一緒に暮らしましょう、と言ったとき、まだ恋人でもなんでもなかった。枝豆に塩がよくしみるように、さやの上下をぱちんぱちんと切りながら、なにげないふりで言ったとき、京介は内心ひどくどきどきしていた。本気にとってもらえないだろうと思っていた。
「誕生日プレゼントはレイジさんがいいです。ふたりで一緒に暮らしましょう」
 ほとんどプロポーズのようなセリフで、その実プロポーズのつもりで、けれどそのとき京介と木崎レイジの間には、師弟関係以外のなにもなかった。「玉狛を出て、一緒に暮らしましょう」そんな言い方をするつもりはないのに、まるで懇願するような声が出た。
 青菜を茹でていたレイジが、振り返ってじっと京介を見ていた。京介は内心の心音を押し隠しながらじっと、レイジの答えを待った。
「いいよ」
 レイジはそう言った。京介は耳を疑った。
「俺をおまえにやろう。一緒に暮らそう」
 あまりにもあっさりとレイジはそういった。京介は顔を上げた。喜んでいいのかわからなかった。あまりにもあっさりとそれは与えられ、京介はなぜか、腹を立てるべきだという気がした。レイジさんそんなのってないと、言うべきのような気がした。言わなかった。
 大学に進学する余裕はなかった。金の無駄だと思った。京介はできるだけ金になる種類のアルバイトを続け、日々を必死で過ごすことに疲れ果てていた。玉狛にやってきて皆の顔を見て、ことにレイジの顔を見て、それだけが唯一救いのような気がしていた。レイジが特別なのだと気づくまでに時間はかからなかった。レイジが京介の特別だった。レイジのそばにいられたらそれでいいと思った。いつからだろう、それは、レイジのそばにいなくては自分は遠からず死んでしまうという確信に変わった。疲れていた。ただレイジのそばで眠りたいと思った。そうして京介は突然気づいた。おれは家族を捨てることができる。
 おれが家族のために必死で働いて疲れ果てて死にたくなっている状況は間違っている。おれは家族を捨てることができる。
 ボーダー隊員は、放棄地帯の家を安く買い上げることができる。あれほど必死で働いたのに貯金は全くなく、京介は借金をした。ボーダー隊員で固定給をもらっているクラスだと言えば簡単に借金ができた。林藤支部長に言えば貸してもらえたとは思うがそれをしたくなかった。迅にも頼りたくなかった。だれにも借りたくなかったので銀行に行って借金をし、そうして京介は家を買い、買ってからはじめて、レイジに、一緒に暮らそうと言った。おれが家族を捨てる事ができるように、あなたも玉狛を捨てることができる。
 いいよとレイジは言った。あまりにも簡単に、京介はレイジを手に入れた。
 夢なのだと思った。こんなにうまくいくはずがないと。けれどもう簡単に泣く年齢ではなくなっていた陽太郎が泣きながら、「とりまるとふたりで玉狛に住めばいい」と言ったときレイジは「もう決めたんだ」と答えた。あんなにも可愛がっていた陽太郎に縋られて泣かれても、もう決めたんだとしか言わなかった。そのときはじめて京介は、はげしい優越感を覚えた。この人はおれを選んだ。この人はおれを選んでここにいて、おれのために生きようとしている、全てをふりすてて!
 そうして小さな家に京介とレイジは住んだ。
 大きなベッドでふたりで眠ることも、レイジの腕をつかんで京介が眠りたがることも、夜に目覚めた京介のためにレイジが水を京介に与えることも、全てが許されていた。なにもかも全てが京介のためにあった。レイジは料理を作りすぎた。これまで大量の料理を作っていたのだから仕方のないことだと思った。いっしょうけんめいたくさん食べた。
 レイジが玉狛支部に、余った料理を持ち込むようになるまで、時間はかからなかった。
 林藤匠は、おまえなにやってんの、バラ色の新婚生活どうなってんだようちに構ってる場合か、と笑いながら言った。結婚してないです、とレイジは答えた。ずしりと腹に重いものをくらった感覚があった。京介はあいかわらず家族に仕送りをしていた。弟妹の学費を払わなくてはならないので、彼女たちを捨てることが、京介には、できなかったので。借金を払い、生活費を払い、なにも残らなかった。ただレイジだけがそこにいた。
 レイジさん、と京介は呼ぶ。ああ、とレイジは答える。京介はいつでもレイジのそばで暮らしている。レイジの手をとってしっかりと手を握る。レイジは抵抗しない。彼らはいまでも当然玉狛第一で、玉狛支部に属している、レイジは玉狛支部に属している、レイジは作りすぎた料理を支部に持ち込むことを、やめられないし、いまではちょくちょく支部で夕食を作ってからその残りを持ち帰って京介に与えている。それでもよかった。それでもよかった。それでもよかったふたりでいられるのなら、レイジが京介のものだった。
 レイジは京介のものだった。
 朝起きたら立ちくらみがした。ベッドから起き上がることができなかった。バイト先に連絡を入れたのはレイジだった。寝ていろと言って、レイジはそこにそのままとどまっていた。どこにも行かずに、そこにとどまっていた。
「なにか食べるか」
 そう尋ねられた。「なんでもいいです。レイジさんがくれるんなら」そう答えた。本心だった。なんでもいい。あなたがくれるものならなんでもいいんだ。あなたがくれるものだけが俺にとって唯一絶対だったからそれでいいんだ。レイジさん、と京介は呼んだ。こわくて、かなしくて、つらかった。
「レイジさん。レイジさんが欲しいです。もっとたくさん」
 レイジはじっと京介をみつめて、それから、そっと京介の頭を撫でた。
「欲深だな」
「だってほかになにもないから。おれには」
「そんなことはない」
「全部なくなってしまうんです」
 どれだけ働いても全部消え失せてしまう。レイジが作った料理がどこかに消滅してしまうみたいに。おれたちは、と京介は思った。おれたちはよく似ている。だれかのために生きることしかできない。「レイジさん、そうですよね」京介は言った。「おれたちはよく、似てるんだ、だからあなたみたいになったら、……違う、あなたを、超えることができたら」
 あなたを救うことができると思ったのに。
 そこに立ち尽くしたままのレイジが小さな声で呟いた。
「何かが新しくなると思っていた」
 おだやかな、そして感情のこもらない、いつもどおりのレイジの声だった。
「おまえとふたりで生きれば俺はなにかが変わると思っていた」
「おれもそう、思っていました」
 かなしかった。京介の人生はそこにある。レイジの人生もそこにある。たったそれだけ。ふたりきりで生きていくことなんてできなかった。レイジの人生はそこにある。
 そしてそれは京介ひとりのものでは、けっして、ありはしないのだった。
「りんごをすりおろしてやろう」
 そうレイジは言った。そうして離れていこうとした。京介は手を伸ばし、レイジの腕を掴んだ。レイジは抵抗をしなかった。引き寄せられてかがみ込んだレイジに向かってくらくらと揺れる身を起こした。はじめてのキスは涙の味がした。泣いたりなどしたくなかった。自分とレイジがそこにいること、そこに存在していること、なにひとつ捨てられず、むしろどんどん状況が悪化していくこと、そんなことは忘れてしまうべきなのだった。レイジを愛しているのだから。
「あなたを愛しているんです」
 レイジを愛しているのだから!
「知ってるよ」
 レイジはそう答えた。そうして京介の体を抱き寄せた。ぐらぐらと揺れて安定しない京介の体に強度を与える腕だった。安定させて、迷うなと言う腕だった。迷うな強くなれ戦えとあなたは言う。けれどそれはいったい誰のための何なのだろう。おれたちは強くなり迷わなくなり戦っていったいどこへ向かうのだろう。なにひとつ残らないというのに。
 レイジさん、と京介は呼んだ。それでもレイジはたったひとり京介のためにだけ、いまここにいる、いまここにいることを、選んで、京介を選んで、ここにいる。一緒に暮らしましょうと京介は言った。
 いいよとレイジは答えた。
 すりおろしたりんごを食べた。夕食についての話をした。ふたりで映画を見た。不思議なくらい共通の人間関係については言及しなかった。そうしてときどきキスをした。
 恋人同士みたいに。



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