ポケットにから転がり落ちるワセリンの小さな容器からすくいあげたぬめりだけをたよりにしたらほかのなにもなくてもよくなり、衛生面でどうとか口走る男はいつのまにか消滅していた。あれやるときはゴムつけないとだめでしょうと男が言わなくなったのはいつからだったかこんなずるずるした関係を築くようになったのはいつからだったかちゃんと洸太郎は覚えている。いつからだっけとわからないそぶりをしてやるのはただのやさしさだ。ワセリンのほうがいい、ローションは乾くとべったり張り付いてがびがびになる、そんでワセリンだとゴム敗れるから破れないゴムいちいち買うのめんどくせえしそうしたらもう生でいいだろみたいな話になって結局のところコンドームはログアウトしました。
 終わったので迅速に風呂に入りましょうみたいなのがなくなったのだった。というか、そういう、終わったので、とか、そういうのが、あるのがいやで、なくしたくて、もういいじゃんみたいになって、洸太郎のポケットにいつも常駐しているワセリンが使われたし、ゴムは使われなくなったし、でも中に出されると腹下すので(たったこれっぽっちの液体が注ぎ込まれたくらいで何だと思うものの本当に下した)堤は出す前に慎重になかからそれを抜き取ってそれが寂しいので吐いたあとのものをもう一度せがんでしまうしくみだった。中出しされたあとでちゃんと処理できるなら中出しでいいわけででもいちいち抜いてティッシュの上に出すのは要するにもう一回もう一回もう一回もう一回なんどでもなんどでも堤が洸太郎を抱きたがっているという証左であって、おわりのないセックスのピリオドとしての中出しが行われないままでぐったりと体が投げ出されている。冬で寒いのにまったくそんなことは理解できなかった。
 洸太郎は堤よりも体力面で劣っており、だから洸太郎はなにもかもわすれたからっぽの頭を抱えて、ぐずぐずに溶けたそこをほとんど無感覚に差し出してはやく、と誘うことができる。もうぐずぐずになってだめになってなにもわからなくなっているのに足をさしだした洸太郎は行儀悪く堤の首にかかとをひっかけて引き寄せてはやくこいよということができる。もうなにもわからなくなっているからそういう、ビッチ、みたいな、まねができてはたして堤は舌打ちをした。舌打ちの方法なんか知っているようにはみえないお地蔵様みたいな顔をした男が洸太郎を抱いている時だけぶざまにくずれていくので洸太郎はおかしいのだった。は、ははは、ははっと笑っていると、堤はほんとうにもういやだという顔をして「壊れたんですか諏訪さん」と言った。
「こわ、れる、だろ、なん、かい、おまえ」
「まだやるんですか」
「つか、おまえも」
「オレは壊れません」
「はやくしろよ」
「壊れません」
「ちぇ」
 片足の、つまさきで堤の耳たぶに触れた。なんとなく、神域に到達できそうな、お守りみたいな、強度が上がりそうな、そういう。グッズグズに壊されて諏訪洸太郎がそこに転がっていて堤大地以外のなにも見当たらない世界において堤大地はまだ壊れないでそこにいるならかわいそうだった。俺のケツでは白痴になることすらできないってのかいと思いながら耳たぶを弄んでいると、堤はほんとうに、ほんとうに不機嫌な顔をして、洸太郎のてのひらをつかみ、堤のものを握らせようとした。あいにくと指先にうまく力がいれられず、堤は洸太郎の指を使ってオナニーをしているだけなのだった。ゆるくつかんだ洸太郎の指に腰をおしつけてぐしぐしと動かして堤は息をはいていた。ばかだなあおまえ、と洸太郎は言った(もしくは言おうとした)。うまく日本語が作れていたかどうかはわからないが堤に伝わればそれでいいのだし堤は理解していた。堤は理解していたので洸太郎は白痴のようににこにこと笑いもういちど、はやく、と言った。
 入ってきたもので全部がおしまいになるからがちがちに、なっている堤のものが、生で、ひとつのものになるみたいに、ひとつのものになるために、肉の境界なくなって心臓まで犯されて脳の、ぜんぶを、差し出すみたいに、脳まで、脳の中まで、堤大地でいっぱいにされてああこれ、と洸太郎はぼんやり思う。依存。
「セックス依存症」
 ぐたりと洸太郎の横、ひとり用の布団からほとんど体をはみ出させて堤が転がって、終わりというかとりあえず終わりというか、体力が回復したり弾が装填されたりしたらまた取り戻せるかもしれないけれどもういいかげんいいだろみたいな不機嫌な顔をした堤大地がそこにいて、洸太郎はあいかわらずなにも考えずその男の、腰に、腕を回して抱き寄せて、堤はなにか不満そうな息を漏らしたけれどそれでも洸太郎にうまく抱き寄せられてくれてそこにいて、べったりとくっついた幸福な恋人同士のようだと思ったし、セックスを繰り返しているうちに昼をすぎて午後をまわっていて昼飯も食っていなくてティッシュペーパーばかりが散らかっている部屋でけれど洸太郎の中身は充填されていたからそこにいる男の体だけがあればよかった。
「……あんたセックス依存症なんですか」
「っぽい」
「違うでしょ」
 息をついて男は言った。そうかい、と洸太郎は答えた。おまえは俺のことをなんでも知っていてお粗末様だな。
「オレらは……」
 なにかを言いかけた男が、唐突に口をつぐんだ。なにかクリティカルなことを口走りそうになったのだろうと思った。好きだとか愛しているだとかいう言葉、交際しているとか永遠だとかいう言葉を、嫌いながら追い詰められた顔で口走らずにはいられないような、律儀さを洸太郎は、愛しているのだなあと思う。俺はこの男を愛しているから一緒にいるのであって、LOVEというのは、大切である、ということだった。境界線が見えなくなるまで抱き合ってそうしてここにある肉塊の体温が一致していないので結局境界線はここにある。
 はあ、とまた息をついた堤が、洸太郎の頭を抱いてぐしぐしと撫でた。そこは昼下がりの部屋で、密閉された性欲が充填されていて、それがふたりで作り出したものだとわかっているのに、ひとつのものになれないこと、心臓も、脳も、シングルの洸太郎でしかないこと、そのことに、眠たいような絶望があった。眠たいような絶望は、笑い出したいような幸福に似ていた。こんなにくたくたになるまで抱き合って眠たくて眠たくて仕方がなくても、俺は堤大地である、とか、堤大地は諏訪洸太郎である、とか、そういうことにはならないのだということが、眠たいような絶望でLOVEで、幸福なのだった。
「俺が、死んだら」
 架空の話をしてやろうと洸太郎は思ってそう告げた。
「おまえは俺を食うといいよ」
「あのねえ諏訪さん」
「そんでその直後に後を追うんだな」
「諏訪さんあのねえ、くだらないこと言わないでください」
 泣きたくなる、と堤は言った。
「食ったってひとつのものにはなれやしません」
 ご名答。

「あんたがくだらないこと言うから肉の食い方忘れました」
「なんつう繊細な感性だ」
「なに食ってもあんた食ってる気がして」
「世界中の肉を俺と思ってくれんのはさあ」
「はい?」
「愛だな堤くん」
 くだらないこと言わないでください、ともう一度、堤はあまり不機嫌でもない顔で言った。戦争が終わったので彼らはまたオペレーションルームにいた。そこにピン留めされているようにそこにいて、くだんのミスターが脳や心臓までざくざくに犯していった現場に新雪の如き清らかさを誇る新人たちが次々やってくるのを見ていた。ざくざく、ざくざく、ざくざく、自分の体の中を犯される感覚、痛みは消しても感覚はある、さすがにそこまで消したらやばい。
「風間がさ」
「はい」
「弱いのに生きていて哀れだな、ってな」
「言いますねえ」
「あいつは俺のことがほら、好きだから」
「あんま調子に乗らないでくださいね」
「無様でも生きてられるの見ると安心すんだろ」
「あの人無様になる方法知らなそうですね」
「そんな人間いねーよ」
「どうだか」
「おまえが信じてるほど人間は格好良くない」
 釣り針を落とした。はたしてほとんど無関心とも言える声で堤は、「諏訪さんはいつも格好良いですよ」と答えた。洸太郎は小さく笑い、堤の、左の、てのひらをとって自分のてのひらのなかにおとしこんでやる。幼児が友達にするくらいの丁寧さでそうしているてのひらが洸太郎のすみずみまでを犯してだめにしてぐずぐずにして世界のなにもかもを忘れさせることを洸太郎しか知らない。このお地蔵さんじみた顔をした男がほとんど洸太郎を憎んでいるかのような表情を浮かべて洸太郎のなかに押し入ってくることを洸太郎しか知らない。
「今日はなかに出せよ」
 指がひきつった。洸太郎がにやにやと見上げると、堤は一瞬だけ、取り繕わない、唾棄すべきものを見つめる目つきで洸太郎を見つめ、「TPOを弁えましょう」と言って、洸太郎の指を、しかしやはり幼児が友達にするような切実さで、握り返した。



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