遠くへ行こう、と陽太郎が言ったのははじめてではなかった。けれどレイジが頷いて、そうだな、遠くへ行こう、と言ったのは初めてだった。陽太郎はぽかんとして、ほんとうか、と尋ねた。ほんとうだ、とレイジは答えた。
 昼下がりだった。陽太郎と雷神丸を助手席に乗せたジープが走りはじめ、そしていつまでも走っていった。陽太郎ははじめはしゃぎ、雷神丸とレイジにひっきりなしに話しかけ、レイジが用意していたおやつを食べ、すこし気分が悪くなり、そしてことんと眠った。眠って、起きたときだった。くらい道の前に、ふらりと出てきた影があった。ブレーキを踏んだ。急ブレーキを踏んで、なんだい危ない、と雷神丸は言い、陽太郎の服の裾をきゅっと踏みつけた。
 迅悠一がそこにいて、ふらりと、くらい道路のまんなかに立って、まっすぐにこちらを見ていた。いつもどおりへらへらと笑っていた。レイジが吐息をついた。深く吐息をついて、そしてとまった車からおりて、迅のほうへ向かった。
「待ってたよ、レイジさん」
「……未来視か。どこからだ」
「どこからが予定通りかって?」
「そう聞いている」
「まあ怒るなよ。というより、怒られる脈絡がないだろう」
「怒っていない」
 迅は肩をすくめた。「べつにあんたを止めようってわけじゃない。どこでも行けばいい。俺たちのかわいい子供を攫って、かわいい後輩たちに心配をかけて、ボスの信頼を裏切って、どこへでもとんずらするといい、木崎レイジ」
 がっ、と音、それからどさりと倒れる影があった。ライトに照らされていない外側にふっ飛ばされた迅が、いてて、と言いながら起き上がっている、その顔が、光の向こう側にあって、陽太郎には見えなかった。
「本気で殴れよ」
「俺が本気で殴ったらおまえは死ぬ」
「殺せばいいんじゃないか?」
「殺す意味がない」
「殺す意味がある相手なら殺すのか」
「……命令があればな」
「あんたの意思は?」
 レイジの拳が震えていた。陽太郎は目を丸くしてその拳をみつめていた。
「あんたが殺したいのは本当は誰だ、レイジさん」
「……もういい。帰るぞ」
 ながい沈黙のあと、レイジはそう言った。陽太郎は、いやだと言い出すことができなかった。陽太郎が言い出した旅行なのだから、陽太郎に、いやだ帰らないと言う権利があったはずなのに、陽太郎はそれを言わなかった。どうして喧嘩をしているのだろうと思った。迅はただ、逃げろと言った、だけだったのに。
 それは陽太郎が願っていることと、同じことだったのに。
 犬も食わないね、と雷神丸が言った。犬なんかいない、と陽太郎は答えた。雷神丸は黙って笑った。陽太郎は目をこすった。眠かった。全部が夢のような気がした。迅がジープのうしろにどさりと乗り込む音が聞こえた。ふたりはそれきりなにも言わなかったので、陽太郎もなにも言わず、あしもとにうずくまった雷神丸の前足を手に取って、撫でていた。

 本当に殺したいのは誰?
 ときどき、林藤匠が自分の父親に似ているような気がする。無論それは嘘だ。もし林藤匠がレイジの父親に似ていたとしたら、レイジは彼に付き従うことも彼を慕うこともなかっただろう。レイジは自分の父親が嫌いだったし、父親の前でなんの抵抗もできない自分はもっと嫌いだった。だから強くなることにした。いまではレイジはボーダー最強と呼ばれる部隊を率い、レイジの想像の範囲内で行われるすべてのことを行っている。まるで小さな子供が思い描くスーパーヒーローを具現化したような人間に、レイジは、なろうとしている。そういう自覚がある。
「おまえに指摘されるまでもなく自覚はしている」
 レイジ自身が殴った頬に手当をしてやりながら、レイジはぽつりと呟く。
「男前にしてもらいたくて皮肉を言っただけだよ」
 迅は笑ってはぐらかした。答えなんていらないのだというように笑って、だからレイジは黙ることができる。本当のことなんて要らないのだと笑って、それから迅は深夜のリビングで、レイジの襟首を引き寄せてキスをした。なにもかもごまかすように深いキスをして、それで十分だろうというように舌がレイジのなかを探るものだから、レイジもそれに答えてやった。うまく答えることができる程度にそれに習熟していた。この男と関係を持つようになってから数年過ぎていた。
 レイジさん、ボスのことが好きでしょう、そう迅が言ったのが、四年前だった。まだ迅が中学生だった頃のことだ。
「おれはねレイジさん、このあいだキスをしてさ」
「……なんだ唐突に」
「いいから聞いてよ。それで突然気づいたんだよ。セックスしたくない。絶対に。一生」
「どうしてだ」
「レイジさんは優しいな、興味がないのにそこで聞くんだから。うん、それはね、おれがそいつのことを好きだからだと思う。だからさレイジさん、おれとセックスしようよ」
「脈絡がわからない」
「一番好きな人となんてするべきじゃない。間違ってる。気持ちが悪い。そう思わない? レイジさんはボスとしたい? 気持ちが悪くない?」
「気持ちが悪い。が、それは俺が林藤さんを好きだからじゃない。考えたことがないことを突然想像させられて、気分が悪い」
「じゃあおれとは?」
 邪気がないそぶりで迅は言った。しかしそこには確実に刺が埋もれていたし、そのことに気付かなかったわけではなかった。「ねえレイジさん、おれとセックスしようよ。レイジさんとしたいんだ」そしてレイジはスーパーヒーローになりたかった。いつも。いつでも。
 近づいてくる迅に抵抗しなかった。あのときも。襟首をつかまれて引き寄せられて抵抗しなかった。キスをされて抵抗しなかった。キスのやりかたを知らなかった。レイジは高校生で、強くなること、完璧になることばかりを考えていた。そうやってずるずると始まって四年。
 四年か。
「……あのときも言ったが、俺は林藤さんを好きなわけじゃない」
 唇が離れた。レイジは呟いた。うん、と迅はいい、レイジの背中をぽんと叩いた。
「ただ」
 ただ父親を思い出す。そうして小さな陽太郎が自分自身であるような気がする。父親と名前がついているから林藤に対して激しい感情が動くのかもしれない。林藤匠はたしかに陽太郎を愛しているのに、林藤よりもレイジになついてレイジレイジと慕ってくる小さな子供が、遠い日のレイジ自身のように思えることがある。そして陽太郎がレイジであるならば。
 死ぬべきなのは誰?
「……混乱している。混乱する。ここがあまりにも、家庭のようだから」
「それはあんたのせいだよ、レイジさん」
「俺の」
「あんたがこの家の母さんだ。そうじゃないか」
「……母親になった覚えはないが」
「おれにはそう見える」
 はは、と迅は笑った。「そう。……自覚なかったの。そう。あんたはまるで母さんみたいに思える。おれはさっき本気で言ったよ。あんたが陽太郎をつれて逃げればいいと、本気で思っていた。おれたちを裏切ってこんな、戦争と殺人と侵略と謀略にまみれた世界から、あんたと陽太郎は脱出するべきなんだと思った。そうしておれに、あんたを憎む理由を」
 迅の声がそこで一瞬震えたように思えた。けれどそれは錯覚だったかもしれない。
「あんたを愛さないでいられる理由を、与えて欲しかった」
 玉狛支部のリビングルームで、迅はレイジの背に腕を回していた。レイジは迅の背に腕を回した。そっと抱いた。卵を抱くようにそっと迅を抱いて、レイジは、ここにいるのもまた、小さな子供なのかもしれないと思った。レイジはヒーローになりたい子供でしかなかった。レイジにとってレイジは常に、ヒーローになりたい子供でしかなかった。そうして悪役をぶちのめす子供でしかなかった。守りたいものを守るヒーローに変身したいだけの子供でしかなかった。腕のなかにいる特別な才能を持つ、いまはもう青年に成長した男もまた、けれどやはり子供でしかないような声で、いまたしかに、レイジに、愛している、と言った。
 彼らの家庭はもはやここにしかないから迅悠一はレイジを愛するしかないと、たしかにそう言ったのだと、レイジは思った。
「俺はどこにもいかない」
「逃げようとしたくせに」
「もう二度とどこにもいかない。ここにいる。ここが俺の家だ」
 レイジは言った。
「そしてここがおまえの家だ。迅」
 レイジはそう言った。
 そうだね、と迅は言った。
「そうだね。ここがおれの家だ」

 迅悠一はセックスが嫌いだった。
 人間はいつか必ず死ぬのに、人間たちがセックスをして愛し合って子供が生まれたり生まれなかったりすることが、こわくてこわくてそれから気持ち悪くて仕方がなかった時期があって、その結果として迅の初恋は肉体交渉まで結実しなかった。だからべつに好きではない人でそれをやろうと思った。人間に対する抵抗のようにそれをやろうと思った。人間はだっていつか死ぬのにばかみたいだ。だからセックスをすることは復讐だった、そのはずだった。
 ゆるゆると溺れてゆく。海に沈むように。
 気が付けば、周囲の人々を、妙に暖かな目で見つめている迅悠一がいた。皆がなにかしらの結実として生まれてきたことを、いつのまにか受け入れるようになっていた。かつて恋をした相手が、新しい恋をしたと話してきても、もう悠一はそれを気持ち悪いとは感じなかった。
 いいの、と悠一は尋ねた。聞くな、と木崎は答えた。
 本当に、木崎が遠くに逃げてしまえば、完璧だと思った。木崎が戦いを知らぬ世界に逃げて幸福な親子のように陽太郎とふたり暮らしてゆく未来を守ることは、悠一にはちゃんと、できたはずだった。だから必死で先回りをする必要なんかなかったはずだった。タクシーに大枚をはたいて必死で先回りをして夜の道で待ち伏せをして、分岐する未来をじっと見据えながら、自分がなにを選ぼうとしているのかわからなかった。
 木崎が深く息をつく。レイジさん、と悠一は呼ぶ。悠一のものをおさめたレイジの腹を撫でる。なあレイジさん、ごめんな。未来をひとつ潰して、あんたの人生に出口をなくして、逃げ出せなくして、ごめんなさい。あんたがいつか誰かを殺すかもしれない未来の分岐から逃がしてやれなくて、ごめんなさい。
 あんたを愛してしまって、ごめんなさい。
 なにを言っているんだという目つきで木崎が悠一を見上げた。悠一は笑い、腰をひいてなかを抉った。はく、と口が開いて、音は漏れず、ただ誰かの名前を呼んだ。それが自分の名前だと、いま悠一は、確信することができる。笑って悠一はずぶずぶとそのなかに溺れてゆく。
 迅悠一はセックスが嫌いだった。木崎レイジを憎むことができたらいいと思った。人はいつか死ぬのだと思っていた。ずっとそう思っていた。人はいつか死ぬ、それはいまでも変わらない事実で、それなのにどうして、笑って幸福な気持ちで、抱いているいまそこにいる肉体の名前を、呼ぶことができるのだろう。
 大丈夫、ここが、おれの家だ。



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