4、悪い夢

 思い出す。
 それは夏の出来事だ。電信柱のある角を曲がると、唐突に瓦礫がある。半壊のその家に、陽介と秀次は足を踏み入れた。壊れて原型を留めていない、かろうじて柱が残った場所を指さして、秀次が言った。
「ここだ」
 それがどういう意味だか、陽介はそのとき、はっきりと理解した。
 そこが秀次の姉の部屋だということを、秀次が言葉にする必要はなかった。
 秀次が瓦礫のなかに転がる。転がって、陽介を見上げる。かつて家だった場所、かつて部屋だった場所、かつて少女がそこで暮らしていた空間、そこに秀次は死体のように転がっていて、陽介を見上げている。陽介は自分がなにをすべきなのか理解している。完全に理解しているやるなら首だ。首を狙おう。秀次は抵抗をしない。
 夏に起こった出来事だ。
 秀次は陽介のすることに、抵抗をしない。陽介が秀次のすることに抵抗をしないのと、それは、同じことだった。
 死んだ街を歩き回るのが習慣のようになっていた。死んだ街を歩き回って秀次は死んだ街をじっと見つめ、そしてなにかを探していた。その隣を歩きながら、そしてその街のあらゆる場所で秀次を犯しながら、陽介は繰り返し、「死のうか」と尋ねた。
「死なない」と秀次はいつも応えた。
 そうだ。結局決めていたのは秀次だった。結局秀次が決めて秀次が選んで、それに陽介は諾々と従ってきた。近界民は敵だと秀次は言う、陽介はそれに肯く思想は持たない。必要がない。陽介の家族も従姉妹たちも死ななかった。陽介は一度も傷ついていない。陽介は傷ついたことがないしこれからも傷つかない。それは三輪秀次の役目だ。必要がない。傷つく必要がない。それは三輪秀次の役目だ。
 だからおまえはいつまでたっても向こう側なんだと出水公平が嘲る声がきこえる。
 それは夏の出来事だ。かつて秀次姉の部屋だった場所に転がった秀次を犯しながら陽介は、秀次の首に指を絡めた。指に力を込めて、殺そうとした。
 その場所にいま、陽介は立って、秀次を見返している。秀次ならここにくるだろうとわかっていた。気づいてもらえるかどうかは自信がなかった。変質してしまった陽介が陽介であると、秀次が気づくかどうかは、まったくわからなかった。けれど気づかれないならそれでもいいと思った。
 あの日陽介が秀次を殺そうとしたように、秀次が陽介を殺すなら、それでもいいと思った。
 世界が二重写しになって見える。
 世界のごく断片がそう見えていただけだったはずの陽介の世界はいまや変質し、現在の陽介にとって、世界のすべてが、二重写しになっていた。認識されるすべてが、なにもかも、二重写しになって見える。
 ゆっくりと歩くと、道行く猫も虫も、ごく小さなきらきらとしたキューブの形を体のなかに持っているとわかった。それは陽介が別の生き物、そのキューブを捕食するための生き物になっているという事実を示していた。なるほどと陽介は思う。なるほど、バムスターの視界っていうのは、こんなもんだったのか。
 世界の生命体のすべてが光るキューブの形をして見え、そしてたったひとり陽介の目の前にいる人間は、光るキューブと同じ色をして、陽介の目の前にあった。光るキューブと同じ色をして光っている、三輪秀次がそこにいた。たぶんそれは、陽介にとって秀次が特別だということだった。あるいは、陽介の人間としての名残が、そのような視界として残っているともいえた。だってそうだろう。トリオン兵は自律した意思を持たない、そう講習を受けた、たしかに。
 そしていまここにいるのは一匹のバムスターであり、けれどそれは同時に、米屋陽介なのだった。
 そこは、かつて三輪秀次の自宅だった場所だ。
 そこに、三輪秀次が立っている。
 そして、三輪秀次が陽介を見上げている。見上げて、陽介、と呼んだ。陽介が瓦礫のなかから掘り起こした汚れたマフラーを指につかんで、陽介、とたしかに呼んだ。
 秀次は、拾い上げたマフラーを指に掴んだまま、ゆびさきで耳をおさえて通信をしている。ああじゃあこれは現実なんだな、と陽介は思う。愚鈍な動きしかできない体。自分が近界民であるこの世界は、現実なのだ。秀次が通信をしている。まるで交戦をすることが、当然のことであるかのように。当然のことだろう。俺がこうなった以上、秀次はオレを殺すだろう。当然のことだ。
 近界民はすべて敵なのだから。
 オレは近界民なんだ。そう言ったとき秀次はなにも感じていない顔をしていた。陽介が何も言わなかったかのように、聞こえないふりをして、そのまま、夕食に何を摂るかについて、話を戻した。なにも感じていない、なにも聞こえなかった、なにも知らない、そういう顔をして、きれいに陽介の言葉を無視した。そのことに陽介は安堵した。安堵したはずだった。秀次は強いものなのだと陽介はそのとき思った。三輪秀次は強いものだからなにも気にしなくていい。なにを?
 なにを、気にしなくていい、と、陽介は思ったのだろう。
 陽介はちいさく身じろぎをする。寒さは感じていないはずなのに、寒気がした。秀次は眉をひそめて、通信に耳を傾けている。空を見上げる。空はずっと遠くにある。

『悪い夢を見ているのよ』
 そう、月見蓮は言った。
「具体的に言ってくれ」
『具体的に言わないでくれって言われてるんだけど』
「誰に」
『あなたの嫌いな人』
 聞いて秀次は舌打ちをした。迅だ。あいつはこの顛末を視ていてそれを黙っていたのだ。なにが信じたことを裏切るなだ。そしておそらく俺は「裏切らなかった」のだろう、と思うとますます癪に障った。さっき秀次はたしかに迅の言葉を思い出していた。そして信じられるものなどほかにないとたしかに、考えていた。
「月見さん、ここにバムスターが一匹いる」
『ええ』
「それは観測されているのか?」
『そうとも言えるし、そうではないとも言える。そこにあるのはバムスターの反応ではないわ』
「どういうことだ」
『わかっているんでしょう。そこにいるのは陽介くんよ』
 秀次は眉をひそめた。そう言われることは(不快を承知で言ってしまえば迅悠一さながらに)理解していたにも関わらず。
『そこにいるのはたしかに陽介くん本人よ』
「……どういう、ことだ」
『詳しいことは明かさないほうがいいという話だから、すべてが終わってから。ただ、今あなたが知るべきことを教えるわね』
「どうしてあなたまで迅の肩を持つ」
 ふふっ、と堪え切れないように月見は笑い、どこか愉快そうな声で、『同級生だもの』と答えた。『わたしたちが仲が良くてお生憎様、どっちを向いても敵ばかりで苦労が多いわね、隊長。でも別に肩を持っているわけではないのよ。わたしはただあなたをオペレーションしているだけよ』
「まじめにやれ」
『あなたほどまじめにはなれないわね』
「なんども言わせるな。どういうことだ」
『あなたたちは今、あなたたちの見ている悪い夢のなかにいる。あなたたちの願い通りのことがそこでは起こる。陽介くんはそういう夢を見たから、バムスターの姿をしているし、あなたはそういう夢を見たから、陽介くんを殺すことができない。たぶんほかにもいろいろな事象があなたたちの周りにあるでしょう。それはあなたたちの夢だから、あなたたちの力でそこから覚めなくてはならない』
「介入はできないのか」
『しないでくれって言った人がいるのよ』
 舌打ちをした。「……余計なことを」
『あなたにとっては苛立たしいことでしょうけど、この現象は玉狛支部の観測下にあって、あなたたちが危険行為に及ぼうとした場合は動く用意があるそうよ』
 危険行為とは何のことだ。秀次は問いを口にしかけてやめた。口を閉ざした。どうせ情報は規制され、未来は監視され、そしてあの男がやってくる手筈なのだろう。へらへらと笑う顔を務めて脳裏から追い払い、耳元から指を離した。
『ちゃんと帰ってきてくださいね』
 月見は最後にそう言った。
 悪い夢。
 秀次は改めて、そこにそびえ立つバムスターを見上げる。つるりとした体に、つ、と手を伸ばした。そんな風にその生き物に触れたことはなかった。いや、生き物ではないのだ、生きていないことを、秀次は知っている。これはただの機械なのだと教育を受けている。近界民というのは正確にはこれを指す言葉ではない。これはただのトリオン兵だ。A級に上がれば知らされることも増える、隊長になってもっと増える、どんどん教えられる、憎むべき存在が焦点化していく、したくなど、ないのに。
 秀次が憎むべきなのはこの愚鈍な姿をした大きな兵器であって、これが秀次の姉を殺した。
 秀次は黙ってその体を撫でた。つるつると、ただ、撫でた。これはただの機械の形態にすぎない。近界民とは本当は人間の形をしている。人型と呼んでいるのがそれで、遠征に行く連中はそれと戦って殺している。だから。
 米屋陽介が、ほんとうに、近界民であるとしたら、こんなかたちをしている、はずが、ない、の、だった。
「……陽介おまえは」
 秀次は小声でつぶやいた。陽介の大きな体がその声をとらえることができたかどうかわからない。なにしろいまの陽介にとって秀次はほんとうにちっぽけな、それこそハムスターみたいなものなのだし、小さな、かすかな、鳴き声にしか聞こえなかったかもしれない。
「陽介、おまえは、救いようのない馬鹿だ」
 しかし陽介はその声を聞いたかのように、また、首にあたるあたりを動かして、肯いた、ように、見えた。
 どうせ初めからすべてが悪夢なのだ、と秀次は思う。撫でた体はつるりと滑り、秀次はこつりとその体表を叩く。馬鹿だと思った。そうして秀次はゆっくりと首に、マフラーを巻いた。埃の匂いがした。
「陽介」
 顔を上げる。
「来い」
 バムスターは身じろいだ。


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