なあさっきの誰の名前、と先輩は聞いた。なんのことだかわからないふりをして、遼は眠ったふりをしていた。そのときはじめて、自分は無感覚ではないのだと遼は思った。さっきからずっと無感覚でなんのことだかわからないふりをしていたけれど、ほんとうは無感覚ではなかったのだ。そこにいるのは小学校の頃サッカーチームで世話になった先輩で、中学に入ってからはボーダーに入隊したのであまり顔を出せなかったけれどそれでも遼の在籍を認めてくれた先輩で、ずっとお世話になっていた先輩で、だから遼は、そこで起こったことを、ひどいことだとは、思えなかった。
 体がひどく重く、軽い吐き気がした。遼は人を(人間の形をして人間の言葉を喋って意思の疎通ができる存在を便宜上人と呼ぶとして)殺したことがあり、それは遼にとって、苦痛ではなかった。それはただ単に任務で、そして風間が命じたことだったから、それを遼は、つらいとも、くるしいとも、思わなかった。完全な無感覚がそこにあった。
 そしていまはそうではなかった。遼はくるしんでいる自分を自覚していた。
 遼は先輩に、レイプされたのだ、遼はそのときはじめて自覚した。
「なあ、さっきの名前、誰だよ、遼」
 呼ぶ声が聞こえる。聞こえないふりをしている。体が重い。熱があるような気がする。裂傷の熱ばんだ体を、もういちど引き寄せられて、乱雑におしいってくるものがある。痛い、と遼は思い、それをたぶん口にしたと思う。
「起きてんなら答えろよ」
 風間さん、と、もう二度と遼は口にしなかった。

 なんとなくぼんやりと、引け目を感じている。遼は学業成績においてもスポーツにおいてもいつも優秀な成績を残した。十全に満ち足りた家庭環境を持ち、子犬から育てたジャーマンシェパードと散歩をした。歌川遼は十全な存在で、そしてそれゆえに、欠落していた。欠落していることを遼は知っていた。なにもかもをこなすことができても、なにひとつ特別ではなかった。サッカーを選んだのも偶然だった。サッカーでなくてはならない理由はなかった。サッカーは好きだった。ほかのすべてとおなじくらいにひとしく。
 そのことを先輩は知っていたからこれは罰なのかもしれない、そう思い、飛躍した発想だな、と遼は思った。
 さいしょのとき、ぐったりと眠たくなってまどろんでいる遼の体を探る先輩の指先を、払いのけることは、それでもできたはずだった。払い除けて逃げて、電話で助けを呼んで、そうまでしなくとも、ただ逃げるだけでも可能だったはずだった。遼にはそれができたはずだった。遼にはできないことはないのだから、これまでできないことは何もなかったのだから、やろうと思ったことはなんでもできたのだから、遼にはそれができたはずだった。そうして遼は、それをしないで転がってうとうととまどろみながら、たぶん市販の睡眠導入剤だ、ずいぶん効くんだな、と考えていた。指は心地よくはなかった。挿入されて痛かった。とても痛かった。けれど痛いということは単なる独立したひとつの概念に過ぎないような気がした。遼は先輩が遼の体を好きなように扱っているあいだ、風間蒼也のことを考えていた。
 風間蒼也にならこういったことをされてもいいと思って、考えていたわけではなかった。
 ただ遼の人生、おそらくそれはつまらない人生だ、クラスで一番の成績を取っても、サッカー部でもてはやされても、ボーダー隊員になったことすら、遼の人生はとてもとてもつまらない人生だ、それでもそのなかで遼にとってただひとつ、特別な存在は風間蒼也だった。遼の人生に次々に負荷を与え、遼の無感覚をこそ必要とし、遼が人間の形をしたものを殺すことを尊ぶ風間蒼也だけが特別で、それから風間の選んだ隊が特別で、そこでだけ遼は自分の名前が歌川遼であることを思い出す。そして歌川遼とは無感覚な存在なのだということを、そうであることを風間が求めたのだということを、思い出す。
 遼はぼんやりと、自分を犯す男の存在を感じながら、風間さん、と呟いた。助けを呼んだわけではなかった。言いたかったから言っただけだった。

 そのあとも、先輩のことは嫌いにならなかったし、好きになったわけでもなかった(元々嫌いではなかったし、特別好きだったわけでもなかった)。同じ高校に通っている、先輩と昼食をとることが多くなって、頬杖をついて歌川を眺める菊地原に、「彼氏?」と、平坦な声で聞かれた。遼は首をかしげ、困惑し、それから結局、「そういうことになる」と答えた。なにそれ、と菊地原は言った。それから呆れたように、「あいかわらずおまえは馬鹿だね」と言った。なんだかその口調に慈愛すら感じられたのは錯覚だろうと遼は思った。菊地原はいつも遼を馬鹿だと呼ぶのだから、なにも理解できない馬鹿だと呼ぶのだから、錯覚なのだろう。
 先輩は弁当を作ってくれた。作ってくれなくても、母親が用意してくれるのだけれど。先輩は遼があまり喋らなくても、遼の言いたいことを汲んでくれる。良い人なんだな、と遼は思う。昔から親切で、いつも良くしてくれる。そして親切にされると、遼はますます無感覚になった。
 非番の日、先輩は遼と菊地原を連れてファミリーレストランに行った。菊地原がどうしてついてきたのかはわからない。頬杖をついてポテトをつまみながら、菊地原はほとんど喋らなかったし、遼もほとんど喋らなかった。喋っていたのは先輩だけのような気がする。そしてファミリーレストランのトイレで先輩のものを舐めろと言われてそうした。しない理由もなかったので。トイレですることは最近多い。

 今日も遼は先輩の部屋にいて、この男はなにが楽しくて、俺なんかを相手にするんだろうな、そう考えている。遼は最中ほとんど声を漏らさない、かすかに呻くだけで、痛くても痛くなくても、痛くないのは遼が彼のためにしているときだけでされているときはずっと痛いだけで性行為らしい心地よさはまったく齎されないのだけれど、そして体が怠くなって熱を帯びて遼は換装する、換装して本部へ行く、換装してしまえば痛みも怠さも熱っぽさも消えるし本部に来てしまえばあとはもう歌川遼は風間蒼也の部品でしかない、そうだ、歌川遼は、風間蒼也の、部品でしかないのに。
 菊地原の口から告げられたので、いまは先輩も、風間という名前が遼の隊長の名前だと知っている。「そいつが好きなの」そう聞かれた。答えずにいると、いろいろな言葉を投げかけられたのだけれど、べつにもうセックスをするだけで、それ以外ないのだろうし、そのことに風間は関わりがなかったし、関わりがないと思ったから答えなかったし、けれど遼はされている間いまでもやはり、風間のことを考えながらされている。ほかに考えるに足ることがひとつもないので。
 ああそうだ遼はたぶん、退屈している。
 ずっと。
 男の家を辞すると霧雨が降っていた。霧雨は無感覚に似ていると思った。傘をささずに遼は歩き始めた。全身がひどく怠く泥のようで、雨に打たれて溶け落ちてゆく、泥人形が、俺なのだと、そう遼は思った。

 歌川に恋人がいるというのは本当か、と、ある日風間蒼也は菊地原士郎に尋ねる。彼はすこし傷ついている、そのことを、歌川が、彼に告げなかったことで。菊地原士郎は肩をすくめる。
「つまんない男ですよ」菊地原士郎はつぶやくように言う。「歌川と同じくらい、なにもわかってない、つまんない男ですよ、風間さんにはなんにも、関係ない」



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