2、都合の良い夢

「それはただ単にあなたに甘えているだけでしょう」
 月見蓮は微笑みながらそう言った。「振り回したいだけよ、男の子ってそういうものよ」
 月見蓮の、水泳帽のなかにぽってりとおさまった長い髪ばかりを、秀次は見つめてしまう。それが連想させるものを、しかし秀次は直視せず目を逸らそうとする。すらりと長い足をプールサイドで惜しげもなく投げ出している月見は、秀次の表情を推し量って「あら」と言い、くすりと小さく笑った。
「ごめんなさいね、隊長」
「……なにがだ」
 月見はほとんど無表情に近いしかし艶然とした表情を浮かべて、水辺に住み着く生き物のようになめらかにするりと水のなかに身を投じた。加虐的な女だ、と秀次は思う。月見蓮は愚鈍を嘲り、無能を嘲り、それでいて愚鈍や無能を愛玩するだけの余力を備えて手のひらのなかで弄んでいる、弄ばれている筆頭がおそらく自分だろうと秀次は思っている。「愚鈍でも無能でもない子が一番好きよ」といつか、月見は笑いながら言った。「馬鹿はいいのよ、愚鈍ではない子がいいわね、あなたにその能力があるかどうかはわたしの知るところではないけれど」
 嬲られることを良しとしているわけではなかったが、実際月見は優秀な人間であり、聡明であり、付き合っていても不快感はなかった。加虐的なふるまいすらも、むしろ神経を昂ぶらせる良い刺激といえた。にも関わらず不機嫌な顔をしてしまうのは、彼女が年上の女だからという、それだけの理由に過ぎないのだと、秀次はすでに気づいている。年上の女と名のつくものが秀次は全体、苦手だ。
 しかし世界には姉的存在が溢れているように、秀次には思えるのだった。年上であることや女であることすら必須条件ではなかった。秀次にとって姉であれば彼らは姉だった。
 ほらたとえば、奈良坂透と古寺章平が連れ立って、プールにやってきている。奈良坂が古寺といるときのあのしぐさ、振り返るしぐさや見下ろして頷くあのしぐさ、あれはもはや秀次のなかでは姉だった。彼らは秀次のなかでは完璧に姉と弟であり、それゆえに、それだけの理由で、習字は奈良坂透を少し疎んじている自分に気づいている。不当な理由だと、気づいていたは。
 秀次の世界にはもはや、姉と弟しか存在しない、ときどき、そんな気分になることがある。
 更けかけている夕暮れのプールは寂しい。連れ立ってプールサイドを歩く彼らに気づかれる前に、秀次は水のなかに身を投じる。視界を流れてゆくプールの底のタイルを見つめながら、秀次は、俺はプールは苦手だ、と思った。月見蓮に話を聞いてもらうためにやってきたのだった。月見は夜、ボーダー本部付属のプールが閉まる地獄まで、いつもここにいる。
 俺はプールが嫌いだ、と秀次は思った。ジムのほうがずっといい、映画を観ていられる。目の前に目まぐるしく動くものがちらついていないと、おかしくなりそうだった。いや。
 もうすでにおかしくなっているのかもしれない。
 米屋陽介が、自分は近界民なのだ、と言った。
 もちろんそれはそれだけのことで、言ったというそれだけのことで、それ以上ではない。あるはずがない。米屋は市内に両親が健在で実家で暮らしている。従姉にあたる宇佐美栞という名前のオペレーターが隣市から通っていて玉狛支部に在籍している――よりによって玉狛支部に、と考えた途端に嫌なノイズが脳内を走り、秀次はクロールの腕を回す力を込めた。ばかばかしい。いくら玉狛が親近界派閥であっても、それは陽介には、関わりのないことだ。
 ただ単に甘えたいだけ。
 月見蓮はそう言った。そうなのだろう、多分。
 ちらちらと常に目の前を動き回るものが常に目の前を動き回るものが秀次の人生には必要で、米屋陽介がそういう存在であること、馬鹿ではあるが魯鈍ではないことは、たしかに秀次をいま、救っていた。
 ターン。いつか月見に言った言葉。目の前になにもないといけない、どうもいけない、考える必要がないことを考える。
 ――陽介は俺を闘争の理由にしていると思う。そのことを俺は嫌だとは思わない。陽介を俺はかわいいと思っている。……ちいさな弟みたいに。
 すてきね、と月見は笑って言った。最高だわ、あなたのそういうところが、わたしはとても好き、あなたはどんどん、馬鹿になってゆくみたい。月見は笑った。秀次は笑わなかったが、かわりに月見に笑ってもらえてどこか、安息した。この加虐心の強い女が結局、秀次は嫌いではなかった、すがっていると言っても、よかった。彼女は年上の女で区分としては姉に分類される存在ではあったが、それでも。
 この、ボーダーきっての才穎が、わざわざ三輪隊の(ソロランキングでもチーム戦でもけっして弱くはないが壁を越えることのできない若手チームである三輪隊の)オペレーターであることをえらんだ理由を秀次は知らない。知らないが、そこに月見がいることは秀次にとってひとつの救いだった。彼が、姉を連想させるすべてを、ぼんやりと嫌っていたとしても、それはまた、別の問題だった。
 三輪秀次はどんどん馬鹿になってゆく。
 夜のプールは寂しい。ターンして戻ってきた場所に、古寺章平がめがねなしでしゃがみこんでいて、目を細めて「あ、やっぱり三輪先輩だ、ですよね」と言った。「やっぱりそうでしたよ奈良坂さん」見上げるしぐさが愛らしい、と秀次は思う。
「米屋先輩もいたらよかったですね」
 奈良坂を見上げる古寺は都合の良い夢のように、弟じみている。

「いつまでも甘えて恥ずかしくねーの」
「恥ずかしくはない」
 はっきりと大きな声で、陽介は言い返した。ふーん、と出水は、これまたやけに大きな声で言い返した。
 出水はA級一位の高給(というほどのこともない、と出水は主張したがとにかく、十七歳の高校生が手にするような額ではない)を持て余した結果、今年の夏、ボーダー本部のすぐ脇にちいさな一軒家を買った。無駄遣いの局地、と陽介はそれを評した。ボーダー本部のすぐそばということはそこは放棄地帯であり、放棄された家であり、「だから安かったのだ」との弁だったが、つまりそれは「いつぶっ壊れてもわかんねーってことだろ」、つまり、そういうことだった。
 いつゲートが開いて、いつ近界民が落ちてくるかわからない場所、強固なトリオンで守られているわけでもなく簡単につぶれてしまうそんな家に、ほかでもない三門市民として育ってきて、それでも平気な顔をしてそんな家を選んで暮らしていられる出水公平の正気が疑われた。出水公平というのはしかし、そういう男なのだった。いつでも正気が疑われるように存在感が希薄で、なにも、考えて、いないように見える。
 まったく何も考えていないように見える。秀次にとっての姉とまでは言わないまでも、陽介にとっての戦闘の快楽という程度のことすら、出水公平は考えていないように思える。
 ともあれそこは出水の家の出水の部屋で、陽介は床に転がって腹筋をしていたし、出水はなにもせずにただたんに転がっていて、そしてふたりの視線の先には出水のタブレットが斜めに立てかけられてあった。映画が再生されている。佐鳥賢が荒船に勧められたのだというアクション映画。動画配信サイトに500円払って登録しさえすればいくらでも映画が観られる。便利な世の中、都合の良い世の中。
「ひとんちで体鍛えんのやめてもらえます?」
「いいだろ別に」
「臭い」
「ファブリーズしてから帰るし」
「いま臭い。弱くて頭も悪いとのべつくまなし努力が必要でかわいそうにな」
「やけに煽るじゃん」
「事実だろ」
「天才は人の心がなくて可愛そうだな」
「煽るね」
「事実だろ」
 はは、と出水は笑った。この会話はおしまい、という合図だった。
 二輪くんに会いたいな、と陽介は思った。秀次ではなく、二輪くんに会いたいな、と思った。二輪くんは幸福そうに見える。二輪くんはいつも普通だ。二輪くんはいつも楽しそうだ。二輪くんのいる世界、そちらがわのほうが、正しい世界のように思えることが、ときどきある。
 ときどき二重写しになったように、視界が重なって見える。サイドエフェクトと呼ばれるものなのかどうかはしらない。少なくとも四年前、入隊時の測定ではひっかからなかった。だからこれはたぶんトリオンとは関わりのないなにかなのだろうと思う。ときどき二重写しになったように、だれかが影を連れているところを陽介は見る。そして影を連れている人間に、陽介は、陽介でいいよ、と告げる。
 親しくしよう、敵意はない、おまえの連れてるそれに、興味がある。そういうつもりで陽介が、陽介でいいよ、と告げる相手がいくにんかいて、それが三輪隊と呼ばれるチームだった。たとえば奈良坂透はときどきギターを膝に載せている。たとえば古寺章平はときどきめがねをかけていない。たとえば月見蓮は小さな少女の姿をして小さな少年、たぶんそれは太刀川慶なのだけど、彼と手をつないで月見のあしもとにかがみこんでいる子供たちを、連れている。
 そして三輪秀次には二輪くんがいる。二輪くん、というのが、陽介のつけた名前だった。いつも幸福そうな、秀次より少しだけ年下の少年。その存在を鬱陶しいとおもいながら、同じだけ、その存在にどこかですがり始めている自分にも、陽介は気づいている。二輪くんはただしい。
 ただしい、のではないか。
「……腹筋やんねーのかよ」
 映画がいつのまにか終わっていた。陽介はだらりと体を弛緩させて天井を見上げていた。染みの多い、雄弁な天井だった。この天井なら秀次も気にいるかもしれないなと思った。
「すんなって言ったのはおまえだろ、弾撃つしか能のない弾バカには必要ねえからすんなって言ったろ」
「なにおまえやけに煽るけど今日生理? 三輪隊生理重そうな」
 脳に、直接差し込まれるような感覚があり、けれどそれがどんな理由の感覚なのか、わからなかった。陽介はゆるやかに笑った。笑って、「邪魔したな、帰る」と言って立ち上がった。放棄地帯を抜けて自宅へ帰る。自宅へかえって寝る。秀次から離れた場所で寝る。本部から離れた場所で寝る。そんなことができるということが信じられないような気持ちでいるのに米屋陽介は、強くなる方法ばかりを探していて、戦いたいと思っていて、闘争することばかり考えていて、けれどこの目の前にいる男には。
 のっそりと起き上がった出水は、玄関まで送り届けてくれた。扉にもたれかかったまま、出水は言った。
「そういや、……まだだれにも言うなよ、また遠征決まった」
「へえ、いいな遠征。俺も行きてえな」
「あのなあ槍バカ君、……おまえなんか一生行ける日来ねえよ」
 それを言ったとき、出水公平はひどくおだやかに、笑っていた。自明のことを告げる口調で、出水は言った。
「おまえには一生人型を殺れねえよ、米屋陽介クン」
 ざわ。
 ざわっ、と胸が騒ぐ感覚。陽介でいいよと、出水に告げたことがなかった。陽介は出水に、それを告げたことがなかった。一度も。陽介でいいよと出水に言わなかったこと、おうして、
「おまえなんか一生人殺しになれない向こう側なんだよ、陽介クン」
 ぱりん、となにかが割れた、感覚が、あった。
 出水が扉を閉めて、陽介はひとり取り残される。なんだ、と陽介は思う。あとずさりをして、門を抜ける。背中がだれかにぶつかる。振り返る。
 そこには陽介自身がいる。
 明るく微笑んで明るく笑ってひどく明るい目をして、そこにいる陽介は、目に、ハイライトがある。明るい目をした米屋陽介、まったくの別人になった米屋陽介が、陽介の目の前に立っている。そして陽介は気づく。自分の体がめりめりと裂けている。そしてそのなかから陽介は出てきたのだ。もうひとりの陽介は。
 もうひとりの陽介と比べて、二輪くんはまだ伸びきっていない体をしている。ふたりはまるで兄弟のように見える。ふたりは手を取り合っている。二輪くんの手を取ってしっかりとつないだ陽介が、笑っている。なんの苦しみも痛みも知らないかのような笑い方をしている。人をころす隠微な喜びになどなにひとつ興味がないかのような、健全極まりない顔をして、陽介と、そして楽しそうに笑う二輪くんが、手をとりあって、ふたりは、陽介の耳には聞こえない笑い声をあげて、駆けてゆく。
 夜道をきらきらと輝きながら、駆けてゆく。

 ――小さな弟みたいに。
 都合のいい夢をみている、ような気がする。そして都合のいい夢は同時に悪い夢でもあった。
 体が動く。連携をする。目配せのひとつすら必要がない。陽介は望み通りに動くだろう。秀次の動きにぴったりと寄り添うように、陽介は動くだろう。なにもかもすべてそのためにあるような気がする。米屋陽介は三輪秀次のために存在し、三輪秀次は米屋陽介のために存在し、三輪秀次の考えていることは米屋陽介にすべて伝わっており、そして米屋陽介の考えていることが三輪秀次にはすべて、わかる。
 ……ような気がする、おとは、おかしいのだった。それをもって月見は笑い、秀次を馬鹿と呼んでいるのだ。あなたどんどん馬鹿になっていく。知っている、と秀次は答えないが、答えることはあまりにも癪だから答えずにただ黙り込んでいるが、しかしそれは正鵠をついている。俺はどんどん馬鹿になってゆく。
 考えていることがなにもかもわかるのはおかしい。それは都合が良すぎる。
 そして、実際、考えていることが、なにもかもわかるわけが、ないのだ。
 そんなわけがなかった。ただ、そのほかのこと、わかり合えている以外のこと、秀次と陽介の利害関係が一致していること、彼らが闘争にしか興味を持たないこと、それ以外の部分、それ以外の世界の全てに、なんの興味も持てない。秀次と「秀次のかわいい弟」だけが全てでそれ以外はなにひとつわからなくていいと思っている、ただ、それだけ。
 三輪秀次は、かつて、姉の死とともに一度死んだのだと思う。そしていま秀次は死後の世界を生きている。死後の世界にやってくるまえ、生きていた頃の秀次が、陽介と関わろうとしたとは、まったく思えない。「死ぬ」前の秀次は平凡な子供で、漫画やゲームが好きですこし怖がりだった、天衣無縫な戦闘狂である米屋陽介と出会って関わるべき要素は、ひとつも、なかった。
 ましてや、陽介のことが「よくわかった」はずがない。たかだかそれだけの関係でしかないのだ。秀次がもし「死ななかったら」米屋陽介は三輪秀次にとって「他人だった」。
 わかっているはずがない。
 陽介がなにを思って自分は近界民だなどと言いだしたのか、理解することができない。
 秀次は自分が苛立っていることに気づいた。ひどい、周回遅れの、苛立ちだった。陽介はそんなことを言うべきではなかった。秀次がそれで傷つくのだと知っているのだから、たしかに陽介はそれを知らないはずがないのだから、陽介は秀次の都合の良い夢であることを自分で選んでそこにいるのだから、そんなことを言うべきではなかった。そう言われた秀次が苛立ちそして傷つくことを知らないわけがないのだから陽介は、
 ……そしてそこまで考えて秀次は、にぎりしめた拳をほどく。陽介の悪ふざけは褒められたことではないにしろそこまで腹を立てるほどのことでもない、それも、たしかだった。そしてそこにあるのが甘えだというのなら、それはむしろ、秀次にとってはまた、都合の良いことなのだった。なにしろ陽介は秀次の「かわいい弟」なのだから。
 秀次は三輪隊のオペレーションルームにいる。ここでこんなことをしていることがばれたら、月見蓮は笑うだろう。なんという馬鹿だろうと言ってよろこんで笑うことだろう。かわい弟。かわいい弟だと? ばかな。弟とはこんなことはしない。
 スマートフォンの画面を左手の指がゆっくりと繰る。それを見つめながら秀次は、オペレーションルームのベッドに転がって、手淫にふけっている。カメラを見ている写真、見ていない写真、陽介を構成するいつくもの要素、ばらばらにされた米屋陽介。陽介、と秀次は声を漏らした。寂しかった。夕暮れの街で笑いながら、陽介は秀次を、傷つけるために傷つけた。
 出して終わってティッシュペーパーをぼ磨こに捨てることはせずに鞄のなかに仕舞った。天井を見上げた。白い天井にはなんの模様もなく、秀次はまた、もっと目まぐるしいものを見なくては、と思った。
 俺は考えるべきではないことばかりを考えている。それをいますぐ、やめなくてはならない。そう思っているのに白い天井を、秀次は見上げて、陽介の言葉が突き刺さった場所をなんどもなんども撫で回すようにして、ぼんやり意識を飛ばしている。
 起き上がった。コンピュータを立ち上げた。書式を呼び出し、書類を書く。数日前のゲート発生についての報告書を見直し、気になっていた点を書き直した。それを手にオペレーションルームを出た。
 報告書はただの口実だった。口実さえあれば許されると知っていた、秀次は、城戸司令に目をかけられている自分を知っている。たぶん利害関係が一致しているからだ。延長コードのように都合良く、三輪秀次は城戸正宗の思想をトレスしているから都合が良かった。都合の良い保護者。秀次の復讐を絶対に否定しない都合の良い保護者。
 司令の執務室をノックし、そのささやかな口実についての報告を終えたあとで、秀次はできるだけさりげない口調をつとめながら切り出した。
「ひとつお伺いしても宜しいでしょうか」
 城戸は片目だけを秀次に向け、それから「言いたまえ」と告げた。
「仮に、友人に、自分は近界民なのだと告白された場合、司令なら、どう対処されますか」
「真偽を確かめしかるべき処置を取る」
 一瞬のためらいもなかった。迷いなく彼は答えた。ありがとうございます、と秀次は答えた。
 白い廊下に戻る。夜のはじまりに彼はいる。

 夜のはじまりに彼はいる。
 小さな建物がひどく小さく見える、と陽介は思う。俯瞰した位置から見下ろしているようだ。空を飛んでいるような、いや違う、自分の体が膨張しているのだと、陽介は気づく。みおろしている出水公平の家が小さく見える。押しつぶすことはとても簡単な、ほどに、小さく見える。
 なんだ、こんなに簡単なことだったのか、そう、陽介は思っている。腹を立てる必要も苛立つ必要も、傷つく必要さえない。ただ足を持ち上げてそれだけ。
 たったそれだけのことだ。
 米屋陽介のなかのなにかはぽっかりと失われ、そしてそこに一匹のトリオン兵、バムスターが一匹、残されている。


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