迷子の子供の手を引いている嵐山を見た。見るとわかっている場所で悠一はずっと待っていて、それを見た。おおきな窓のあるパン屋でむしゃむしゃとパンを食べて、頬杖をついて、そこに嵐山がやってくるのを待ってから、それを見た。
 嵐山は道の向こう側にいて、迷子の子供のもとにかけよって、しゃがみこんで、頭を撫でた。大丈夫だ、という声がきこえるような気がした。大丈夫だ、俺といっしょにいこう、そう言っている声だ。いつもどおり嵐山は笑っているのだろう。道の向こう側、遠い場所でもそれがよくわかる。いつもどおり嵐山は笑っているのだろう。
 おれにやさしくしてくれているわけではないのに、おれがやさしくされているような気分になる。心臓の、いちばんおくを、そっと撫でさすられているような気分になる。それはほとんど不快感に近いようなかなしさを伴う切ない多幸感だった。嵐山が当然のようにあらゆるものに愛をそそぐところを、悠一はガラスの壁を隔てたこちらがわで見つめながら、心臓をぎゅっとだきしめられたような気分になっていた。
 それを感じたくてそこにいたのだ。

 短い物語をいくつか語る。嵐山准があらゆるところであらゆる人々を愛しているところを語る。人が死ぬたび眉をひそめてそれでも職務を続ける嵐山について語る。美しいとしか言いようがない物語を語る。語る相手を悠一は持たないので机の上のサボテンを相手にしてだらだらと喋る以外にない。それに飽きると悠一は部屋を出て、支部長室に入る。そこで林藤はなにやらパソコンを操作して仕事をしている。悠一を見るとにやりと笑い、のびをして、「酒でも飲むか」と言った。
「おれの好きな人の話を聞きたくない?」
 林藤のためにキッチンから氷を持ってきてやってウィスキーのロックをふたつ作り、それをちびちびと舐めながら(たいてい氷が溶けきるまで飲み終わることはできない)、そう尋ねると、林藤は笑って、聞きたいねえ、と言う。それが誰なのかという焦点をわざとぼかしたまま、悠一はぼんやりと物語を語る。酒がまわってふわふわとしてすこしかなしくなる。その人がねえ、と悠一は言う。
「おれの好きな人が死ぬのがかなしい。いつか死ぬんだよ絶対。いつか死ぬのに生きてるのがかなしい。おれはかなしいんだ林藤さん」
 へえ、そうかそうか、そう頷きながら林藤は頬杖をついて笑っている。どうして笑うんだよ、と聞くと、「おまえが人間ぽくて可愛いから」と林藤は答えた。悠一はなんだか腹を立てて泣きたくなって、黙って酒を舐め続けたあとでもういちど、「おれはかなしいんだ、ずっとかなしい」と言った。
 酒を飲んだあとの朝はひどい自己嫌悪があってつらい。なにを喋ったっけと悠一は反芻する。なにを喋ったっけ? クリティカルなことを語らなかっただろうか。べつに、林藤は迅と嵐山とのことについて、知っているのだろうけれど。
 嵐山と最近、会っていない。
 会いにいくよ、と嵐山はいつだか言った。助けが必要な時は呼ぶよといつだか言ったら、おまえは助けなんか欲しがらないのを知っているよ、と嵐山は言ったのだった。おまえを好きでいることを明瞭にするために、会いにいくよ。いっしょにいるより、会いにいくほうが、ずっと、明確に、好きだって言い続けていられるような気が、するから。
 会いにいくよ。
 もちろんそれはなんていうかことばのあやだ。嵐山は実際ひどく忙しい生活を送っているのだから、悠一が会いたいと願った時にすぐに会いに来てくれるはずもない。早朝を過ぎて昼に近づいている時刻、嵐山はいまごろ大学でせっせと勉強している頃だろう。悠一はといえば昨夜の酒が残った頭でぼんやりとベッドのなかにおり、そろそろと指を下着のなかにつっこんで、嵐山のことを考えながら指を動かし始めている。は、と息をついた。嵐山の背中について考えていた。走っている嵐山の背中。
 昨日林藤に、嵐山が子供に混ざってサッカーをやっている背中を眺めていたときの話をした。パン屋と迷子のときとは違って、そのときは嵐山は、迅がそこにいることを知っていたのだけれど、迅も来いとは嵐山は言わなかった。ときどき振り返って手を振る以外、サッカーに集中して、かけまわっていた。迅がそこで見ているだけであることを、視ているだけでなにもしないことを、嵐山はそのとき許していた。その背中。
 嵐山、と小さな声で呟いた。
「迅」
 返事があった。
 顔をあげた。ぽかんとした。読み落としていた未来だった。それは、読み落としていた未来だったので、悠一はぽかんとした。どうしてそんなに重要なことを読み落としたのだろう。昨日眠くてベッドに転がり込んだから扉をあけはなしたままでいた悠一の部屋に、嵐山がいた。笑って、悠一の頬を撫でて、ひたいにキスがおちてきた。
「……嵐山」
「呼ばれた気がした」
 嵐山は笑ってそう言った。ベッドの上に乗り上げて、布団のなかにもぐりこんできた。すっぽりと布団を被って、悠一をそのなかにとじこめた。「呼んでたろ?」
「学校は」
「たまには休んだっていいんだ」
「おまえそれでなくても忙しいくせに」
「いいんだ。会いにいくって言っただろう」
「……そうだな」
 みおろしてくる頬に触れた。ああ、と思った。ああここに人間がいる。生きている。生きている嵐山がここにいて、少なくともいまは、失われないままでここにいて、悠一に触れている。あたたかい布団にくるまれて、密着して、むらむらした。あ、ゴム、ゴムつけよう、ちゃんとつけてやんないと、思いながら起き上がろうとした。
「……もうちょっとだけこうやっててくれ」
 引き止められて、でも途中なんですとは言い出しかねた。いますぐはめたいんですとは言い出しかねて、その中途半端な感覚もでも、悪くはなかったので、そこに嵐山がいるというだけで十分で悪くはなかったので、悠一は腕を回して、嵐山の体を抱き寄せた。中途半端なものが当たるのだってかまいやしない、嵐山だって、構わないだろう。ぎゅっと抱き寄せて嵐山の首の脈拍を測った。それは定期的に拍を打っており気分が悪くなるような多幸感はそのときはなくたただんに幸福で、おれは寂しかっただけだったのかもしれない、と悠一は思った。



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