6、もうひとりのきみが死んだ夢

『三輪か。今どこにいる』
 切ったとたんに次の電話が鳴った。場所を言う前に奈良坂透は、『迎えに行く』と言った。秀次は、「いい」と答えたが、電話はそのまま切れた。
「……帰るぞ、陽介」
「電話誰?」
「誰だっていいだろう」
「奈良坂?」
「……わかっているなら訊くな」
「心配してんじゃねーの」
 言いながら陽介は伸びをした。どこか狭いところに閉じ込められていたような仕草だった。
「なんだっていいだろう。終わったんだ、帰るぞ」
「ん、オレちょっと残ってくわ」
 陽介は笑ってそう言った。ポケットに指をつっこんで、なにげない言い方でそう言うものだから、秀次は、そうか、と答えることしかできなかった。埃くさいマフラーに鼻先をうずめて、秀次は一時黙り込んだ。そうして、きびすを返しかけてから、「陽介」と呼んだ。
「うん」
「マフラー」
「うん」
「……見つけてくれてありがとう」
 陽介はへらりと笑い、「どうしたしまして」と答えた。
 陽介に背を向けて歩きながら、スマートフォンの画面に触れた。LINEを呼び出し、奈良坂に、「帰るから迎えに来るな」とメッセージを送った。既読がついて長めの沈黙があり、それから「了解」と返信があった。ため息をつく声が聞こえるようだった。
 画面を電灯に切り替えながら考える。迅に呼び出された月見は奈良坂と古寺を招集しただろうか。彼らはオペレーションルームで逐一を見ていたのだろうか。迅はこの件を城戸に上げたのだろうか。もろもろのことを考えかけて、秀次は頭を振った。終わった。それでよかった。それでいい、と思ったあとで、秀次はふと、視界が濁っていることに気付いた。目を拭った。それだけで視界は元に戻った。それだけ。
 陽介、と小さな声で、秀次は呼んだ。

 スマートフォンの画面の光を頼りに、階段を上ってゆく。ゆっくりと階段を最上階まであがり、それから、ドアノブを回した。もちろん鍵がかかっていた。陽介は肩をすくめ、「トリガー起動」、一瞬だけでよかった。すぐに換装を解いて、向こう側にゆっくりと倒れてゆく扉を踏み越えて屋上へ出た。
「槍でやることじゃねーけど」
 ひとりごちる。
 フェンスにがしゃんと指をかけた。ずっと遠く、三門市市街地の光を眺める。あのなかに陽介の家もある。陽介の家は一度も壊れたことがなく、ずっと光をともし続けている。ボーダー隊員になってから外泊の多い息子を心配してすらいないだろう。呑気に、どこかで元気にやっているだろうと思っているのだろう、陽介の家族。
「……帰るぞ、つったってさ。おまえは寮に帰って、オレには帰る家があってさ。……秀次」
 かわいそうだ、などと、思ってはいけないのだった。実際、かわいそうなんかでは、なかった。多分。かわいそうだと思うべきだとしても、陽介はそれを、思うことができなかった。だって秀次は陽介と一緒に戦うことができて、かわいそうなんかではなかった。だって秀次は陽介を手に入れて、かわいそうなんかではなかった。
 秀次の憎悪と復讐がなければきっと米屋陽介は、彼の隊長の持ち物ではなかった。それは完璧に美しいことだから三輪秀次は、かわいそうなんかではなかった。
「オレを恨んでさ」
 だからこれは憐れんだからなんかじゃない。
「秀次がオレを恨んでオレを憎んでオレを殺してそうじゃなきゃオレが秀次を殺して……」
 ひとつのものに、なればよかった。
 まるで地続きの存在のよう、もうひとりの自分のよう。そうしてもうひとりの自分を殺して、ひとつのものになればよかった。
「……二輪くんと、……陽一くん」
 二輪くんと彼の兄。架空の米屋陽介の名前をつける。陽一くんは二輪くんの理想のお兄ちゃんで、陽一くんは二輪くんを大事に甘やかして、二輪くんはかわいそうなんかじゃなくてかわいそうな要素はひとつもなくてだから陽一くんは二輪くんを可愛がるだけでいい。かわいそうだなんて、思わなくていいんだ。
 そして二輪くんも陽一くんも、陽介が呑み込んで、陽介のものになってしまった。
 陽介は息をついて、ポケットをさぐった。煙草に火をつけた。夜のなかでライターの火は激しく燃えた。目を閉じて煙草を吸った。セックスを終えたあとのように煙草を吸って、そうしていまここにいる、米屋陽介のことを考えた。二輪くんでも陽一くんでもない、そして三輪秀次でもない、米屋陽介のことを。
 遠くから、バイク音が聞こえていた。それは徐々に近づいてきて、校門前で止まった。小さな影が走り出て、屋上に向かって、陽介の煙草の灯に向かって、手を振った。陽介は目を丸くし、そして、「章平」と呟いた。
 息を切らして階段を駆け上がってきた古寺は換装していなかった。狙撃手だから、換装してしまえば身軽に飛び上がってこれたのだろうに、任務以外では使わないところが律義でいいと思った。手を振って迎え、親指で、止まったままのバイクを指し示す。
「あれ当真さん?」
「そう、です」
「狙撃手仲いいな」
「奈良坂先輩には秘密にしてください、黙って出てきたんです」
「へー」
「心配かけて叱られますから……」
「はいはい」
 古寺は、はー、はー、と息をつき、それから、きっと顔をあげて陽介を、ほとんど睨み据えるように見つめた。
「米屋先輩が、このままどこかに消えてしまって、帰ってこられないと、困るので、迎えに来ました」
「……なに。誰情報?」
「……迅さんです」
「あの人ろくなこと言わねえなあ!」
 手を伸ばして、頭をぐしぐしと撫でてやった。やめてください、と振り払われる。
「おれは、ほんと、心配して……」
「はいはい。ごめん」
 でも、たしかに、迅悠一の目には、その分岐が見えたのだろう。このまま二度と三輪隊にもボーダーにも三門市にも帰らない米屋陽介が、見えたのだろう。そしてその未来はこうやって潰されて、陽介はもはやそれを選ばない。はは、と笑い、陽介はもう一度、「ごめん」と言った。
「……無抵抗だったって」
「なに?」
「三輪先輩が米屋先輩を攻撃してる間ずっと、無抵抗だったって、ほんとですか」
「うん」
「死ぬとは、……殺される、とは、思わなかったんですか」
 陽介はゆびさきに挟んだ煙草を見つめ、それから、煙草を携帯灰皿に押し込んだ。携帯灰皿をポケットに戻してから、うん、と答えた。
「べつに、それでもいいかなって。怒るなよ章平、オレはさ秀次に、殺されてもいいかなって思ったんだよ。つーかさ、オレが近界民だったら、秀次はオレを、殺してくれんのかなって」
「死にたかった?」
「たぶん」
「違うか、……違いますよね。殺されたかった」
「うん」
「今でも?」
「……秀次をかわいそうだと思わずに済んだらいいのにな」
 かわいそうなんかじゃないのに。
 まったくの暗闇で、月の光ばかりが頼りだ。下弦の、たよりないかたちの月だった。うすい光のなかで古寺はじっと陽介を見つめ、ふと、笑った。
「それは、先輩が、三輪先輩のことを、とても好きだっていうことですよね」
「うん」
 陽介も笑った。笑って、とても素直な気持ちで、言った。
「うん、そうだな、秀次が好きだよ」
 陽介の世界はもう二重写しになっては見えなかった。それを陽介は飲んでしまった。二輪くんと陽一くんは陽介の見た夢だった。まぎれもなく陽介の見た夢だった。そして彼らは死んだ。陽介が殺した。もうひとりのオレが、もうひとりのきみが、死んだ、夢を見ていた。
 オレが見ていた。
「……当真さんが、送ってってくれますから。帰りましょう」
「三人乗りすんのかよ、ヤンチャだなー」
「二人乗りまでは合法ですし、おれ寮で降りますから市街地からは先輩と当真さんだけですし、放棄地帯での違法行為が誰にバレるっていうんです?」
 陽介は声を立てて笑い、古寺の頭を軽くこづいた。「強気」
 
 ボーダーつき男子寮の入り口の前で、奈良坂はじっと立っていた。スマートフォンをつつくでもなく本を読むでもなくただ棒立ちになって、秀次が歩いて帰ってくるのを、じっと、見つめていた。秀次はその人形じみた無表情を見たとたん、自分がずいぶんと緊張していたことに気付いた。
 言葉は勝手に漏れた。
「俺はたぶん、もう人間ではないんだ」
「そうか」
 唐突な言葉に、奈良坂は驚いた様子はなかった。ただ頷く奈良坂に、秀次は言葉を重ねた。
「陽介に殺されてもいいと思った。陽介を殺してやってもいいと思った。それを願ったからあんな形になったということだろう、それをしてやってもいいと思った。そしてそんなことを考えるのはもはや、人間ではないのではないかと思った。人間であり続けることができなかった。これからもっとできなくなっていくかもしれない」
「その何がいけない?」
 奈良坂はまっすぐに秀次を見つめて言った。
「三輪、俺たちは兵器だ。その何がいけない? 俺はお前の隊に所属することを誇りに思う。おまえは俺を兵器としてしか扱わないだろう。俺はおまえを誇りに思う」
「それは死ぬことに似ていないか」
「どうせ俺は一度死んでいる」
 奈良坂はそのとき一瞬、視線を秀次から、どこか遠くへ逸らした。
「あの日俺の家に近界民が降ってきて、俺の家は消滅した。おまえの姉がそうだったように。あの日俺は死んだ。たぶん章平も死んだ。そしておまえもそうだろう、三輪」
「……そうだ」
「ここは俺たちが死んだのちの夢だ」
「そうだな」
 秀次は肯く。
 小学校で笑い合っていたもうひとりの陽介と幼い秀次。あそこにいた幸福そうな二人組は、あるいはどこかに存在している二人組だったかもしれない。あれはいったい誰の夢だったのだろう。陽介の? あるいは秀次の? あるいは両方の? いずれにせよ彼らを殺せと秀次は命じ、陽介はそれに従った。そしてそれが正解だった。秀次は陽介を取り戻した。
 三輪秀次は米屋陽介の持ち主に戻った。それでおしまい。
 めでたしめでたし。
 これが秀次の世界で、これが全てだ。
「そうだな、奈良坂。俺もそう思っていた。なにもかもすべて、悪い夢だ」
 秀次は、できる限りまっすぐに奈良坂を見返す。奈良坂と同じように、迷いのない目で、奈良坂を見返す。
「ここは悪い夢だ。もうひとりの俺が死んだ悪い夢を生きるしかない」
 ありがとう、と秀次は呟いた。
「俺の隊がここにあってよかった。ありがとう」
「……おかえり」
 奈良坂透はそう言った。
 家族のように。



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