「これ何ですか?」
ペンだ、と透は答えた。その嘘はそのまま通用し、古寺はいまでもそのつるりとした銀色の物体をペンだと信じている。それをペンとして使っているところを一度も見たことがないにも関わらず。もちろんそれはペンではなかった。ペンにしては大きすぎたし重すぎた。それはテーブルの上で使うものではなく、寝室で使われるものだった。そしてそれはヴァージンだった。たぶんこれからもそのままだろう。当真がそのような面倒をあえて欲しがるとも思えなかった。もしあえて欲しがるとしても、この部屋に、透と古寺の男子寮の同室に、当真が来ること自体がありえないのだから、ここにある限りこれは永遠にヴァージンなのだ。可哀想に、と思ったあとで、いやそれはむしろ幸運だろうとも思った。面倒を背負わずに生きていける方がずっと、良いことのはずだった。
 もうおまえ来るな、と当真が言ったのが、先月のことだった。
 いつも楽しそうな顔をしてへらへらと笑っている男が、透をまっすぐに見てまじめな顔で、そう言った。だからといって透は騙されたつもりはなかった。ただ涙が突然流れ始めた。突然流れ始めて、止まらなかった。どうしてだかわからなかった。だらだらと流れていく涙を止めることができないまま、俺はどうしてこう愚かなんだろう、と透は思った。当真が真剣な顔をしているときに言っている言葉が嘘ではないはずがない。根拠はないがそうに違いない。だから透はそのまま当真の部屋――当真も同じ男子寮に住んでいる――を出て共同洗面所でじっと涙が止まるまで待ち、顔を洗った。だらだらと泣いている透を見て寮生がぎょっとした顔をすることには頓着しなかった。どうでもよかった。なにもかもがどうでもよかった。当真がほんとうに真剣な気持ちでいたとしても。
 傷つく必要はなかった。ないはずだった。だから透は顔を洗って当真の部屋に戻り、いつもどおりへらへらと笑いながら透を出迎えた当真に向かって、「冗談だったんだな?」と確認することさえできた。
「うん」
 当真は、まるで、邪気のない子供であるかのように、そう言って笑った。それからもう一回おこなった。二回以上おこなうことは珍しかった。いつだって当真はべつに乗り気ではないのだ、ただ透がやってきてやりたいようにさせる精一杯の譲歩を見せているだけだ、それだって、透が当真に見せている執着を、面白がっているだけだ。
 執着。
 二度おこなったあと透は部屋に戻り、古寺が眠っている自室で、もう一度、やはり声を出さずに、しかしさっきよりもずっと激しい泣き方をした。
 当真勇は透の弱点だ。あの男は透の殺し方を熟知している。だからこそ当真に執着することをやめることができない。単なる執着でしかないと透は思っている、もしくは、思おうとしている。思おうとしているだけだといつだか三輪が言いかけて、けれど三輪はその言葉を完遂させないまま口をつぐんだ。三輪は同類だ、そう透は思った。三輪も同類だ、執着が人間を生かす、生かす理由だ、死ぬことに理由などいらないのだから、生きる理由が必要だった。
 一か月前に当真が、もう部屋に来るなと言った。当真の部屋以外の場所で彼らは何もしないのに、だからそれは死刑宣告と同じことなのに、そう言った。それから透は一度も、当真の部屋に行っていない。
 冗談だったんだな? そう確認したくせに。
 空気が、突然変わったような気がした。透は立ち上がった。背筋を這いあがる感覚に操られるように歩いて行って扉を開いた。
 そこには当真が立っていた。
 それを、たとえばサイドエフェクトみたいにして、透は事前に知っていた。だから当真が扉を開ける前に、透はさきに、扉を開くことができた。狂っている、と思った。全てが狂ってしまおうとしている。けれどそのほうが正しいのだ。
 きっとそのほうが正しいのだ。でなければ殺し合いのゲームなどやっていられるはずがない。
 夜の廊下の湿った空気のなかに、かちかちと点滅する蛍光灯を背景に、当真勇がそこに立っている。
 透は目をみひらいてそこにいた。当真は透をおしのけて部屋にはいった。やってきた。夜の廊下の湿った空気をまとわりつかせたまま、その空気を突然、まぎれもなく隠微なものにして、当真はそこに立っていた。執着だ。執着が起こす錯覚だ。だれも当真を見て隠微など嗅ぎとらないだろう。狂っているのは、透のほうだった。
 執着が人間を生かす。
 当真はまっすぐに透の机に向かい、その机の上に、まるで文鎮みたいにして置かれているそれ、銀色の、つるりとした、モニュメントか、でなければ大きすぎるペンのように見えなくもないそれを手にとって、ははっ、と、声を立てて笑った。その瞬間、透は、ぱくりと割れてしまったような気がした。体の奥の奥まで全部、この男は知っているのだと思えた。
 割れて壊れてばらばらになったまま、透は声を出している。
「章平」
「はっ、はい」
「悪いが外してくれないか」
 はい、わかりました、そう言いながら古寺が出てゆく。透はじっと当真だけを見ている。俺の生きる意味がここにある。当真がまっすぐに透を見る。当真は笑っている。いつもどおりに。手に銀色のものを手にしている。それはもうじきヴァージンを喪失する。これはペンですか?
 いいえ、それは狂気です。


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