駿は自分の人生をずっと幸福なものだと思ってきた。近界民に襲われて死ななかったこと、迅悠一に救われたこと、迅悠一に出会ったこと、ボーダーに入ったこと、歴代の天才に数えられるだけの才能を持ち、ボーダーの誇りとして君臨したこと。そこで出会った人々の全て、そこで起こった出来事の全て、全てが駿にとっては好い出来事だったし、だから駿はとても幸福で、そしていまたぶんいちばん、駿は、幸福に生きている。
 こんなに小さい人だったんだな、と、駿は毎日帰ってくるたびに思う。
 迅悠一のことだ。
 駿は大きく育ち、迅の身長を超えてしまった。高校生になって突然ぐんと伸びた。けれどそのことを迅は知らない。迅は駿の背が伸びてゆく過程を見なかった。
 迅はベッドに転がって、シーツにくるまっていた。床に、いつも食べつけている揚菓子の袋が転がっていた。取り落として、そのまま、興味を失ったのだろう。「迅さん」呼ぶと、笑顔が駿のほうに向けられ、けれどその目はどこも見ていない。
 迅が視覚を失ってからのほうが、駿の前に視覚を持つ迅がいた頃より多い、それだけの年月が過ぎていた。
「ただいま、迅さん!」
「おかえり、駿」
 いまでは駿より一回り小さいその体が、昔はとほうもなく大きく立派なものに見えた。もちろんあの頃より痩せて衰えているのだけれど、家にとじこもってばかりいてろくに食事をとらない迅の体はどんどん小さくなっていくような気がするのだけれど、もちろん駿が大きくそだあったこととも関わりがあった。いまでは駿は(換装しなくても)迅を抱き上げることができるし、迅もそれを望んでいるようなふしさえあった。迅は保護されることを望んでいるようなふしがあった。そして、と駿は思う。そしてそのためにきっと駿は迅の手元に引き取られることなく草壁隊で本部で育たなくてはならなかったのだ、それこそが迅の望んだことであり、迅の視た未来だったのだ、と思う。
 たぶん迅はこの未来をずっと視続けていたのだ。駿が迅と出会ったときから、ずっと。
 ベッドの上に駿は転がり、迅の体を抱き寄せて、こつんとひたいを迅におしあてる。そうして優しい声で、「迅さんあのね、今日はね、」そう、その日起こった出来事をひとつひとつ、話してみせる。迅はくすくすと笑い、駿の体を抱き寄せる。駿はいまでは迅より大きくて迅を守ることができて迅を守っていて、迅を自分の部屋に隠していて、迅を自分の部屋に閉じ込めていて、
 迅を、駿は、閉じ込めている。

 迅の視覚はゆっくりと失われていっていたのだと聞いたのはずっとあとになってからだった。もうそれこそ駿と出会う何年も前から迅の視覚は失われ始めていて、ゴーグルはその証左だった。それをかけると視界がクリアになったような「気がする」。だからゴーグルをかけつづけていてけれどそれは結局「気がする」だけにすぎなかったから迅の視覚は、失われたまま取り戻されることはなかった。
 心因性のもので治し方は事実上ない、というのが医者の見解だった。駿は内心そのことを喜んでいる、と同時におびえている、それは、いつか、終わるかもしれない夢を示していたからだった。とにかく「心因性の視覚障害」により迅悠一はゆっくりと視覚を失い、それと同時に未来視の能力も失われたと彼は告げた。
 迅悠一のサイドエフェクトは失われたと、迅悠一は宣言した。
 彼が、もしくは彼の体が、世界を見ないと決めてしまった以上、換装してもその視覚は取り戻されることはなかった。つまり視覚の喪失は、彼の巫としての存在意義と同時に、戦士としての存在意義も失われたことを示していた。迅は玉狛の自室に引きこもり、ほとんど出てくることはなくなった。空閑遊真や三雲修は、すこし元気がないとか、いつもどおりだとか、明るく過ごしているとか、木崎レイジや小南桐絵に叱られているようだとか、そういうことを教えてくれた。駿は会いに行かなかった。十年の間駿は会いに行かなくて、そうして十年が過ぎたあとで、駿はやってきて、「迅さん、オレのものになってよ」と言った。
「待ってたよ」
 あの時も迅はベッドに転がっていて、やっぱり揚菓子が床に落ちていて、指が床を探って揚菓子の袋をとりあげて、それから笑って、駿の声のするほうへその袋を差し出した。駿はどうしてだか泣きたくなった。
「待ってたの。オレを?」
「うん」
「どうして」
「知ってたからだよ、ずっと、知ってたんだ、駿、……ずっと待ってた」
 この男の前で約束などというものは意味をもたないのだと駿は思い出しながら、揚菓子をひとつもらって食べた。懐かしい味がした。それは赦しの味だった。
 それから駿は玉狛から迅を連れ出して、自分の部屋に飼っている。いまでは自分の隊を率いてA級のトップクラスを維持し続け、もっとも優秀な人材のひとりに数えられ、尊敬され親しまれ、十分な収入と地位を得て、そうして駿は完全な生活を手に入れている。
 駿は自宅での生活のほとんどを寝室で過ごす。そこにはいつも迅が転がっている。あたたかな猫のように転がった迅に、駿は手づから食べ物を与える。まるでそうされないと食べることもできないかのように、迅は駿の手から食べ物を口にする。スープやパンをほんの少しだけ食べて、もういらない、と言って笑う。もういらない、腹いっぱいだ、ぼんち揚げを食べすぎたみたいだ、そう言って笑う迅がしかしその嗜好品もろくに食べていないことを駿は知っている。箱の中身はいつまでも減らないままだ。
 たぶんこの男は死ぬことを生きることを選んでここにいる。
 そしてそれに付き合ってやれるたったひとりの相手として選ばれたのが、駿なのだった。
 その部屋から迅は出て行かない。出て行かないよね、と駿は言った。出て行かないよ、と迅は言った。迅が生きていることを皆がわすれたような生活。そうなるように駿も迅も仕向けた。もう迅悠一が死んでいるかのような生活。そうなるようにふたりで仕組んだ。だれもが迅悠一を忘れてしまったような。
「駿」
 ベッドに転がった迅を組み敷いている駿を見上げた迅の目がうつろに笑っている。
「……ほんとうは全部嘘だよ」
 それは睦言にすぎないと聞き流すことのできる状況だった。駿は彼の狡さをいつくしんで笑った。迅悠一は昔から狡い人間だった。
「ほんとうは全部嘘だ」
「聞こえないよ、迅さん」
 キスをした。口を塞いでしまえばいい。無駄口をきく口は閉じてしまえばいい。なにも感じなくていい。オレだけがここにいればそれで十分でそれでいい。オレたちがここにいてそれでいい。
「なにも聞こえない」
 ――おまえにだけ言っておくけど緑川、迅さんにおれは口止めされてる、迅さんが嘘をついてることを、だれにも言うなって。おれには迅さんが嘘をついていることがわかるけど、わかっても、黙っていろって。おれはそれに乗ることにした。だからおまえにしか言わないけど緑川、あの人はほんとうは――
「駿はいい子だな」
 解放されたくちびるがやわらかな音を紡ぐ。駿は声を立てず笑う。
 駿は自分の人生を幸福なものだと思っている。迅悠一はここにいる。迅悠一はいま駿だけのためのものとしてそこにあり、そしてほかのだれにも、もう、渡す気はない。



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