5、悪い夢を生きる

 それは夏の出来事だ。
 家のなかにいるのにぽっかりと突き抜けた空がある。姉が死んだ日、帰るべき家もなくした。両親が帰ってくるのを、姉の部屋で待っていた。姉が帰ってくるのを、姉の部屋で待っていた。そこを連れ出そうとする両親が、敵のように思えた。だって姉さんが、まだ帰ってきていない。
 三輪秀次の死んだ街で、米屋陽介に殺されたかった。それが夏の出来事だった。陽介が秀次の首に回した指にはまったく力が込められていなかった。陽介はぼんやりと秀次を見つめていた。傷つけた、と思った。俺が陽介を傷つけた、と思った。ごめん、と秀次は小さな声で言った。そうして陽介の体を押しのけた。陽介の体はとても軽く押しのけられた。体重を持たないもののように。
 暑い夏の日、秀次は陽介に殺されることができなかった。姉と同じ場所に、行くことができなかった。
 そしていまあの日姉を秀次から奪ったものと同じトリオン兵がそこに身を起こしている。
 ……俺はそれを求めることができる。そう、秀次はひどく明晰な心地で考える。俺は陽介に食われることができる。今度こそ、それができる。ここが俺の夢なのなら、それはかなえられて当然だ。そうじゃないか?
「陽介」
 秀次は振り返らず呟く。バムスターは低い声で応えた。
「どうして傷ついたんだ」
 その答えはいまは言葉にされない。わかっていて、だからこそ秀次はいま、それを問いかけた。陽介から言語能力が失われているからこそ、それをいま、問いかけた。
 米屋陽介に殺されたいと思った。米屋陽介との境目がわからないから、米屋陽介は三輪秀次であるというふうに思えたから、米屋陽介なら願いをかなえてくれると思った。
 傷つけたかったわけじゃなかったんだ。
 死んだ街を秀次は歩いている。死んだ街はいずれ途切れるはずだ。放棄地帯を抜けて警戒区域に入り、市街地へ抜ける。そのはずの道を秀次は歩いていて、鉄条網までやってきた。鉄条網を弧月で一閃した。
 切れたはずの鉄条網は、なんの手ごたえもなく、そこにそのまま存在していた。
「陽介」
 手を差し出す。バムスターはカッと呼気を吐いた。閃光はしかし壁に遮られたように唐突に消失した。
「外には出られないということか」
 秀次は声に出して確認する。「そうだな。当たり前だ。これが俺の夢なのなら当然そうする。おまえを外に出すわけにはいかない。放棄地帯内で始末するべきだ。辻褄が合っている。よくできた夢だ。できすぎだな」
 秀次はそこまで言って相棒を見上げた。
「夢ならもっと混乱していてもいいはずなのに。なあ」
 たぶん陽介ならここで、笑っただろう。いまそこにいる巨大なもののなかに米屋陽介の魂が宿っているのなら、陽介はいま、笑っているだろう。なあ、と秀次は呟きつづける。そんな小声でこの巨体に届くものだかわからないのに(わからないからこそ?)秀次は小さな声ばかり出している。
「なあ陽介、おまえがもしなにもしなかったら、俺たちはここに永遠にいられるだろうか。この夢のなかで永遠に閉じ込められていられるだろうか。俺たちは俺たちを閉じ込めたままでいられるだろうか。あいつらは皆俺たちを放っておいてくれるだろうか。俺はそれを望んだんだろうか、おまえと二人で、閉じ込められていることを。それとも、これは、俺ではなく、おまえの望んだことだろうか。これはおまえの夢なんだろうか。なあ陽介、これは、誰の夢だろう。……でも俺は」
 こんなにたくさんの言葉を、米屋陽介に向かって、いやむしろ姉が死んでからずっと、誰かに向かって語ったことは一度としてなかったような気がする、そう思いながら秀次は、ただ、小さな声で、喋りつづけた。静かな夜だった。彼らのほかには誰も存在しないような静かな夜の中で、秀次は遠く光る市街地のあかりを見つめている。
「でも俺は、いまとても、穏やかな気持ちでいる。まるで夢を見ているみたいに」
 こんなことを望んだはずはないのに。
 近界民は敵だ。近界民をすべて殺す。仇を討つ。それだけを思って生きてきたはずだった。殺すことができない近界民が秀次の唯一無二の相棒で、そうしてその世界に閉じ込められて出られなくなってなにもかもから遠く離れていることで、そらおそろしいほど安らいでいるなんて、そんなはずはないのに。
「……おまえが始めたことだから、おまえが決めていい」
 息を吸って、吐いた。傍らに立つ体を撫でた。そうして見上げて秀次は言った。あるいはこれは甘えかもしれなかった。
「おまえがおまえをその形に定義したんだろう。俺はおまえの定義に乗る。次の定義もおまえが決めろ。俺はそれに乗る。今度一回だけ、おまえに決めさせてやる」
 陽介、陽介と呼ぼう、陽介は秀次を見下ろし、ひとつの目でじっと、秀次を見つめた。
「選べ」
 それからゆっくりと方向転換をした。陽介がずるずると動いてゆくあとを、秀次は追った。夜の街をゆっくりと追っていった。トリオン体の視力補正された目は夜の闇のなかも良く見える。秀次は秀次の街を見つめる。
 そこに小学校がある。
 かつて秀次と姉が通った小学校がそこにある。は、と秀次は息をのみ、それから、陽介を置いて走り出した。
 六年生の教室。
 かつて姉が使った教室。かつて姉がそこにいて、そして秀次は姉の机だったその机にある日こっそりと蛇の絵を描いた。姉は巳年だったから。そんな理由、その程度の理由、それだけの理由、蛇は好きな動物だった。好きだった。そうだね。
 そうだ。
 六年生の教室の扉を開ける。
 そこには陽介と秀次がいる。
 おだやかな笑みを浮かべた米屋陽介は、秀次の知らない米屋陽介だ。誰か別の人間のようにしか見えない。戦うことを知らない、暴れまわることを知らない、鈍い光のこもった目で敵を見つめて笑うことを知らない、米屋陽介が、まるで平凡な子供のように笑っている。
 そしてそこにいる三輪秀次は、そうだ、わかる、秀次にはわかる、それは四年前、姉が死ぬ前、姉が死ぬ日、ゲートが開く直前まで、たしかに生きていた、あの、子供だ。
 陽介と秀次がそこにいる。まったく別個の陽介と秀次が。
 悪い、夢の、ように。
 彼らはとても幸福そうに、なにかを話していた。机に腰かけた秀次に陽介が笑いかけている。はっと気づくと、そこは真昼間の教室だ。そこにはたくさんの子供があふれている。皆楽しそうに笑い、なにかを話し合っている。なにひとつ秀次には聞こえない。トリオン体でそこに立ち尽くす秀次は完全な異物で、そして彼らに見えてすらいない。
 もうひとりの陽介があの日死んだ秀次の頭を撫でる。心から幸福そうな、愛おしそうな仕草で。
 姉のような仕草で。
 秀次は奥歯を噛み、それから、銃をホルダーから抜いた。彼らに向かって鉛弾を発射した。着弾を確認する前に秀次は跳び、机を蹴って、窓にアステロイドを射撃した。
 窓が輝きのように割れ、壁が崩れた。
「陽介!」
 それは、夏の出来事だ。
 秀次は陽介に殺されようとしてそれは成されなかった。殺してくれと一言も言わなかった、一言も言わなくても、陽介はそれを知っていた。繰り返し、繰り返し、死んだ街を歩くさなかに秀次がなにを求めていたのか、陽介はとなりでずっと、知っていた。
 あのとき成されなかったことを、今度こそ。
「陽介!」
 声ひとつでよかった。なにもかもすべてが接続されている。これは錯覚ではない。戦いのさなかでお互いの考えていることが分からなかったことなど一度もない。錯覚じゃない、訓練の成果だ。おまえがどんな形をしていようと。
 バムスターは大きく口を開き、口のなかに、ごくりと、ふたりの人間を、迎え入れた。
 もうひとりの陽介は、幼い秀次を腕に引き寄せて抱きしめていた。彼は笑みさえ浮かべて、バムスターを見上げていた。はっきりと、見ていた。彼はむしろそれを待っていたというふうにすら見えた。
 幼い秀次がどんな顔をしていたか秀次は確認することができなかった。
 呑み込まれたものがごくりと落ちていくところを秀次は、見えないはずなのにたしかに見たような気がした。
 そしてそれきりその大きな体はふっと秀次の視界から消失した。
 あとには、がらんと広いだけの、教室が残された。
 秀次は換装を解いた。その必要はないと思った。小豆色のマフラーの裾を握りしめ、ゆっくりと指をほどいた。息を吸って、吐いた。そうしてゆっくりと教室を出た。廊下を歩いて、階段を下った。
「全部、悪い夢だ」
 米屋陽介は笑っていた。
 学校の校庭に立っている陽介は、やけにちっぽけに見えた。秀次にまっすぐに笑いかけながら、陽介は言った。やさしい声だった。
「……忘れていいよ。全部悪い夢だ」
「忘れない」
 秀次は答えた。
 風が吹いて、ざらりと陽介のマフラーがなびいた。秀次は陽介を見返した。
「はじめからどうせ全部が悪夢だ。だから忘れない」
「オレがおまえを飲んだことも?」
「おまえがおまえ自身を飲んだことも」
「おまえが無邪気な子供だったことも?」
「俺がかつて何も知らない愚かな子供だったことも」
「オレが近界民だってことも?」
「おまえは敵じゃない」
 秀次はきっぱりと言い切った。迷いはなかった。
「たとえほかのすべてが俺の敵でも、おまえは俺の敵じゃない」
 は、と陽介は笑った。声を立てて笑って、そうして秀次も小さく、ごく小さく、笑った。その声に合わせるように、秀次の制服のポケットでスマートフォンがるるると音を立てた。笑い続ける陽介を尻目に秀次は電話に出た。
『任務完了よ、三輪くん』
 わかっている、と秀次は短く答えた。


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -