小学校二年生のとき、未来、というタイトルで文章を書かされた。悠一は立ち上がって淡々と、「ぼくのしょうらいの夢は、おかあさんとふたりで無人島に行って、ふたりだけで暮らすことです」とそれを読み上げた。それを読んでも悠一をマザコンと謗る人間はもういなくなっていた。笑みひとつ浮かべない迅悠一はクラスメイトから遠巻きにされており、担任は、題材選びを失敗したような気がした(けれどどんな題材を選んだって迅悠一の作文はおよそそんなもので、つまりほとんど宿命的にとも言えるほどに暗い影を帯びていた)。
 悠一は小学校二年生ですでに簡単に学校をさぼっていた。頭が痛いからと言って寝ていることもあった(それは本当だった、悠一はよく、世界が何重にも写っているような感覚にとらわれて、頭痛を起こしていた)が、学校に行くべき道をふらりと逸れて繁華街へ出かけていくこともあった。面倒事はたいてい起こらなかった。面倒事が起こることを察知する能力が、悠一にはあった。悠一は何重にも重なって視えている世界のなかで自分にとって面倒のない分岐を選んで歩くことをもう、覚えていた。
 悠一は植え込みにすわりこんで、道行く人を眺めながら、松竹梅に人間を分けていた。つまり、もうじき死ぬ人と、そのうち死ぬ人と、当分死なない人の三種類に分類していた。もうじき死ぬ人を見つけられたらハイスコアで、もうじき死ぬ人を十人見つけたらゲームクリアだった。悠一はその数をノートに正の字で書き留めた。梅梅梅竹梅梅竹、松、やった。
 いずれみんな死ぬのだから早く死んだほうが幸福なのだと悠一は思った。学校をさぼった日はごはんは食べなかった。おなかがすいたなと、ぼんち揚げが食べたいなと思いながら、せっかく食べられる給食を食べずにここで人間の死を数えている罰なのだと思って、じっとおなかがすいたことをこらえていた。
 悠一にはたったひとり、友達がいた。
 その友達はおにいさんの姿をしていた、高校生、たぶん、それくらい。その友達はなにも喋らなかった。ただ悠一の目の前にいて、笑っているだけだった。これも何重写しかになっている世界のひとつなのだと悠一は思う。これも悠一に視えている未来のひとつなのだと思う。きっとこの優しそうなお兄さんと悠一はいつか出会うのだ。いつか。いつ?
「いま、ここに来てよ」
 きっと誰の目にも見えていない彼に向かって悠一は呟く。雑踏が拾わない声で。悠一は8歳だ。悠一はもう絶望している。悠一は世界中のなにもかもをもう知っているような気がしている。悠一は知っている。悠一は人間が死ぬことを知っている。悠一は8歳で、将来の夢はおかあさんとふたりで無人島に住むこと。どんな未来も見えない場所で大好きなお母さんとふたりで暮らすこと。そして、それが叶わないことを悠一はすでに、知っている。
「ねえいまここに来てよ、おれはひとりぼっちになるのに」
 少年は笑って答えないまま、悠一の頭をそっと撫でる。存在しない手で。

 そうだよおまえのことをずっと前から知っていた、そう悠一はいずれ、その強靭な体にもたれかかりながら言う。シーツにくるまってくすくすと笑いながら、いかにも幸福な物語のように言う。嵐山は笑ってそれを聞いている。笑うような物語ではないのに、それを嵐山は笑いながら聞くことができる人間で、だから悠一は彼に甘えかかるように、昔の話をしている。
「おれは5歳のとき、母親が死ぬサイドエフェクトを得て、それから、ひとりぼっちじゃなくなるまで、10年かかった」
 そう悠一は言う。嵐山はその言葉の意味を正確に読み取る。とても正確に読み取って笑う。10年。5歳のときに孤独を知って、15歳のときに嵐山准が悠一のまえに現れた。悠一は嵐山の死のサイドエフェクトを、まだ得ていない。
 その意味を悠一は正確に、理解していると思う。
「ゆいちゃんのおうち今日はカレーだよ、たっくんのおとうさんきょうははやく帰ってくるよ、そんなことを言っている間はよかった。先生あした怪我するよ、そろそろ危なくなった。しーちゃんのハムスター今日死ぬよ――やばくなったのはこのへんからだな。嘘つき、が常套句になった。ほかの言い方を知らなかったんだな。ほかにうまい言い方が思いつかなかったから、嘘つき、って言うしかなかった、みんな。嘘だったことは一度もなかった。もちろん。全部当たった。もちろん。回避させる方法を教えなかったし、そもそも、知らなかったから。みらいがみえるゆういちくん。ゆういちくんは嘘つき。――死神、とでも言ったほうが、正確だと思うけど」
 抱き寄せる腕があり、悠一はそれに従う。悠一の頭を撫でる指は実在する。あの頃視えていた悠一のたったひとりの友達は、いま悠一を腕のなかに抱えて、悠一をぎゅっと抱き寄せて背中を撫でている。悠一は嵐山の胸に向かって言葉を続ける。
「でもある日おれはそれを、視て、それきり未来の話を、しなくなった」
 ――母親の死のサイドエフェクト。
 それまで悠一は、得たサイドエフェクトを母親に話していた。膨大なそれをすべてというわけにはいかなかったが印象深かったものはすべて。けれどそれを境に悠一は母親の前ですら黙り込む子供になった。悠一はもうなにも語らなかった。かわりに暗号を作り出した。それから正の字を。そうして悠一は死を記録し始めた。世界中の人間がいずれ死ぬ。
 そして悠一の前から母親は消えるし、そうして悠一はひとりぼっちになるのだった。
 ある日最上宗一が、まったくの気まぐれのように悠一のまえに現れるまで、悠一には幻の少年しか、赤い服を着たまぼろしの少年しかいなくて、彼に抱き寄せられること、撫でられて、やさしく微笑まれること以外、なにも、持っていなかった。

 最上が悠一のまえに現れたのはまったくの偶然だった。それは悠一の未来視に含まれていなかった。電車の駅を降り間違えた最上はコンビニエンスストアで100円セールだったおにぎりを買いすぎて、たまたま、駅前に座り込んでいた子供に声をかけた。「おにぎりいっぱいあるんだけど、食べない?」子供は腹を減らしていて、不審げに見上げながら頷き、それから、正の字を一本引いた。梅。
「それ、なに?」
 あまりにもあけすけにその大人が尋ねたので、悠一ははじめて、ノートの説明をした。ふうんすごいね、と最上は言った。そうして、じゃあさ、と悠一に、彼は言った。
「いろんな種類の死に方が視えるってことかな」
「うん」
「じゃあさ」
 ――最善の死に方を教えてくれと最上宗一は言った。
 悠一はそれを答えた。だから悠一が最上宗一を殺した。だから、悠一が、最上宗一を殺したのだ。
 未来を操作する力を使って悠一が、最上宗一を、殺したのだった。
 ボーダーという組織で彼は役に立つのだと言われた。学校に行かないならかわりにおいでと言われた。片親で悠一を育てるのに必死で忙しく過ごしている母親は、学校の呼び出しにもろくに出かけていかなかった。悠一は未来の話をした。悠一は堰を切ったように未来の話をした。そうして最上宗一を殺した。最善の死に方で。
 なあ嵐山、と悠一は口にしない。口にしないでもわかっているはずだと思う。悠一を腕のなかに抱えて抱き寄せている優しい優しいこの男は、悠一の言いたいことをわかっているはずだと思う。悠一の問わず語りの行き着く先を、その最後を、もう嵐山は知っているはずだと思う。おまえだけがおれの友達だった。にこにこと笑っているおまえにいつか出会うことだけがおれの生きる意味だった。あの頃。あの頃たしかにおまえはそこにいた。おれはおまえを選んでそこに置いた。やさしそうだったから。おれをゆるしてくれそうだったから。おれが嘘つきであることをゆるしてくれそうだったから。視えた人間の中でおまえがいちばんやさしそうだったからおまえを選んで友達と呼んでそしていまでもおれはおまえの未来が見えない、
 視ようと、していない。
「……なあ嵐山、おれにもう二度と――」
 寂しさは人を殺す凶器だ。
 なあ嵐山おれにもう二度と、
「それでも迅は俺の最善の死を選ぶんだろう?」
 もう二度と、
「おまえはそういう男だ、そうだろう」
 俺はそれを待ってるよ、そう、囁く嵐山の声は、あの時の最上の声に、どこか、似て、はてしなく、あかるい。



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