「やっぱ普通校行けばよかった」
 荒船哲次がぐったりとそう言うので、「受験つらいんですか」と尋ねた。
「受験なんかたいしたことねーよどうせ三門大一本なんだから、ボーダーやめねー限りあそこ一本しか受けらんねーんだから、べつにいいよそれは」
「じゃあなにかご不満が」
「おまえだよ!!」
 足蹴にされた。なにが不満なのかさっぱりわからないという気持ちを前面に押し出そうと透は努力した。しかし成功したような気はしなかった。透は感情表現が下手くそだと巷で評判だった。仲良くしている同級生のオペレーター女子たちにも人形のようで面白いと言われている。
「……奈良坂おまえ友達と、なんの話してる?」
「シャンプーとかですね」
「は」
「俺は美容院で勧められたシャンプーを使っているんですけど、もうノンシリコンは古いというのが定説だそうで……」
「その話はいい」
「そうですか」
「……おまえ友達と言語通じてんの?」
「通じていると思いますよ、日本語なので」
「つーかおまえ女子とばっかつるんでるけど、尚更」
「通じていると思いますよ」
「……あー、もう、いい、縄を、解け」
 ぐったりと荒船は体操用マットレスに身を投げ出したままで言い、「やっぱり篤と同じ学校行けばよかった、こんな宇宙人のいない学校に……」と呟いた。宇宙人とは言い得て妙だ、と透は思った。透は縄跳びの縄で縛った荒船哲次の腕を解いてやり、制服のスラックスを持ち上げてやろうとしたところで手を振り払われた。触んな、と言った声はあいかわらず、投げやりなままだった。
「……おい奈良坂」
「はい」
「一発殴らせろ」
 そのようにされた。

「といったわけで東さんから数えて年上の狙撃手をひととおり食ってきた」
 重々しい口調で透がそう告げると、綾辻遥はぐっと息をのんでかろうじて笑みを整え、三上歌歩は唖然と口を開いた。宇佐美栞だけが盛大に笑い飛ばしてくれた。げらげらと宇佐美は笑い、ミートボールを取り落としそうになり、呼吸を整えてようやく、「すーっ、ごー、い!!」と言った。
「すごいだろう」
「ど、どうして? 奈良坂くん、あの、当真さんと」
「それだ」
「……奈良坂くん、箸で人を指すのはやめましょう」
「そうだな、すまない綾辻」
 箸は弁当箱に戻った。最近透は寮の給湯室を使って弁当を自作している。奈良坂透はどんどん完全な存在となってゆく。そうなるべきであると透が判断したからなのだが、しかしそれは笑い事であるとも自覚していた。笑うがいい、世界の全ては所詮笑い事でしかないのだ。奈良坂透が完璧であろうと完璧でなかろうと、どうせ透は当真勇になることはできない。
 できないからといってなにが悪いというわけでもなかったが。
「当真さんが俺に、たまには浮気をしてもいいんだぞ、と言った」
 再び三上は口を開いて、それから、困ったような顔で、なにかを言おうとし、そうしてもういちど、口を閉ざした。うまい言葉が思いつかなかったらしかった。その一連の流れを綾辻はなにげないようすでしかしたしかに見つめていることに透は気づいていた。気づいていたというか、知っていた。
 知っているものだけがわかるほんのひとかけらこわばった微笑みを浮かべて、綾辻は「奈良坂くん、ほんとうに、一途ね」と言った。三上はきょとんと目を丸くした。透はこのことにも気づいている、透が突拍子もないことを言うと、三上はペースを崩されてにこにこ微笑んでみんなにやさしくする余裕がなくなってのべつぽかんとしているから、綾辻はほんのすこし、ほんの少しだけ機嫌が良く、そして同じだけほんの少しだけ、機嫌が悪い。宇佐美がそこにある微妙な空気に気づいているのかどうかは知らない。宇佐美はいつも上機嫌で、勉強が出来すぎるからつまらないという理由でたいていやってこないで、けれど成績は常に学年一位をキープしている。逆当真さん、と透はひそかに思う。
 ぽかんと口をあけていた三上はあわてたように口を閉ざし、にこっと笑った。誰が見ても癒されるような、やさしい笑み、みんなが愛する三上歌歩の微笑みを浮かべて、「そっか、それが奈良坂くんの愛情表現なんだね」と言った。

 これは奈良坂透の恋愛の物語ではない。
「おまえさあ」言いかけた当真勇がにやにやと笑って「ま、いいや」と言い、荒船哲次になにか談判をされたのだろうということくらいはわかっていたが当真がそれを語らなかったのだからそれを聞き出してやる必要はなく、透は当真の体を指先でなぞりながら、むつみごととして、クラスメイトの話をしている。
「つまりそれは地獄だ」
「おまえさ荒船も言ってたけどよ」
「先輩がなんだって?」
「日本語で喋れ宇宙人」
「通じているだろう」
「おまえの言ってることの意味がわかったことなんてねーよ」
 ふふん、と透は笑った。透は自分に自信があったから、当真との関係にも自信があったし、当真がそう言ってはいても透と意思の疎通がきちんと行われていると理解しているということも、ちゃんと知っていた。当真の胸に指先を這わせる。万事さぼりぐせのある当真の体は、存外に鍛えられて美しい。
「綾辻遥は自分が完璧であることを求めている。そうしながら三上歌歩に救われたいと願っている。しかし三上歌歩もまただれかに救われたいと願っている。これが地獄でなくてなんだ、あんたにだってわかるだろう」
「……救い合おう、ってのは?」
「わかってるんじゃないか」
「うるせーよ黙れあとくすぐったい」
「くすぐったいんじゃないだろう」
「じゃあなんだ?」
「言わせるな」
 吐息混じりの笑みがこぼれた。それから先はぴらぴらと踊るような感覚だけの世界であってそこでは、荒船哲次や東春秋もぴらぴらとした快楽を生み出すアクセサリーでしかなくなっていた。悪いけど。

 三上歌歩の面倒を見るようにといったのもそもそもが当真だった。
 三上は風間隊のオペレーターである。そして風間隊は冬島隊(と太刀川隊)とともに遠征に出かけていった。そして遠征先で、三上がいつもにこにこ笑って隊員のフォローをしているのを見て、冬島隊長が「無理すんなよ」と言ったのだそうだ。
 あの人はほら万事甘やかすのがうまいから、と、得意げに当真は言った。そしてもちろん当真もその尻馬に載って、三上を存分に甘やかしたのだし、遠征が終わってからも透に向かって「あいつすぐ無理するから」と言ったのだった。
 それを透は知らなかった。一年生から同じクラスだったのに。
 しっかりと観察していると、なるほどたしかに彼女はいつもにこにこ笑っていていつもだれかのサポートをしていて悩んでいる人間くるしんでいる人間にそっと寄り添っていて面倒な仕事もすすんで引き受けていてそのくせ家では弟の世話なんかもしているという話で、なにごとにつけてもそんなありさまなのだった。それを「無理」と呼ぶのかどうか、透には判断ができなかったが、よくよく見つめていれば三上がときどき、はあ、と息をつくところを目撃することもできた。当真は正鵠をついているのだろうと思った。べつに透は当真のいうことをなにもかも鵜呑みにするわけではないのだ、きちんといつも、確認している。
「三上」
 ひとりで窓のそとを眺めながらはあ、と息をついた三上に、透は声をかけた。三上はびくりと身を震わせ、それからゆっくりと振り返った。透は三上に向かってブリックパックのココアを放った。バンホーテンだ。
「あ、……ありがとう」
「三上」
「なに?」
「無理をしているときは言え」
「え?」
 三上は首をかしげ、それから困ったように笑って、「……ほんとに当真さんのこと好きなんだね」と言った。
「当真さん、親切だったよ。学校なんかさぼれ! 弟なんかほっとけ! とか言われちゃった」
「あの人はいつも乱雑なことを言うんだ、気にしなくていい」
「でも、うれしかったな」
「それはよかったな」
「奈良坂くんも、ありがとう」
「なにもしていないが」
「……あのねえ、聞いてくれる? お話」
 透は頷いた。バンホーテンココアを一口のんで、三上は言った。
「みんなに嫌われたくないだけなんじゃないかと思うの。だれかが困ったり、だれかが傷ついたりするのがいや、わたしがいて、それがなくなるなら、いいって思う。いいなって思うんだけど、みんなに嫌われたくないだけなのかもしれないなって思う。頑張ってないわたし、みんなにやさしくできないわたしなんて、意味ないんじゃないかな、って」
「三上」
「うん」
「これは俺の私見だが」
「うん」
「おまえは自分がいないと世界が成り立たないと思いこんでいるんじゃないかと、俺は思っていた」
 三上は目を丸くし、それから、目をしばたたかせ、それから、小さく笑って、「……そうかも」と言った。

 綾辻遥の感情に気づいたのはもっとあとになってからだ。
 事の発端は、綾辻と三上と宇佐美とケーキバイキングに行ったことだった。チョコレートファウンテンを眺めながら、透は性欲の昂ぶりを感じた。その横溢するチョコレートはあまりにも性欲に似ていた。透は性欲の昂ぶりを感じ、当真のことを考えながら席に戻り、ケーキを並べて揃った友人たちに向かって、おもむろに、「女子もオナニーをするのか」と尋ねた。
 綾辻はむせてせきこみ、三上はケーキを取り落とし、宇佐美はあっけらかんと「あたしはあんまりしない!」と答えた。
 綾辻と三上はそのとき返答を濁したし、返答を濁されたことに関しては透はなにも感じなかったのだが、綾辻はそのとき返答を濁したことがずっと引っかかっていたらしかった。数日後、綾辻に、「今日いっしょに帰りましょう」と声をかけられた。「いっしょに帰りましょう、ふたりで」
 その日は宇佐美は例によって休んでいたし、三上は特別任務で早引けしていた。そして綾辻が委員会やボーダー広報の仕事を抱えていない数少ない日であり各々の所属する隊が非番だった。その日を綾辻はきちんと計算していたのだと、声をかけられてから透は理解した。いつも綾辻遥は周到だった。
 彼ら四人はどうにも似通ったところを抱えていて、それは彼らがあまりにも完璧すぎるということだった。綾辻遥はおおよそ想像できる完璧を忠実に体現していた。広報部隊の隊員であり、生徒会の副会長であり、美しく、聡明で、知的だった。完璧な綾辻遥はしかし、なにかを恐れているような完璧さだ、と透は思っていた。宇佐美栞の天衣無縫の完璧とはそれはまるで違っていた。そして透の、宇宙人と評される透の、これまた当真の評した「ゴリ押しの満点野郎」とも、ずいぶん、違っていた。
 綾辻はその日、ファミリーレストランの片隅の席で、女子のオナニーについてずいぶん丁寧に説明をしてくれた。あまり男とかわらないんだな、といったことはおぼえている。それからどうしてそんな話になったのかはよく覚えていない、そうだ、そうだった、「じゃあ俺が当真さんを考えてするように、おまえも好きな相手のことを考えるのか」と言ったのだ。
「……そう」
「誰だ?」
「それは……」
「いや、きく必要はなかったな」
 そう言ったのに、ちゃんとそう言ったのに、妙に長い沈黙のあと綾辻は、とてもとても小さな声で、「……三上さん」と答えた。べつに答える必要はないと、言ったのに。
 そこからは堰を切ったように綾辻は喋った。三上が好きだということ、だれかに甘えたいということ、だれにも甘えられないということ、完璧でいないと嫌われるような気がするということ、自分はつまらない人間なのだということ、そのことをだれにも知られてはならないのだということ、三上は甘えさせてくれることを知っているということ、三上がそれに疲れていると知っているということ、わたしだけは三上さんに甘えてはならないのだということ、だから三上さんを好きだなんて言えないのだということ、……いつもの綾辻のすずやかな弁とは全く違う話題が延々とループする長い話だった。
「ごめんね奈良坂くん、長い話しちゃって」
「たいへんな話をするぞ綾辻」
「はい」
「おまえは三上と同じことを言っている」
 綾辻は、三上とまったく同じ顔で、ぽかんと口をあけた。
「だからおまえにも同じことを言うが、綾辻」
 そう言いながら、これはまったく同じことではないかもしれないな、と透は思った。こういう言い方ではなかったような気はした。しかしまあ似たようなことだった。
「おまえがいなくても世界は回るし、三上がいなくても世界は回る。世界はそれでも成り立っている」
「……知ってます、そんなこと」
「だからおまえがどう動こうが動いたぶんだけ世界は変わる」
 綾辻は目を丸くし、それから困ったように笑って、「だって奈良坂くんは、やりたいことはなんでもできる、力があるから」と言った。
「奈良坂くんにはわからないわ」

 そう言われたことを、「恨んでたんだろ」と当真は笑いながら言った。そう言われればそうなのかもしれない。透の感情は透にとってより当真にとってのほうが自明であるようだった。
 夕方の教室だ。三上を呼び出してそこに待たせてあった。三上はたぶん今日の献立のことなどを考えながら、そこでテキストを開いて予習をしていた。綾辻が委員会を終えるまで透は待ち伏せしていた。そうして教室に連れてきた。三上ひとりしかいない教室で綾辻は立ちすくんだ。透はずかずかと教室に入り、あ、奈良坂くん、と言いかける三上を遮って、おおきな声をあげた。
「三上!」
 がたん、と音を立てて三上は立ち上がり、直立不動になった。
「綾辻は三上を好きだ!」
 短い、沈黙が、あった。
 話すたびに当真が爆笑する箇所なのだが(そしてその箇所を聞きたいがために当真はそれから何度もその話を透に語らせることになるのだが)、透は次の瞬間、後ろから突き飛ばされてふらついたところを蹴られた。蹴られた。誰にかといえば、綾辻遥以外だれもなかった。蹴られた透は倒れ込んで振り返り、手を振りかざした綾辻を見つけた。手を振りかざした綾辻は顔を真っ赤にして、手をぶるぶると震わせて、それから、ぼたっ、と、涙をこぼした。
「……遥」
 声がした。三上の声だった。三上の、やさしい、声だった。ごめん、なさい、と言いながら、そこにくずおれた綾辻は、三上の胸に顔をうずめて泣いていた。ごめんなさい、ごめんなさい、繰り返しながら、泣いていた。
「わたしだけは三上さんに、甘えないようにしようと、思ってたのに……!」
「……ありがとう」
 三上の声はとても優しかった。とてもやさしくてだからこそ、綾辻にとってはとても絶望的で地獄だろうと透は思った。
「三上、さんに、わたしずっと、ゆるして、もらいたかった、のは、三上さんに、ひどいことだと思ってて」
「うん」
「ひどいことしてごめんなさい」
「うん」
「甘やかさなくていいよ」
「甘やかしてごめんね」
「……わたしを好きになって」
 三上は笑って言った。「遥を好きだよ」
 ……地獄にかわりはないんじゃないのか、と当真はコメントした。あんたは馬鹿か、と透は答えた。
 そんなの当たり前だろう。恋愛なんて地獄の沙汰だ。
 そこには神は存在しない。

「女子とはその後どうよ」
「恋愛の話をしますね」
「おまえの、恋愛の、話」
「荒船先輩、俺は皮肉があまり通じない体質なんです」
「わかってんじゃねえかよ!」
「浮気は楽しいんですよ」
「俺はあんまり楽しくねえよ」
「でも先輩が一番手軽なので」
「はやく卒業したい」
「俺は先輩が卒業されるととても寂しいです」
「ああそう」荒船哲次は縛られていた腕をゆっくり回し、おもむろに言った。「じゃあな奈良坂」
「はい」
「殴るぞ」

 というわけで奈良坂透が二回殴られた話である。
 そういうことでいいんじゃないか。



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