口にした水からおかしな味がして、透は咳き込んでいる。ひひひ、と当真は愉快そうに笑い、「腐ってたろ」と言った。
「なんで、腐っ、いつから」
「おとといだっけな」
 この陽気だからと言うその暑さはここには入ってこない。クーラーをきんきんに効かせた部屋で自堕落に寝転がっている男の前で、一枚一枚服を脱いでいったのが十数分前、そんなものだろうか、よく覚えていないけれど、たぶんそんなものだろうと透は考える。この部屋には時計がない。スマートフォンの画面は死んでいるし、電源を点ける気にはなれなかった。行為をおこなう前に携帯電話の電源を切る習慣はいつついたのだったか。いずれにせよ緊急時には速報が入ったしそれ以外には必要な呼び出しなどなかった。いまこの場所では。
 そんな生活を、もう何年。濡れたように黒いスーツのジャケットを脱ぐ。同じ色のネクタイを指先で引く。ベルトをとる。シャツのボタンをはずしてゆく。指先を、寝転がったままの当真は見つめていた。笑って。
 故郷のようなものだ。
 三輪秀次の姉の七回忌だった。三回忌のときには三輪はひとりで実家に帰った。七回忌で三輪は、隊員全員を連れて法事に参列した。一緒に来て欲しいと言われた。たぶんそれは意思表示だった。三輪は故郷に帰ったのだ。ひとつめの故郷に。いまもうひとつ故郷があることを、だから大丈夫だと、姉を探して迷子になった子供はもうどこにもいないと、そう知らせるために。
 けたけたと声を立てて笑っていた当真が、機嫌の良いしぐさで、ぐいと透の頭をつかむ。キスをした。
「まっずい」
「……くさった、水の、味の、キスだ」
「言わなくてもわかってら」
「腐ってない水を探しに行ってくる」
「やめろよ」
「……どうして」
「ここにいろ」
 もう一度、キスをされた。解せないと透は思い、はあと息をついて、腐った水の味がしない当真の舌にせめてもの救いを探した。
 いつまでも、いつまでも、同じ場所にいるような気がする。このまま永遠に、時間が止まるような気がする。三輪にとって三輪隊が新しいふたつめの故郷であるならば透にとってもそうであるはずだった。
「……ねこの森には帰れない」
 ようやく解放されて、いや透が解放する側だったのかもしれない、とにかく唇が離れたとき、透は小さくそう言った。
「なに? ねこ?」
「って、知ってるか、当真さん」
「なんだよ」
「歌だよ」
 ふん、と鼻を鳴らした当真が、「歌えよ」と言った。
「無駄に上手くて腹立つな」
 そう言いながら当真は透の髪を梳いていた。やはりなんだか機嫌が良い。透が腐った水を飲んだからだろうか。数日前に置いたまま飲まなかったということは、飲まずにそこに放置して数日経つ、その間この部屋はクーラーで冷やされずに熱に満ちていたということで、それは、たぶん、当真は外泊をしたのだということを示していた。透がここにやってこなかった数日間、当真もまたここに来なかったのだ。そう考えることは嫉妬や疎外感を与えなかった。むしろそれはやすらかなことのような気がした。透も当真も別の故郷を持っているのだということは。
 まだねこの森に帰れる。
 帰り方を覚えている。そう透は思う。俺には帰る場所はちゃんとある。ここのほかにも。
「変な歌」
「俺の故郷は当真さんだけじゃないってことだ」
「はぁ?」
 当真は首をかしげ、それから笑って、「プロポーズ?」と言った。さっと顔に朱が走るのがわかった。腹立ち紛れにもう一度舌をとらえて吸った。顔を近づけている間は遠目に眺められる心配はない。そのまま裸の体に腕が回される。投げ捨てられたスーツが視界のはしに映る。なにかを決意した顔で両親に対面していた三輪。
 ……透の家が壊れる前透の夢はなんだっただろう。三輪の姉が死ぬ前の三輪の夢は。三輪と出会う前の米屋の。あるいは。あるいは。そう遠く幻視する子供の群れのなかに当真の姿が見つからない。当真さん、あんたは。
「考え事? 余裕だな」
 背筋を撫でられた。意識は拡散し収縮した。それだけ。


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