子供の頃海に行ったことがある、と嵐山は言った。嵐山は海が好きなのだった。泳ぐのも、見るのも、そこにいるものを食べるのも。海を映したテレビ番組を、楽しそうによく見ている。けれどもいまとなっては嵐山は三門市の外にでかけていくことはなくなってしまったから、それどころか、休日をこの家の外で過ごすこと自体なくなってしまったから、嵐山が海に出かけていくことはもうない。三門市には海はない。
 わかっているのに悠一は、「いつか海に行こう」と言う。そんな日は来ないとわかっているのに、「いつか海に行って、一緒に海を見よう」と言う。嵐山はにこにこと笑って、「そうだな、いつか行こう」と答える。嵐山はいつも、悠一にやさしい。
 悠一はうまく嵐山を抱き上げることができるようになった。嵐山はずいぶん痩せて軽くなった。悠一は嵐山の体を上手に抱え上げて、ベッドに運ぶ。そうして服を脱がせて、体をなぞる。ぷつりと切り落とされた腕を、悠一は不思議なものをみつめるめで見つめて、そのうしなわれたところにキスをする。嵐山は片腕と片足を喪っている。はんぶんだけそのまま残されてはんぶんは壊れてなくなってしまった。
 悠一がそうした。

 目を閉じて、まっすぐ歩いて、と悠一は言った。そうして嵐山はまっすぐに歩き、そのまま、フェンスのない屋上からすとんと落下した。なんの迷いもない、まっすぐな目でそうやって、まっすぐに歩いていって、落下した。悠一の言うとおりにそうやって、だからそれは合意の上の愛情だった。死なないことはすでに予知していた。死なない。ただ不可避なほどに壊れる。嵐山の生身は損傷される。
 おれのせいだから、と悠一は言った。おれのせいだから責任を取りたい。一緒に暮らして、世話をしたい。玉狛を出て、嵐山と一緒に暮らす。そう言った。言い訳だった。だってそれは合意の上だったのだ。悠一がそれを命じた。嵐山は笑ってそのとおりにした。
「おまえのすることにはいつも意味があるから」
 その言葉の重み。
「そうしておまえは俺を愛しているんだろう」
 そのとおりだった。そのとおりだからくるしかった。くるしかったから全部をくれよと思った。全部? そんなものが手に入るはずがなかった。全部はどうせ手に入らない。半身が不随になったあとでも、換装さえしてしまえばもとのとおりの肉体が取り戻せる。嵐山はいまでも広報部隊としての仕事を続けている。換装した状態でしか家を出ない。そうして家の中では、いつも、悠一に抱き上げられて、悠一にすがって、悠一なしでは生きられない生活を、送っている。義足や義手をつける生活を嵐山は選ばなかった。それでは意味がなかった。
 悠一にすべてを預けるのでなければ、意味がないのだと、聡明な嵐山はきちんと、理解していた。
 おれに嵐山をくれよ。そう、悠一は言わなかった。言わなくても伝わっていた。目を閉じてまっすぐ歩いて、嵐山。それがおれに示せるおまえの最大の愛だって、そういうことをおまえは理解しているんだろう、目を閉じて。
 まっすぐに。 
 落ちていく感覚はどんなだっただろうと悠一は思う。悠一の言うままに、放棄地帯のビルの屋上から、まっすぐに落ちた嵐山。夜の闇の中で、落ちていく嵐山を悠一のサイドエフェクトは捉えていた。よく、見えていた。頭は植え込みにひっかかって助かった。ただ体が跳ねて肉体が損傷した。そこまで全部視えていた。視えていたからこそそれをやらせたのだった。

 残された片腕が持ち上がって、悠一の頭をゆっくりと撫でている。悠一はおだやかに嵐山の体にキスを落とした。悠一は嵐山を、ひどく大切なものとして抱くようになった。昔のように無体を働くことはもうなくなった。大切に、大切に、氷菓を舐めるようなささやかさで嵐山に触れる。壊れてしまうもののように。実際壊れてしまったあとの存在なのだった。悠一が壊した。
「……おれたちは、愛し合っているのに」
 悠一はそう言いながら、嵐山の体を抱いている。
「おれたちは愛し合っているのに、こんなに愛し合っているのに、ここまで来ているのに、どうしてまだ足りないんだろう」
「足りないものは埋めてやる。何度でも」
「……不可能だろう。けっきょくおまえは、俺のものじゃないんだ」
「いまはおまえのものだよ」
「いまはね」
「いまここにあるものを愛してくれないか。迅。おねがいだ。おれのできるかぎりのものを、おまえにやるから」
 嘘のない、ひとつも嘘のない、言葉だった。それゆえに残酷だった。すべてをやるとは嵐山は言わない。ただここにあるものが迅のものだと言う。
 体を探った。乳首をさらさらとなでる。んん、と甘い声が上がる。最近嵐山は、ずいぶん素直に喘ぐようになった。腕と足を喪って迅と暮らし始めてから、嵐山は素直になった。乳輪をさらさらと撫で回したあとでおもむろにぎゅっと乳首をつまんだ。ひ、と嵐山の声が上がった。そのままこね回してやる。ううん、ああっ、やっぱり声が素直で、可愛かった。
「嵐山、キスとか乳首とか、そういうのでイっちゃうこと多いな」
「……べつに、……いいだろう……!」
「いいよ。ただ。かわいいと思っただけだよ」
 びく、びくと、体を震わせている嵐山は、たぶん乳首の刺激だけでもうイっている。それを承知の上で体を撫で、ワセリンで濡らした指をぐっとお仕入れながら、背中をぞぞっと撫でた。
「あっ! ああっ、迅、迅」
 なかを探りながら、また、途中までしかない嵐山の腕にキスをした。そこにも性感帯があるらしく、びく、と嵐山は体をふるわせた。切断口をべらぺらと舐めながら足のほうの切断口も指先でなぞる。あらゆるところを責められて嵐山は限界をとうに超えているようだった。迅と言った。
「すき」
「おれも」
「すき、だいすき」
「おれが悪人でも?」
「でも、意味がある」
「……そうだね」
 重たい、と思った。嵐山はただ迅を信じているだけなのだった。からだをうなってもそれは迅の最善なのだと、はっきりと信じているのだった。
「おまえが俺が殺そうとした。そのことに意味がある。おまえをおれが殺そうとしているってことだ。おれでいい。なあ迅、それじゃ、愛なんだろう? おれが特別な存だと言ってくれて、俺を特別だと言ってくれて、ほんとうにうれしかった。だからこれでいいんだ。迅。泣くな。バラ色の日々だろう。俺はおまえのことが、とても、好きだよ」
 半身を奪われた男が笑ってそう言う。悠一は泣いて、どういて泣いているのか、わからない。ただずぶずぶに濡れた嵐山のそこはひどく熱く、悠一はまた、嵐山はおれにいつもやさしい、と、思った。
 海のように。



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