3、酔生夢死

 その瞬間、何かを感じたか?
 わからない。感じたともいえるし、感じなかったともいえる。秀次は一瞬の寒気を感じ、振り返った。そのとき感じた、腹の底から撫でられて内臓に指を触れられたような痛みは、いくらなんでも過剰だった。あるいは、それが。
 城戸司令の執務室の前で、立ち止まって、考え込んでいた。そんな場所にいるべきではなかったのだ。そんな場所にいたから発見されてしまう。もっと守られて安全な場所に、移動しているべきだった。少なくとも足音に気づいて、逃げ出すことだってできたはずなのに。……逃げ出す?
 そんなことはできない。秀次は適切なレベルの無表情で歩いてくる彼を迎えた。
 そこには迅悠一がいた。
 この世界の人間で秀次は最もこの男が嫌いだった。はっきりと嫌いだと自覚してその感情は明晰で、だから会話を交わす必要などひとつもないのに迅はふらふらと秀次のそばに現れた。そのときも秀次に迅は笑いかけた。ひどく親しげに。兄かなにかでもあるかのように。
「長い夜になるぜ」
 迅は、そう言った。
 なにを言っているのか、秀次はほとんど理解していなかった。頭の中がからっぽで、空虚な憤怒がふわふわと湧き上がって、嫌悪感ばかりがあって、そして、これは、どうも、おかしい、と思っていた。迅悠一が秀次は嫌いだ。世界一嫌いだ、けれどこれは、あまりにも過剰な反応ではないか。ただ迅悠一の姿を見ただけでいらだちが募る。まるで憤怒しか感じないシステムに作り替えられてしまったかのように。
 迅は託宣を与える巫の顔でぞっとするほど優しげに笑い、「秀次、俺はおまえに会いに寄ったんだけどな」と言った。
「信じてるものに裏切られたと思っても、自分が信じたことだけは、裏切らないようにな」
「……何の、話だ」
「これ以上言ったらおまえ怒るだろ? いや、もう怒ってんのかな。そんだけ、じゃあな」
 手を振って迅が、くるりときびすを返して去ってゆく。ほんとうに、それだけだったらしい、司令に用があったわけでもなかったらしい、青いジャージを着た背中が去っていき角を曲がって見えなくなったところで、全身の力が抜けた。緊張していたのだとはじめて気づいた。緊張。指がトリガーに触れて、掴んで、握り締めていた。指が、トリガーを、握り締めていたのだ。どうして。
 どうしてだ。
 全身が弛緩したとたん、腹から喉をせり上がって、急速にやってきた嘔吐感があった。秀次は慌てずてのひらでくちもとを覆い、足早にトイレを目指した。
 吐き気を催すこと自体は珍しいことではなかった。フラッシュバックする過去の記憶にめまいを起こして吐き出すとき吐くべきものがそこに詰まっていないと苦しみが増すから食ったほうが良いということもきちんと学んだ四年だった。
 その階のトイレにかけこみ、陽介とふたりで摂った食事をあらかた吐き出して咳き込みながら、秀次は、こんなのはおかしい、と、思っている。
 なにを思い出したわけでもない。
 迅悠一に会っただけだ。
 彼が口にしている言葉の意味すら理解できないほどに沸騰していた。
 スイッチが入った、みたいに。
 嘔吐したことで疲弊していた。すとんとトイレの床に腰をおろし、秀次は、陽介の、せいだろうか、と思った。スイッチを、入れられた。陽介はいつも俺のスイッチを、入れるから。
 それがその瞬間だったか?
 わからない。ただ秀次はざわざわと沸騰する感覚を抱えて白い天井を見上げていた。白い天井はそこにもあり、そして秀次はトリガーを握り締めてごく小さな声で、陽介、と、呼んでいた。

 奈良坂透にLINEメッセージを送った。
 出かけてくる、と秀次は言った。
 奈良坂と秀次は、ボーダー本部付男子寮の同室を使っている。夜間勤務の兼ね合いで寮には門限は存在しないが、同室の人間にくらい連絡を入れておかなくてはならない。夜帰れないかもしれないときは特に。帰れない? どうしてそんなことを思ったのだろう。
 頭を冷やしてくる、と秀次は奈良坂に書き送った。返信はなかった。
 ボーダー本部をあとにする。夜を徹して空を監視し続けるこの建物もまた閉ざされることはなくいつも鈍い光をうちがわから放っている。そこにそれは存在する。常に。この街の中心に。
 秀次はそのことを恨まなかった。秀次はあらゆる選択肢のなかから、この街の中心となりシンボルとなった「そちら側」に立つことをえらんだ。秀次の姉を救えなかったボーダーを憎むことではなく、秀次の姉を殺した近界民を憎むことを選んだ。あの日秀次を救わなかった迅悠一や彼の所属する「裏切り者の」玉狛支部と共闘することになったとしてもそれを選んだ。殴られたら自分の力で殴り返すしかない。それ以外に信じられるものはなにもない。
 秀次は強くなることを選び、ジムに通って体を鍛え、訓練室でトライアンドエラーを繰り返し、チームを組み、新しい武器を作った。防衛隊員全員が高校生で構成された、秀次のためのチームを作った。
 秀次は強くなることを選び、狂ったように戦闘を繰り返し、そうしてそこに笑いながら、米屋陽介が現れた。なあ楽しいよな、と陽介は言った。なあ楽しいよな、オレたちってさ、似てると思うよ、戦うのが楽しくてここにいる。近界民が殺したくてたまんなくてここにいる、そうだろ? そんなやつほかにはいない、だからオレはおまえの、チームメイトになりたいと思ってる。オレも近界民殺したいんだよ、チーム組もうぜ。
 おまえみたいに狂ってるやつ、オレみたいに狂ってるやつ、ほかにはいないよ。
「……ほかには、いないよ」
 記憶に残る言葉を繰り返す。夜の闇に向かって繰り返す。実際にはたぶんそんなことはないのだろう。それは錯覚なのだろう。戦闘狂なんて珍しくもないのだろう。……そうだろうか。本当に?
 本当に米屋陽介の相棒には三輪秀次しか存在しないだろうか。そうならいいなと思った。そうならいいなという気持ちに縋るようにして、夜の風に吹かれていた。
 夜の放棄地帯を歩き回ることが、習慣のようになっていた。
 陽介、と秀次はメッセージを送った。夜の放棄地帯を歩くことは、陽介と秀次の習慣だったから、そこに、米屋陽介がいるべきだと思った。いますぐ米屋陽介が、ここにいるべきだと思った。
 けれどその晩、陽介はメッセージに返事をよこさなかった。既読がつかないLINEの画面をみつめてから、秀次はスマートフォンの画面を、白色に光らせて、懐中電灯がわりに道を照らした。なにも考えないようにしよう、と思った。ただ放棄地帯を見つめていればいい。なにも考えずにからっぽになって、放棄地帯を見つめて、それからそこから自然に湧き上がってくるものに向き合えばいい。それだけでいい。純度の高い憎しみだけがあればよかった。
 放棄地帯を歩き回るのは彼の習慣だった。ここは三輪秀次の街であり、三輪秀次が放棄しなくてはならなかった街であり、彼の姉が放棄されて永遠にとどまっている街だった。放棄地帯を歩き回らなくてはならなかった。そこは彼の街だった。秀次の両親は市外に新しい家を持つと決め、秀次はそれに従わなかった。秀次は生きている両親より死んだ姉を選んでここにいる。姉とともに死んでしまった自分自身を選んでここにいる。秀次にはほかになにも残されていないからここにいる。放棄地帯にいる。秀次の街、死んだ街に。
 死の中にいて死に続けている。
 そうして、だから、米屋陽介は、秀次を見つけて、秀次のものに、なったのだ。死に続けている秀次だからこそ。
 スマートフォンの白い光が道を照らしている。秀次は瓦礫を除け、道の真ん中を歩く。小学校がある。中学校がある。かつて買い物をしたコンビニがあり、スーパーがある。電柱の一本すらも見慣れた道がある。そして。
「……!」
 飲んだ、息よりはやく、トリガー起動、と小声が響いた。ほとんど無意識に言っていた。……バムスター。一匹。どうして。
 考えるのはあとでいい。
 そこに突然現れたバムスター一匹の、露出した目玉のような幹部を狙って、換装したままの勢いで秀次は跳んだ。弧月をたたきつける。簡単だ、バムスターならこれだけで。
 これだけで。
「……なに?」
 たしかに入ったはずの刀が、ずぶりと沈んでそれから、顔を上げた先に、傷ひとつないバムスターがまだ、身を起こしていた。口を開く。低いうなりを漏らした。秀次は眉をひそめる。銃を手にし、アステロイドを撃った。着弾した弾はしかし、やはりずぶずぶとバムスターに沈んでゆくばかりで、なんの手ごたえもなかった。秀次は舌打ちをし、間合いを取った。片耳に指をおいて通信を呼ぶ。「本部、聞こえるか本部」
 返信はない。
 ……なにひとつ、返信が、返ってきていない。そのことにそのとき秀次ははじめて気づく。放棄地帯に足を踏み入れてから、いや、迅と別れてから? 奈良坂、陽介、そしていま本部への通信も、秀次の声はすべて、まるで目の前のバムスターのなかに呑み込まれてゆくように、消えて沈んでいっているようだった。
「……新手の、攻撃か……?」
 秀次は間合いを図り、バムスターを見つめた。そして、妙だ、と思った。バムスターはそこを動こうとしない。そこ。そこは。
「……そこから、離れろ、化け物」
 低く鋭く、秀次は声を上げた。体がちりちりと痛む感覚があった。腹の底から撫でてゆく、とがった爪の感覚。内臓を舐められるような。
 見慣れた電柱見慣れた塀、それから唐突に崩れた家。瓦礫だけが残されたそこはかつて、秀次の、家だった場所だ。
 いま近界民がじっとうずくまっているそこは、秀次の、姉の、部屋が、あった場所だ。
「そこを離れろ!」
 秀次は声を上げた。
 バムスターは、奇妙な反応をした。
 そいつは、首を、振ったようだった。秀次の声を、理解したかのように。そうしてかがみこんだバムスターは、秀次に向かって首を伸ばした。秀次は身を引こうとし、そうして、目を見開いた。
 バムスターは口にくわえたなにかを、そこに、秀次の目の前の地面に、置いた。
 どすん、と、心音が、妙に歪んで聞こえた気がした。
(信じてるものに裏切られたと思っても、自分が信じたことだけは、裏切らないようにな)
 迅の声が歪んで耳の中に残響してゆく。信じているもの。そんなものは自分自身以外になにもない。なにもない。自分以外に、
 信じられるものは、
 何も。
 ……何もかもすべてがよくわかる。通じ合っている。米屋陽介は三輪秀次のために存在している。そして三輪秀次は米屋陽介のために存在している、ような、錯覚を、する、何もかも、全てが。
 秀次はかつて陽介をここに連れてきたことがある。秀次はかつて陽介に姉の写真を見せたことがある。秀次はかつて陽介に、それが姉のものだと知らせたことがある。秀次はかつて陽介とふたりでここにいたことがある。それは彼らの特別な記憶だった。
 そして今日米屋陽介は、秀次に向かって、自分は、近界民だ、と、言ったのだ。
 米屋陽介といると何もかもすべてがよくわかるような気がする。米屋陽介が三輪秀次自身で、あるかのように。
「……陽介」
 声は勝手に確信を抱いた。秀次はその名を呼んだ。自分自身の名を呼ぶことと、同じこと、だと、思った。
「陽介」
 バムスターがもういちど、身をかがめた。
 肯いたのだ、と、秀次は、思った。
 秀次はかがみこみ、そこに置かれたものを拾い上げた。小豆色のマフラー。
 姉のものだ。

 それを拾い上げた瞬間、耳の奥でノイズが奔り、誰かが秀次の名を呼んだ。
『三輪くん』
 月見蓮の声だった。


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