7、デイドリームビリーバー

 誰に揺さぶられることもなく目を覚ます。なにもかも夢だったかのように朝が来て、陽介は自分の部屋にいる。壊れたことのない自分の部屋、壊れたことのない自分、なにも変化のない米屋陽介。
 陽介の部屋にはほとんどものが置かれていない。自分の部屋を陽介は見渡し、ふと、この部屋も廃墟みたいだ、と思った。なにもかも強奪されたあとに残った部屋みたいに、なにもない部屋だ、と思った。まるでなんの過去も、それどころか現在すらもなにひとつなく、突然生み出されてここに放り出されたかのような部屋だと思った。
 米屋陽介は誰かの夢なのではないかと思ったことを陽介は思い出した。それが誰の夢であるかは明白だった。
 陽介はふと笑い、押し入れをあけて、そこに放り込まれた段ボール箱を引きずり出す。ぎゅうぎゅうに詰め込まれたノートを取り出して、開いた。くっ、くっ、くっ、と笑いはだんだんに激しくなり陽介はこらえきれずにげらげらと笑い、そうして、机に向かって、ほとんど新品同様のままの古文のノートを裏から開いた。
 写メをLINEに流した。
「おはよ」
 スイッチを、入れる。
『おはよう』
 返信はすぐだった。遠く秀次自身の部屋で目を覚ましているのだろう三輪秀次は、続けて、『なんだこれは』と送ってきた。
「秀次」
 押し入れのなかには陽介が小学生の頃さんざん描いた漫画のノートが何箱も、眠っているのだった。
 過去はある。
 この部屋はけしてからっぽではない、陽介はそう思いながらもう一度、部屋を振り返り、古文のノートから破り取ったページを、セロハンテープで壁に貼り付ける。
 あまり似ていないので、練習をしなくてはならない。

「思春期によくあるやつだろ」
 出水はこともなげにそう言った。
 陽介は冬季限定の豆乳飲料、甘酒味というのを飲んでいて、吹き出しそうになった。
「なんだそりゃ」
「太刀川さんが一回やったのは知ってるし、迅さんも昔やったっていうのは聞いた」
「は?」
「だから、よくあるやつなんじゃねえの、平凡な、よくある話」
「はぁ!?」
 昨夜の事件の話だ。陽介は唖然と目を丸くし、それから、腹から可笑しくなって、笑い始めた。爆発するように笑っている陽介を生徒たちが訝しんで見ている視線は感じたが陽介はそのまま笑い続けた。よくある話。あれが!
「トリオンコントロールを覚えてうまくやれるようになってメンタル落ちてるときにそういうのあるらしいぜ」
「おまえは」
「はぁ? おれがそんなだせえハメになるとでも思ってんのかよ」
「言ってろよ」
「だっせー」
「どうせだせえよ」
「恋とはそんなものかしら」
「なんだって?」
「なんでもねえよ」
 今日も今日とて出水は揚げ物の多い弁当をつついている。「おれのトリオン量でそれなったら大変だぜ、三門市全体おれの夢だな」
「どうなんの。人間が全部エビフライになるとか?」
 出水は陽介を見つめ、それからおもむろに渋面を作った。「おまえのなかのおれはそこまで馬鹿か」
「バカじゃん」
「黙れ槍バカ」
「はいはい、出水くんはつえー出水くんはつえー弾バカッコイイカッコイイ」
「煽るじゃねーか」
「煽るよ」
 思春期によくある、トリオンの暴走。
 メンタル落ちると、ね、と陽介は頬杖をついてぼんやりと考えた。落ちてたのか。いつから? どうしてあんな「夢」を見たのだろう。答えを考えるのは面倒だった。考えるのは陽介の仕事ではなかった。
「まーいいやその話は。これ見てくれますかね」
 なに、と、気乗りのしない様子でコロッケをつついていた(コロッケ好きなんじゃないのか?)出水は身を乗り出し、ぶっ、と吹き出した。
「……槍バカ先生、絵、うまいっすね」
「久しぶりに描いたけど意外と行けた」
「おれも描いて描いて」
「えーどうすっかなー弾バカさん態度悪りーからなー」
「調子に乗んなよ。……なに。思春期の暴走? それとも思春期の暴走対策?」
 まあそんなとこ、と答えながら、するりと陽介は視線を逸らした。もう二輪くんはいないのに、自然に気付いて陽介はそこに秀次を見つけた。秀次は半崎と連れ立って教室に戻ってきていた。陽介は目を瞬かせた。珍しいコンビだ。
 かたん、と立ち上がる。出水が呆れたように見上げ、「お勤めご苦労さん」と言った。陽介は秀次から目を逸らさないままで、「天才を振り回せて気分が良いね」と答えた。くっく、と笑っている出水を残して、秀次、と声をあげた。秀次は声を上げないまま、当然のように踵を返して、陽介を従えて歩き始めた。十分くらいしかないな、と陽介は考えながら腕時計をみおろした。
 秒針が蛇のかたちをしている。
「午後からの授業は捨てる」
 特別教室棟の最上階、一番奥。いつものトイレのいつもの個室。向かい合って秀次はそう言った。時計の秒針に似た、おそろしくまっすぐな目を、秀次は陽介に向けていた。
「は? はい」
「午後からの授業は全部捨てる、おまえは俺をここで今から好きに抱け」
「はい」
 陽介はとりあえず答えたあとで、「はい?」と付け加えた。
「秀次」
「なんだ」
「それさあ、オレがやっていいってことだよな」
「そういうことだ」
「時間制限なしで」
「そうだ」
「トイレである意味は?」
 秀次はまっすぐに陽介に向けた目をぱちんと瞬かせ、それから口を一度開いて閉じた。二人でフケてどこかへ出かけていくという発想がなかったらしかった。
「……いつもの場所で! 攻守交代することに、意味がある、だろう」
「あー、うん。はい。了解」
 かわいいな、と思った。
 この顔も上手に描けるといいな、と思った。頬を摺り寄せてするりと頬ずりをした。
「半崎」
「……うん」
「仲良しじゃん」
「コリドーという言葉を知っているか」
「コリドー?」
 唐突な言葉だった。時間はたっぷりあるのだからと陽介は、ゆっくりと秀次の頭を撫でてそれから体を撫でてゆく。
「コリドーというのは通路という意味だ。孤立した生態系は弱体化していずれ滅びる。だから生態系同士を繋いで、その延命を図る。コリドーを通すことにした」
「……えーと」
「他人とできるだけ、かかわることにした。俺たちの生態系を延命するために」
「オレと、秀次の話?」
「そういうことだ」
「延命」
「俺はおまえが欲しい」
 はあ、と息をついて、秀次はおもむろに、陽介の首すじに歯を立てた。本気のものではなかった。痛いような痛くないようなぎりぎりのところでひとしきりかみついたあとで、「だいたいおまえは」と、ほとんどぼやくような口調で言った。
「だれとでもへらへら話すわりに友達が少なくて見ていて危なっかしい」
「……それ秀次が言うのかよ」
「俺は三輪隊と城戸司令さえいればそれでいい、でもおまえはそうじゃないはずだろう」
「まあ、そうだけどさ」
「そうじゃないなら友達のひとりも作れ」
「ぼっちみたいに言うなよ」
「いつまでも出水に迷惑をかけて」
「まあそれは……」
「他人が必要なんだろう、そういう、ことだろう」
 陽介の指は秀次の学ランのボタンをひとつひとつ外している。秀次の腕は陽介の首に回されている。
「おまえは他人を求めている。俺もそれに乗ってやる」
「コリドーを通す」
「そう」
「ふたりきりで死なないように」
「二度とおまえを、殺さないように」
 二度ともうひとりのきみが死んだ夢を見ないでいられるように。
 ふふっ、と陽介は笑い、「オレも別件で始めたぜそれ」と言った。「あとで見せる」
 いまはとりあえず、目の前に与えられたものに、集中する。
 チャイムが鳴った。秀次は陽介をじっと見つめ、にやりと笑った。陽介の手首で蛇がかちかちと動いている。
 秀次の手首にも、同じものがある。

 授業どころか、訓練自体をさぼった。狭いところでやりすぎて体が痛かった。どんどん暗くなっていくトイレのなかで必死だった。そうしてまた夜が来ていた。
「次の予定がある」
 予定通りだ、という口調で、しかしどこか崩れた声で秀次が言い、その声がエッチだなと陽介は思った。真っ暗闇のなかでぼんやりと見える三輪秀次の存在の全体がなんだかそういう、エッチなだけの何かに思えて、陽介は笑っている、笑っているということを、秀次もたぶん、知っているのだろう。
 教室に戻って荷物を抱え、夜の学校を出た。手を握ると、振り払われずに握り返された。蛇をつけた手を重ねて、いま蛇は向かい合っているのだと思った。
 学校から街並みを抜けた。放棄地帯に入った。そうして、見慣れた、いつもの、いつも歩き回る通りの、道を抜けてどこにいくのか、そこにたどりつく前に陽介はもう気づいていた。
 何度もやってきた場所。
 かつての三輪秀次の家だ。
 「姉の部屋」に秀次は足を踏み入れ、そこに置かれた大きな箱をあけた。陽介は目を瞬かせた。どうも驚かされてばかりいる。
「なに、それ」
「湯沸し器」
「湯沸し器」
「キャンプ用の湯沸し器だ。奈良坂を通じて東さんから昨日の夜借りた」
 もっともあの人はあまりこういうものは使わないらしいが、と言葉をつづける秀次の前で、陽介はまだぽかんとしている。この男は誰だろう、と思った。この男は誰だろう、と思い、そしてまぎれもなくこれが三輪秀次なのだ、とも思った。決めたことはやり通す。必ず。
 つまりそこで、「姉の部屋」で、彼らは、カップラーメンを作って食べた。
「……ラーメンとか嫌いじゃなかったっけ」
「こんなもの人間の食い物じゃない。なんの栄養価もない」
「じゃあなんで?」
「訊く必要があるのか」
「ないね」
 わかっていたからたしかに、なにを尋ねる必要もなかった。陽介は腕を伸ばして、ラーメンをすする秀次の頭を撫でた。秀次は無言で撫でられていた。空には月がある。彼らにはお互いがいる。
「……ラーメン食うのはさ、ラーメンが食いたいって言うか、食いたいんだけどさ」
 喋りはじめてから、なんとなく気恥ずかしいなと思った。思いながらけれど喋り始めてしまったから仕方がなかった。
「高校生ごっこしようぜ、みたいな。……オレが永遠に秀次の相棒でいるとしても、オレらは永遠に高校生でいるわけじゃねーんだから、高校生ごっこやろう」
 秀次は顔をあげて陽介を見ていた。陽介をじっと見ていた。月のうすい光のもとで、秀次は陽介を見ていた。
「高校生ごっこやって、たぶん大学生ごっこもやって、人間ごっこやって、人生ごっこやって、そうやって死ぬまで戦おう」
「そうだな」
「オレが秀次のとなりにいないとしても」
 そう陽介が言うと、秀次は沈黙した。短い沈黙の後で、秀次は言葉を継いだ。
「……そうだな」
 いつか生態系が別々に別れる日が来たとしても。
「それでも、俺のとなりには、米屋陽介が、いると思う」
 秀次は静かな声で、そう言った。
 ラーメンを食べ終えてゴミをまとめた秀次は、鞄を探ってなにかを取り出した。陽介が見ている目の前で、秀次は取り出した錠剤を一錠、飲み下した。
「……秀次?」
「眠ろう」
「ここで? 寒いぜ」
「寝袋がある」
「……用意いいな」
「あの、夏の日」
「え?」
「夏の日だ」
「……ああ」
「……本当はただ単に眠りたかっただけだったのかもしれない、と思った」
 秀次は陽介の手を取り、それからことりと頭を引き寄せて、ぶつけた。小さな、静かな声だった。それを陽介は聞いていた。
「本当はただ単におまえの隣で眠りたかった。そんな気がする」
「眠ろう」
 そう答える以外にどんな答えがあっただろう。いつでも陽介は秀次の都合の良い夢でありたくて、それがどれほどに夢見がちな絵空事に思えても架空の出来事のように思えてもめちゃくちゃでも全部が、三輪秀次が差し出すすべてが現実だから陽介はそれをたとえば絵に描いたりするだろう。三輪秀次がそこにいるということを陽介は飲み込み続けるだろう。きっと。
 眠ろう。朝が来たら目覚めよう。手を繋ごう。戦おう。死ぬまで。
 続いてゆく夢のただなかで。



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