット」がすっと姿を消す。『おい菊地原』尖った、しかしすこし笑みを含んだ声が室内に響いた。
『うちの日佐人にへんないちゃもんつけるなよ』
「第三者は黙っててください。つけたことないです」
 諏訪さん、といなす声が聞こえた。偽善者だなあと、士郎はすこしおかしみを感じた。堤だって諏訪と同じくらい、いま士郎がなにを言おうとしているか、なんのために来たのか、知りたくて心配しているのだろうに。家族。
 あたらしい家族。
 別の隊、がある。風間隊のようにきりきりにはりつめて戦うことでしか存在していることを、自分たちが、ここに、生きていることを、周知させることができないと思い込んでいる隊とはちがう、別の隊がある。そうして別の隊のなかで、こうやってまるい玉のように大事に大事に守られている、たとえば模擬戦闘室をこうやって使ってあの日勝てなかった戦いをもう一度、もう一度、もう一度なんどでも、再現して磨き上げられるように鍛えられてゆく笹森日佐人がいる。
 海の底に飛び込んできた別種の動物のようだった宇佐美栞。
 そうしてここにもうひとつ別種の動物がいて、動物、違うかもしれない、遠い恒星をあたたかい海のそこから眺めるように、笹森日佐人を眺めている士郎がいる。あのとき笹森に勝手に死ねと言った風間もたぶん、同じ恒星を見ていた。風間と風間隊は得ることのできない熱のある場所を、見ていた。
「なにびくびくしてんの」
「……なんの、用だよ。菊地原」
「おまえあいかわらず弱いね」
「うるさい、悪口言いにわざわざ来たのか?」
「悪口なんて言ってない、事実じゃん」
「……オレのことが嫌いなら、もうそれでいいから、邪魔しないでくれよ」
「嫌いだなんて言ってない」
 士郎は指先で跳ねさせたココアの缶をぽんとほうった。トリオン体でも飲み食いできるというのは不思議なことだと思う。あたたかさを感じたり、美味しいと思ったりする。それはぬるい海の底で生きることに似ていた。どうして呼吸ができるのだろう、どうしてそのほうがむしろ、呼吸がしやすいと思うのだろう、海の底で。傷ついた人間同士、からっぽな人間同士で肩をよせあっているのはとても、楽な生き方で、だから士郎は幸福だった。なのに。
 海のかなたに太陽を見つけて士郎は、指先をそちらのほうに向けている。
 放り投げられた缶ココアを上手にキャッチした笹森は、いぶかしんだ顔で士郎を見つめた。缶を見て、士郎を見て、それから、かあっと顔を赤らめた。変なの、と士郎は思った。面白かった。笹森は口を開きかけてうまく言葉を作れずに閉じた。
 士郎は笹森をみおろして、みつめて、言った。
「おまえ弱いのに死ななくてよかったね」
「……ありがとう」
 ぐ、と、一瞬喉に息をつまらせた笹森は、そう、言い返した。変なの、と、士郎はまた思った。なにが変だったのかはわからない。でも、そう思った。
「弱いのには余計、でも、菊地原も、生きてて良かった」
「はぁ? ぼくが死ぬわけないでしょ」
「……そうだな」
 笹森はどこか諦めたみたいに呆れたみたいにけれど明るく、とびきり明るく、笑った。うん、と士郎は思う。海はとてもおだやかで暖かくて似た者同士でくっついているだけで幸せでけれど外の世界では人が死んだりする、でも笹森日佐人があのとき、死なずに、ここでまだ生きていて、「新型くらいはやく倒せるようになりなよ」まだぜんぜん諦めていなくて、それはとても、よかった。



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -