世界を変えよう、と三輪秀次が言った。
 同じ中学校の同じクラスだった。三輪秀次が姉をなくし、ボーダーに入隊したことを、透は知っていた。会話を交わしたことはなかった。三輪秀次は特別な人間のように見えた。目が、ほかの人間とちがうかたちをしているのだった。だから透は三輪秀次がこわかった。……いまでもそうだ、透はいまでも、三輪秀次を怖いと思っている。
「だろ」と米屋は言った。
 透は口をいちどひらいて閉じ、コメントをしないまま、眉をひそめた。ははっ、と声を立てて米屋は笑い、「秀次はたぶん知らないよ」と言った。「あいつはほら、なんていうの、こう……」両手を目のまえに立てて、視野を狭めて見せる。透は小さく息をつき、それを言葉にしてやった。
「近視眼」
「っていうの? 見えてねーじゃん、頭いいのにさ」
「おまえはよくものを見てるな、三輪が信頼するのも判る」
「信頼ねえ……」
 その笑みにはどこか苦味が混ざっていた。その苦味の意味を透は知っているような気もしているし、知らない気もしている。
 古寺章平を引き入れたのは透だった。だから古寺は最初、奈良坂にくっついて、不安そうな顔をしていた。いつのまにか三輪に臆さず話しかけるようになっていた古寺に内心舌を巻いた。古寺には転生の無邪気があった。それから好奇心が。どちらも透にはかけているものだった。透は自身の怯えに気づいていた。
 そうして月見が配属され、三輪隊は完成品となった。
 これはあれに似ているな、と思い、そのまま口にした。「桃太郎」
 ぶ、と米屋は吹き出した。
 この男はけっして頭が悪くはないのだ、そう透は思う。
 男子寮の給湯室にふたりはいて、沸かしたての湯で淹れた透の紅茶、マリーゴールドの香りのする紅茶を、米屋陽介は興味深い顔で啜っている。部屋でも湯を沸かすために電気ケトルを買うべきかもしれないと透は思っているのだけれど、透は電気ケトルが嫌いだった。湯は火で沸かすものだと祖父は言っていた。そのとき飲んでいた茶は日本茶であり、いちど沸かした湯をもう一度ぬるく冷ます手順を透がひとつひとつ教わったのは、ずいぶん昔の話なのだけど。
 紅茶は、ここがリアルワールドだと信じるために必要だった。
「いぬさるきじかー」
「陽介が犬だな」
「言うね! つってひとりたりねーけどな、蓮がキジで章平が猿で。……透も犬、じゃねーの」
 なついてないほうの。小声で米屋は言いたし、ひひっとまた、笑った。

 ある日近界民が空から落ちてきて、透は家を失った。それを救助しに来たのが、まだB級隊員だった頃の三輪秀次だった。同じクラスの奈良坂透だと、三輪は知っていたようだった。知っているとは思わなかった。三輪は昔から、なにも見えていないような目をしていたから、奈良坂のことなんて知らないのだと思っていた。
 三輪は、破壊されて崩れた透の家から透を救い出した。手を取って引き、そうしながら、まっすぐに、おぞましいほどにまっすぐな目をして、言った。
「世界を変えよう。おまえもボーダーに入るんだ」
 あの日から透は、三輪秀次の持ち物だ。……米屋陽介が言ったのはそういうことだ。犬。けっしてなつかないほうの、しかし従順な犬。米屋とは正反対の存在。透は三輪を恐れている。三輪が透の新しいホームの主だからだ。
 三輪を失うことを恐れている。

 犬と猿と雉。

 そうして突然透は気づいている。ここが鬼ヶ島なのだと。これが透の鬼だ。ここにいる男が透の鬼だ。紅茶を飲んでいる給湯室にやってきて、菓子をつまみ上げて食べている。にやりと笑って、透を見た。
 空気が変わった、と思った。
 米屋は、訳知り顔で「おやすみ、当真さんも」と言って、ひらりと手を振って出て行った。透は息をすることを忘れたまま、そこに突然やってきた、透の鬼を見つめている。三輪秀次に従えば良いと思った。三輪秀次が世界を変えようといったから、それに従うことにした。そうしながら三輪を恐れている。リアルワールドを喪失することを恐れている。三門市では手に入らないような紅茶をインターネットで購入するのは、出口を喪失することを恐れているからだ。閉じ込められることを、恐れているからだ。
 逃げ出せないことを恐れているからだ。
 ある日透の家は消滅し、透は犬になった。
 なっただけ。
 それだけのはず、だったのに。
「……当真さん」
 呼吸ができなくなっていた。透はやっとのことで言葉を発する。皿に載せていた数個のチョコレート菓子をさっさと全部食べてしまった当真が、透を笑って見返す。せせら笑う表情を浮かべて、透を見ている。言葉はひとことも発されないまま。
 当真からの言葉はひとことも発されないまま、透は突然、ぼろぼろと涙をこぼしはじめた自分を自覚した。
「すぐ泣くよなぁ」
 当真が手を伸ばした。それが透に届く前に、透は当真の肩に頭をおしつけて、涙で当真のTシャツを濡らした。引き寄せられた。頭を抱き寄せる手が甘かった。
「違う」
 くぐもった声で透は言った。
「何が」
「恐いんだ、俺はただ」
「何が?」
 判らない、と思った。近界民が? 近界民に襲われることが? 三輪秀次が? 三輪秀次のおぞましいほどの率直が? 米屋陽介が? 三輪の逸脱とすら言える率直を止めもせず隣で笑っていられる米屋陽介が? 古寺章平が? 三輪に対してすらただの先輩を相手にするように邪気なく振る舞える古寺の強さが? 冷静に彼らをみきわめている月見蓮すら、透は恐れているのかもしれなかった。けれどそれならばどうして、当真勇に縋っているのだろう。
「あんたはいつも俺に勇気をくれるから」
 涙は溢れ続けていたが、声は揺れてはいなかった。透は、手にしっかりと、暖かな紅茶茶碗を持ったままだった。その熱を、感じたままだった。指先に感じられる熱は、涙の熱さにとても似ていた。当真の腕に抱かれているのは傘のなかにいるようだ、闇夜のなかに降る雨を、傘で遮ってふたりでいるようだ、世界でたったふたりで。
「だから……」
 それで十分だった。それだけで。

 古寺章平にしてみれば、紅茶を淹れてくると言ったままもう一時間も戻ってこない先輩を、あと何分待てばいいのかといいかげん気を揉んでいたところだった。紅茶のセットを入れたバスケットを片手に下げて、奈良坂はうつむきかげんに帰ってきたが、涙を流したあとの腫れた目をしていることは明らかだった。
「どうしたんですか」
 章平は尋ねたが、もう答えはわかりきっていて、章平にはそれが、まったくもって、判らないのだった。恋愛っていうことがわからないんじゃなくてさ、といつか章平は佐鳥と時枝を相手に言ったことがある。好き同士でいて楽しくてっていうのはだいたい想像つくよ、そういうことだろ? でも先輩たちがやってるのは、そういうことじゃなくてさ……。結局うまく説明できなかった。時枝はあの時なんといったのだったか。
 周知の事実として、奈良坂と当真は、そうだ、下世話な言い方をすればできている。その関係のありようについてまた成り立ち方については諸説あったがとにかく事実として奈良坂は(スナイパー訓練ランキングの不動の一位の奈良坂は)、(それを凌駕してスナイパートップに君臨している)当真とできあがっていて、奈良坂透ならありだなと周囲を納得させているのだった。奈良坂透ならありだが、当然、自分を超越した存在にしか興味は抱かないわけだ、さもありなん。
 章平は「俺の先輩をそんなふうに言うのはやめろ」といちど腹を立てたことがあり、以来同年代の仲間たちからその手の話題を触れられたことはなかった。自分が潔癖すぎるわけではなく皆がおかしいのだと章平は思っていたが、それはそれとして、奈良坂にことの真相を尋ねる(問いただすのではなくあくまでもさらりと尋ねる……)こともできかねるまま、奈良坂が帰ってこない二人部屋で幾度も寝返りを打つことになるのだ。
 紅茶のセットを自分の机の下にしまいこみ、は、と、奈良坂は息をついた。涙のあとをのこした奈良坂の表情は、けれどどこか安息しているように見えた。そこのところも章平には理解しがたいのだった。いつも張り詰めた、アイロンをかけたシーツのように完璧にぴんと背筋を伸ばしている奈良坂透が、古寺の自慢の先輩が、ふわりと広げて自然乾燥をしたあとみたいに、すこしだけ、なんというか、……認めたくないのだけれど。
 人を好きになるっていうのはさ、オレもわかんないけど。そう時枝は言った。つらいのも楽しいのも全部合わせて、一緒にいるとき特別だから、一緒にいたいって、そういうことじゃないかなって、オレは思うよ。
「……泣くと幸せになるんだ」
 小さな声で奈良坂は言い、吐息をついて、「俺は弱い人間だ」と言った。
「当真さんですか?」
 章平はつい口に出し、とたん、ああ言わなきゃよかった、と思った。
 奈良坂は小さく笑い、ぱちんと電気を消した。
 暗闇の中にすっと立った奈良坂は男でも女でもないもののように見えた。つまり、……つまり何だ?
「俺と当真さんの間には、なにもないよ、章平」


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